10/3から10/4まで、友人Mの墓参を兼ねて、鹿児島の旅を楽しむ。鹿児島市を訪れるのはこれで人生4回目ぐらいだが、ゆっくり観光したのは初めて。市内の交通は市電を利用。市の中心部は若者が多く、意外と活気があった。
土曜日昼のランチは、天文館の「和田屋」へ。刻みキャベツを入れた味噌ラーメン。
鹿児島ラーメンはトンコツスープと思い込んでいたが、Wikipedia によると「他の九州ラーメンと違い各店の個性が強く雛形的なラーメンが存在しない点が最大の特長」だという。この店の味噌ラーメンは、見た目にはパッとしないが、あっさりとしつつコクがあり、めんも太からず細からず、コシもあって、なかなかイケる。
墓参を終えたあと、夜は同じく天文館の薩摩郷土料理の店「吾愛人」。これで “わかな” と読む。由来は奄美の言葉で、“私の愛する人”。児童文学作家の椋鳩十が名付け親。ちなみに椋鳩十は長野の生まれだが、鹿児島で教員や図書館長、大学教員をしていた人。島尾敏雄とも交流があったとか。
アラカルトで頼んだ料理がすべて絶品。
きびなご刺身、地鶏刺身、かつおたたき、黒豚の桜島溶岩焼、黒豚とんこつ(角煮)、名物味噌おでん、ながらめ刺身、首折れサバの刺身などなど。「ながらめ」は店のメニューには「一口あわび」とあるがが、たぶん「とこぶし」のこと。たしかにあわびに似た食感。首折れサバも美味かった。
東京にも薩摩料理を謳う店はいくつかあるが、それとは別格の味。正直、薩摩料理を見直した。
翌日曜日は、レンタカーで、まずは薩摩半島を下る。山のなかをうねうねと往くスカイライン。稲刈りをほぼ終えた静かな山村風景を見やりながら、知覧町(南九州市)へと向かう。
知覧町では「特攻平和会館」 を見る。旧陸軍特別攻撃隊隊員の遺品や関係資料を展示し、当時の記録を後世に伝える施設で、私は一度は見ておきたかったところだ。
沖縄特攻作戦で散った兵士たちだけでなく、その前のレイテ島などフィリピンでの特攻隊の記録も残されている。最近は石原慎太郎が制作総指揮をとった映画の舞台としても知られ、そのポスターや撮影に使われた特攻機のモックアップなども展示されていた。
数千の写真、遺書、遺品などを見ていると胸が詰まる。隣で食い入るように遺書を読む若いご婦人は始終、鼻をすすりあげていた。ただ私の痛切な思いは、石原慎太郎などとは違って、彼らの特攻精神に感動してのものではない。想像を絶する犠牲の大きさ、その残酷性に心が暗くなるのだ。
「特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ、国は繁栄の道を進み...」と会館の資料にはあるが、戦史の客観的分析からすれば、当時の特攻隊の攻撃力ではたいした戦果を挙げることができなかったわけで、一口にいえば「無駄死に」だった。少なくとも沖縄決戦に至る前に停戦していれば、数千の若者は死ぬことはなかった。
若者たちを無駄死にさせた当時の軍や為政者の責任をどうとらえるのか。そのあたりのことは、この会館の展示には全く触れられていない。とはいえ、愚直さにおいて世界史にも希な、組織的自爆攻撃を記録することは重要であり、その意味においてのみ会館の存在価値はある。
知覧町の一角に江戸の街並み、武家屋敷群が残されていることは、それまで知らなかった。秋田の角館にも同様の街並みがあり、規模的にはそれに劣るが、保存状況がよく、なかなかいいものだった。
その後、一行は鹿児島市に戻り、フェリーで桜島に渡り、島を半周して、錦江湾東岸を北上しながら霧島方面に向かう。途中、地元の人しかほとんど知らない、「湯穴(つあな)温泉」 にも立ち寄る。濁ったカルシウム炭酸水素塩冷鉱泉。湯船の縁が鍾乳石みたいになっていて、蛇口から飲むと、たしかに甘い炭酸水の味がする。
霧島神宮を経て、もう一つ温泉に入り 、それから県内最古の木造駅舎「嘉例川駅(かれいがわえき)」 へ。最後は、鹿児島空港から帰京。
シアトル2日目(9/1)はセーフコ・フィールドで地元マリナーズ対LAエンジェルスの野球観戦である。
昼間、ベイエリアや、シアトル発祥の地といわれるパイオニアスクエアあたりをぷらぷらした後、結局、徒歩で球場に向かった。ふつうはバスを使うのだろうが、球場はダウンタウンの中心部からそう離れてはいない。結局、試合後もホテルまで30分ほど歩いて帰ってきた。
セーフコフィールドの手前に、アメフト・チーム「シアトル・シーホークス」の本拠地クウェスト・フィールドがある。球場の外郭にユーモラスな表情の巨大なオブジェが並んでいたので、パシャリ。こういう遊び心は、アメリカならではだ。
クウェスト・フィールドの隣が、セーフコ・フィールドだ。巨大な垂れ幕からみてもわかるように、イチローはチーム随一の人気者である。
17:30の開場まで時間があったので、正門が見えるバーで軽くビールなどを。平日の夕方だが、けっこう人がいる。そろそろ時間だと席を立とうとして、愛想のよいウエイトレスに「Check, please!」とお願いするのだが、なかなか伝票を持ってきてくれない。その替わりなぜか「鶏の照り焼き」のような料理を持ってくる。check が chicken に化けた一幕である。
文句を言ったらシナを作って困ったふうな顔をするので、「いいよ、テイクアウトするから」と言ってしまった。「これ、もしかして間違ったフリじゃねえか」とST君とあとあと疑心暗鬼になるのであるが……。
ともあれ、気分を直して正門とは反対側の Will Call の窓口へ。Will Call は「チケット会場ピックアップ」のこと。日本からTicket MasterのWebサイトで予約していたチケットをここで受け取るのだ。メールで受け取った注文票とクレジットカードを提示すればよい。パスポートが必要という情報もあったが、今回は不要だった。
ticketmaster.com では座席ブロックを指定できるので、イチローがよく見えるようにと、ライト側の低い席を指定していた。チケット代金は手数料込みで2人分96.74US$。東京ドームの同じ位置の席とほぼ同じぐらい料金だと思われる。
ただ、こちらはフィールドと観客席の位置が圧倒的に近い。一体感がある。これには驚いた。手を伸ばせばゴロも拾えそうだ。実際、選手のファールフライをキャッチしようと、大人も子どももグラブ持参の人が多い。
この日の午後は曇り空、ときおり雨がぱらつく悪天候だったが、試合開始が近づくと雨は止み、雲もしだいに晴れてきた。球場を覆う巨大な天蓋がゆっくりと動きだし、うっすらとあかね色の空がフィールドの上に広がってきた。日本でのテレビ中継でもおなじみの「ボッー」という警笛の音(港への引き込み線を通る貨物鉄道が鳴らしているようだ)も聞こえてきた。
招待客を招いての始球式やら、客に内野ベースを走らせるゲームやら、プレイボール前の雰囲気を盛り上げる工夫が上手い。私は、イチローファンというわけでもなく、ましてやマリナーズファンというわけでも実はないのだが、それでも次第に気分が盛り上がってきた。この日は、イチローの試合出場が怪我で危ぶまれていた。実際、試合開始前の練習には彼は登場していなかったように思う。ところが、スタメンのアナウンスで「イチロー!」のコールがあるではないか。よくよくみれば、51番の背番号が見える。9日ぶりのスタメン復帰である。「これで、なんとか元が取れましたね」とST君。
イチローはこの日もシュアなバッティングを見せて、2安打。ただ、プレイの様子はきわめて淡々としたもの。まるでトヨタ生産方式のような、ムリ・ムラ・ムダを省いたシンプルな動き。このあたりが大リーグで長持ちする秘訣なんだろうな。
試合は継投をうまくつなげた投手戦。シアトルが最小得点差で勝利。ホームラン・シーンはなかったが、ホームゲームを手堅く納めて、ファンは満足そうだった。日本のようなカネ、タイコの派手な応援はないが(私はこれが嫌いだ)、たんたんと楽しむ風情がいい。何はともあれ、アメリカの大衆文化の成熟した一面に触れた一日だった。
今回の旅程にシアトルを組み込んだのは、本場のベースボースの試合を観たいということもあったが、それ以上に、ここは我が父祖の地でもあるからだ。
私の父方の祖父は九州・佐賀の農家の生まれで、大正年間に米国西海岸に出稼ぎ移民として移住した。たどりついたのは、シアトル周辺、厳密にいうとシアトル南方のタコマ市だった。ここは日系移民がとりわけ多かった地域。そこで最初はクリーニング屋などを営みながら、その後は農園を経営していたという。我が父はその次男坊としてシアトルで生まれた。
「神戸港に着いた日は雪が降っていた。兄弟らは驚喜して、" Oh, snow, snow! " と英語で叫んだ」
幼いときから何度も聞かされていた父の日本帰国時の思い出だ。祖父母の米国移住への決意がどの程度だったか知らないが、子供たちの教育は日本で受けさせたいと、昭和に入ると3人の兄弟を一斉に船で帰国させた。その後、日米戦争の暗雲が漂い始めると、祖父母もまた日本に戻ることになる。もし一家が米国に骨を埋めるべく当地に残っていれば、日米開戦とともに強制収容所へ収監され、兵役年齢に達していた息子らは日系米軍兵士として最前線に送られたかもしれない。
もちろんそうなれば、私はいまのようなカタチではこの世には生まれていない。そして現実には、父は米軍兵士としてでなく、日本帝国陸軍兵士として大陸に渡ることになるのだが。
「父ちゃんはシアトル生まれ」
というのは、だから、私が幼少の頃から聞いていたわが家の来歴の重要なエピソードであり、その響きには少しばかりハイカラな雰囲気があって、友だちによく自慢したものだ。
ただ、それ以上の詳しい事情を私は詮索することはなかった。わざわざタコマまで足を伸ばし、父と祖父母の足跡をたどるというまでの気持ちもなかった。けれども、シアトルという街を一度は訪れてみたいという思いの底には、そうした父の記憶が多少とも影響していたことはたしかなのだ。
シアトルのパイク・プレイス・マーケットには、客との商談が成立すると、威勢のいい掛け声とともに魚をレジのほうにぽーんと投げ渡すパフォーマンスで知られる魚屋がある。その店のそばの、マーケットの天井部分に一幅の切り絵が展示されている。
シアトル在住の画家・曽我部あき氏によるもので、第2次世界大戦前のシアトル周辺の日系人の生活ぶりを描いたものだ。かつてはこのマーケットにも日系人農家がつくった野菜が並べられていたのだという。祖父母のつくった苺も、もしかしたらそこにあったのかもしれない。
8/31昼バンクーバー空港到着。空港出口にバスターミナル。日本から予約していた QuickShuttle社のシアトル行き長距離バスに乗車。ハイウェイを1時間ほど走ると、もう米国との国境だ。
乗客は全員いったんバスを降り、パスポート・コントロールを通る。日本人の場合は査証免除協定があるものの、陸路越境時には6ドルが徴収されるということを知らずに、慌てる。入国申告書類もバス内で渡されたのとは違って、検問所内に備え付けのグリーンの紙に書き直すよういわれる。
手数料を徴収されたのは我々2名だけだったので、最初は同行のST君と「6ドルって微妙だよなあ、あいつらのランチ代に化けちゃうんじゃねえか」などとブツブツ文句を言っておった。
シアトルのホテルはダウンタウンの北にある Best Western Executive。 QuickShuttle のバス停の目の前だという理由で選んだ。そこから徒歩10分ほどのところに、シアトルのランドマークタワー Space Needle がある。
午後6時を回っているがまだ陽は高い。気温は20℃ぐらいか。さわやかな秋晴れである。荷を解くなり早速歩き始めるが、出発前2週間ばかりの慌ただしさにかまけ、ガイドブックをちゃんと読んでなかったので、以下の旅路は、ほとんどがカナダ留学経験があり、シアトル再訪のST君のお導きである。
シアトルは「レンガ造りの建物のすぐ向こうに近代技術の粋を集めた高層ビルが建ち」と、ガイドブックに書いてある。1889年に大火でいったん壊滅したため、本格的な市域開発は100年ほどの歴史しかないが、その1世紀分が重層的に保存され、調和しているのが街の魅力だ。火災後は下水処理の問題もあって、道路をいちだん高くして街を再建した。今は古い1階部分、現在は地下となっている空間をめぐるアンダーグラウンドツアーもあるという。
ST君はそれに参加したかったようだが……。シアトルが初めての私は「地下を見てもねえ」と地上を歩くことを主張し、結局それにつき合ってもらうことになった。[以下、セーフコスタジアム編などへつづく]8/31から出かけていた、シアトル、バンクーバーの旅から昨日戻ってきた。バンクーバーに到着後すぐに長距離バスで国境を超え、シアトルに移動。ベイエリアを歩き、マリナーズ・イチローのゲームを観たりした後、高速船でバンクーバー島のヴィクトリアへ上陸、カナダへ再入国。
バンクーバー島では、ダンカン、シュメイナス(Chemanus)、ナナイモと車で北上。ナナイモからは水上飛行機でジョージア海峡をひとっ飛びし、バンクーバー市へと入り、そこから帰国という一週間の旅路。
さまざまな乗物、本場のボールゲーム、都市の明暗、米大陸太平洋岸最大の島といわれるバンクーバー島の自然、アメリカンなファーストフード、TM大同窓生たちとの交流、そして日系移住者のカナダでの暮らしぶりに触れる旅。ふつうのパッケージツアーや個人旅行ではなかなか得られないものばかり。いやあ、面白かった。
カメラはおニューの「オリンパス・ペン E-P1」を携えて。随時、フォトレポートなどしていきたいが、とりあえず帰国のご報告。
_ ひろぽん [ただのパスタとリゾットなのに、これが絶妙に美味くてねえ。スペイン、ポルトガルほどに塩味もきつくなくて、私の舌には合い..]
_ まよ [拝見いたしましたー(^_^) 「やっぱり光が違うんだよなぁ〜」なんて、行ったことも無いくせに思ったりしましたよ。]
_ ひろぽん [地中海の空の青さは、太陽の南中高度の違いとか、水蒸気と塵が少ないからだ、なんて言いますけどね。どうなのかなあ。]
_ まの えいこ [ひろぽんさん、遠く離れたポジターノでお会いしてブログで出合えるなんて驚きです。とても綺麗に写真が撮れていて、拝見して..]
_ ひろぽん [まのさん。ポジターノではありがとうございました。ポジターノは数時間の滞在で残念でした。今度はゆっくり泊まってみたいと..]
本日から仕事再開モード。
今回の南イタリア旅行については旅のTips的な情報を含めて、いずれ本ブログか、あるいは別のブログにまとめたいと考えている。日本の世間一般のシチリア島に対するイメージを、私なりに変えていきたいと思っているので、とりわけシチリア島については写真をふんだんに使って、その面白さを伝えられればと思う。
ちなみに今回の主な旅程は、ローマ入り(航空機)→ナポリ(鉄道)→ナポリ滞在中、アマルフィ(船)→ポタジーノ(バス)→ソレント(バス)→ナポリに戻り(鉄道)→それからシチリア島パレルモへ(フェリー)→シラクーサ(バス)→タオルミーナ(バス)→最後は、カターニヤ空港までバスで行き、ローマ経由で飛行機で戻るというもので、都合15泊(機内・船中泊を含む)だった。
写真は山と海が同時に美しいシチリア屈指のリゾート地・タオルミーナの街から見たエトナ山。標高3326m。欧州最大の活火山だが、頂上に雪をかぶる様子はたいそう美しい。この麓で取れたぶどうからつくるワインも美味。
_ bacci [エトナ山が見えてよかったですね。短時間のタオルミーナ滞在で全くエトナが見えず、がっかりした日本人の方も結構いらっしゃ..]
_ ひろぽん [やはりシチリアへも行かれているんですね>bacci エトナの登山列車には乗りませんでした。基本的に平地暮らし(笑)。..]
_ bacci [あれはいい映画でした。死病に耐えての主役俳優も含めて。]
_ うは [シチリア旅行記、とても楽しく読みました!! 実は、新婚旅行でシチリアへ行ったのです。(ゴッドファーザー大好きなので…..]
_ ひろぽん [新婚旅行がシチリアでしたか>うはさん 私もシチリアは初めてなので、3都市だけに絞りました。ほとんど寝て、食って、飲ん..]
4月28日、いわき駅(旧平駅;いわき駅という呼び名にまだ異和感がある)から常磐線の各停に乗って、仙台まで。四ツ倉、久ノ浜、富岡、浪江、小高、原ノ町、相馬、駒ヶ嶺……。
南東北の深緑の陽射しのなかを各駅停車は北に進む。福島県の浜通りを北上する常磐線というのは、しかし、私にとってはどこか落ち着きのない旅路だ。
高校時代の若かりし頃は、常磐線下りに乗ってどこかへ旅立つという志向はなかった。もちろんそのころも、何度かそのような旅をしたことはあったが、それは私の本意ではなかった。
その当時の私にとって、常磐線はつねに東京へ「上る」線路でなければなかった。首都への志向。「東京さ、行ぐっぺ」。無名性の大都会で自己を実現するのだという、立身出世主義。それと共に家族帝国主義からの逸脱=家出の勧め(寺山修司)に煽られた、それは不定形の欲望の路線だったのだ。
しかし齢(よわい)半世紀を経て、太平洋に向かって開けた、なだらかでのどかな平野部を、いま私は北へ向かう。
いわき発の各停列車は原ノ町止まりで、その先は同じいわき発の後続列車を待たなければならないと、いわき駅の職員は案内するのだが、そんなはずはあるまいと私は思っていた。案の定、原ノ町では乗換にわずか数分しか余裕はなかったけれど、原ノ町発仙台行きの電車が接続しているではないか。いわき駅の鉄道員の無知と怠慢を責めてもいいが、私はそのような旅のリスクをむしろ喜んでいる。
原ノ町あたり。福島県の公立学校では28日は学校登校日ではないようだ。少しだけおしゃれをした中学生風の男女4人組が向かいの座席に座っている。丸いほっぺの、目鼻立ちのくりっとした女の子二人が先に座席を占め、ドアのそばで立ちすくむ、茫洋とした顔立ちの男の子二人を目の動きだけで隣に座るように誘っている。
結果として、それぞれのカップルが隣同士という格好になった。これから相馬あたりの“大都市”で、グループ・デートなのだろうか。四人ともその頬は少し上気している。
女の子の、男の子の、ほっぺたの赤々しい純朴さが、エロティックなまでに美しく、私はしばし見とれてしまった。もしかしたら、私にもそういう時代があったかもしれない。ああ、懐かしや、グループ交際。
40年前の自分を鏡のように映し出す、常磐線はタイムトンネル列車だったのだ。
以下、マジに八戸編へ続く。
連休前半にいわき→仙台→八戸→青森→弘前→仙台というコースで東北旅行を敢行。いわき市小名浜は私の生まれたところであるが、いまそこには実家はない。訪れるのは15年ぶりぐらいだろうか。しかもあのときは仕事だったから、ゆっくり見て回る時間がなかった。
今回は、純然たる観光客の気分で、まずは「アクアマリンふくしま」という世評高い水族館を訪れた。
ここはシーラカンスの研究でも知られるところだが、なにより魚の見せ方がうまく、大人から子供まで飽きさせない。イワシ、カツオ、巨大なエイまでが巨大水槽を群舞する姿には圧倒される。隣の垂直に高い水槽では、タイヘイヨウセイウチという海獣が休むことなく潜水、浮上を繰り返す。透明アクリルの壁を隔てて、間近で彼らの目と出会う。
オットセイにバレーボールをさせるような見せ物はないが、魚類の生態そのものが見事なショーになっている。環境教育という面でも充実した展示だ。なにより、受付嬢から人工渚の監視員まで、職員のホスピタリティが心地よい。
こんなの私の子供時代にはなかった。文化果つる街だとずっと卑下していたが、最近はそうでもないようだ。
3/1〜3/9のマレーシア(クアラルンプールとマラッカ)の写真を「フォト蔵」にアップロードしました。
こんな感じ。なお写真タイトルでKLとあるのはクアラルンプール、MCとあるのはマラッカの写真です。取り急ぎ。
KL001 posted by (C)hiropon
キューバの話は思い出したときにでも続けるとして、この土日は古い仕事仲間たちと神戸へ観光旅行。なんと「青春18きっぷ」でJR普通列車を乗り継ぎ、片道10時間かけての旅である。
JR20周年記念とかでお値段は8000円(5人日分)。片道1人1600円しかかからない。ま、相当ヒマじゃないとできないけどね。むろん往復はしんどいので、帰りは早割で予約したANA便。
神戸は初めてではないが、ほとんど知らない街だ。幸い、旅のツアコンが神戸出身。到着の夜は、地元のご友人が三宮で経営するカントリー&ウェスタンのバー「ジャック・ダニエル」で歓待を受ける。ロカビリー系の生バンドを堪能。その後、加納町の「アカデミーバー」で一杯。
翌日曜は、異人館あたりの定番観光ルートをさっと済ませ、F.L.ライト設計になる芦屋の「ヨドコウ迎賓館」、
六甲アイランドの「小磯記念美術館」、「神戸ファッション美術館」など文化の香りも高い散歩道。小磯良平の植物絵の絵葉書をお土産に。ファッション美術館の常設展も、やや窮屈な印象は与えるが、布地の歴史文化を斬新な切り口で展示しており、なかなか楽しめる。
神戸は、奥深いわ〜。大地震という悲惨な記憶を間にはさみながらも、国際港に開かれた「ハイカラで自由」な気風はいまだ濃厚。街の風が私に合うかもしれない。また、行きたい。
キューバはタバコ天国。レストランやホテルで禁煙のところはないし、空港の搭乗口そばの待合室にまでずらりと灰皿が並んでいる。空港のパスポート・コントロールの前を、女性の係官が堂々と歩き煙草をしながら歩いているのには、たまげた。ハバナ産の葉巻は、世界的ブランドとしてよく知られている。ちょっとしたバーやレストランにも、シガーのメニューがある。
とはいえ、ハバナの街中を歩きながらざっくりとキューバ人の嗜好をみると、喫煙率は4割程度。意外と吸っていない。「ラム酒と女は好きだけれど、タバコは嫌いだ」と言い切る現地人にも出会った。
キューバ産のシガレットにも、むろん「癌の危険性」を警告するシールは貼られている。カストロも何年か前に禁煙したとか。政府も公共の場での禁煙政策を導入しようとしたことはあったらしい。しかし、国民に受けが悪く、数週間で撤回せざるをえなかったという話も伝え聞いた。
ともあれ、タバコが嫌いな人にはお薦めできない旅行先ではある。逆にいえば、タバコが止められない人には、地球最後のリゾートだ。ハバナにはスペイン、フランス、イタリアあたりからの観光客が多かったが、実際、タバコを吸う人の率は高かった。
葉巻は、貴重な外貨獲得のため国家管理に置かれている。タテマエでは指定の店でしか買えない。オフィシャルなシールと領収書が貼ってないと、海外持ち出し時には没収されることもあるという。ところが、観光地を歩いていると、10mおきぐらいに声を掛けられる。「シガーロ、要らないか」。日本人だとわかると「ハマーキ」と声をかける奴もいる。葉巻をヤミで売りつけようという魂胆だ。こういう押し売り、客引き、密売の輩を、こちらの言葉で「Jintero(ヒンテーロ)」というらしい。ハバナ名物といってもいいかもしれないぐらい、とにかく多い。
このヤミ葉巻、一説には、工場の屑扱いの葉を持ち出して、家庭内手工業で手巻きしているのを売っているという話もある。箱ごと買ったら中味は全部、砂だったという逸話も、英語のガイドブックには出ていた。「うちのオヤジが葉巻工場に勤めているから、ホンモノだ」と、強引な言い訳をする Jintero もいる。つまり、横流し品だ。
私たちが泊まったハバナ旧市街のクラシックホテルで、フロントの男が私を手招きする。「見るだけでいいから」と、フロントの裏側の小部屋に連れて行かれた。葉巻の箱がずらり。「モンテクリスト」というブランド。オフィシャルな店で買うと24本入り300ペソのところ、75ペソだという。これも横流しだろうが、たぶん質はいいのだろう。有名ホテルが、たとえヤミでも、砂箱や屑葉を売ったのでは、「評判」にかかわる。
ホテルのフロントがもう少ししつこく勧めたら、その闇のモンテクリストを購入したかもしれないが、それっきり何も言わなくなったので、街のオフィシャルな店で、「ロミオ&ジュリエット(スペイン語読みだとロミオ・イ・フリエタ)No.3」というロマンチックな名称と外箱の24本入りを、お土産と日本での吸引用に1箱購入。それと最高級ブランドの「コイーバ」のシグロIIIを1本。これはホテルのベッドで吸ってしまった。葉巻を吸うのは久しぶりだ。薫り高いアロマに陶然となった。
葉巻ショップを出たところで、闇商人に声をかけられた。「もう、買っちゃったよ」と言ったら、「おまえ、あんな高いものを。アホか」というような顔をされた。表があれば裏があるのはどの国も一緒。しかし、ここまであからさまに裏がはびこるってのは、どうなっているんでしょうか。
_ 長官 [鶏がセクシーですね。]
仕事仲間の編集者、デザイナー、カメラマンとその家族らと連休は沖縄本島グループ旅行。昨年夏の取材旅行の一部を再現する旅。台風13号を迎えにいくような感じの日程で、当初は出発が危ぶまれたが、なんとか那覇に到着。宿はもう3度目になる浮島通りの不思議なホテル「浮島タウンズ旅館」。マンションの2LDKを改造した一室に男女6人で雑魚寝。
台風は東シナ海を北上中。風は強いが雨はそこそこ。「うりずん」で飲んで、翌朝、牧志公設市場をからかったあと、7人乗りワゴンでルート58を東シナ海沿いに北上。いわゆるビーチ・リゾートやリゾート・ホテルの旅ではないのだが、嘉手納の米軍ビーチには寄り道して、しばし水遊び。恩納村では断崖絶壁の万座毛の景観に感動。その晩は、今帰仁村のゲストハウスのコテージに一泊。
今帰仁村の晩がハイライト。懐中電灯を照らしながら行く、地元の飲み屋さん。昨年は近所の浜で獲れたウニを死ぬほど食べた。今回は台風や盗獲の影響もあって不漁とか。その替わり、山羊刺、山羊汁、その他たくさん。
3日目は世界遺産・今帰仁城址をみてから、ほぼ来た道を戻る感じで、途中、ランチにアグー豚を食べたり、瀬底島に渡ったり、ふらふら寄り道しながら、那覇へ。
沖縄までの2週間ほどめちゃくちゃ忙しくて、寝ているのだが起きているのだかわらかん状態が続いたが、でも、この日のために頑張ったかいがあったなあ。なんということはないのんびりドライブ旅行なんだけれど、天気は少々悪くとも、これが沖縄本島の空気。そのじとっとした感じやら、道ゆく車中や飲み会の馬鹿話に、神経がゆっくりマッサージされた。それにしても、よく寝れたゾ。
ベルリンが16年前までイデオロギーの異なる2つの国に、壁によって分断されていたことはこれまで述べてきた。壁崩壊後の16年は、それ以前からベルリンに住む人にどのような意識の変化をもたらしたのか。とりわけ、東側の人にとって、この16年の意味はけっして小さくはないはずだ。
16年の間に、異なる体制への順化は十分に行われたのだろうか。たとえ悪魔のごとき体制であれ、その下にはぼんやりと平和な日常の時間が流れていたわけで、その日常に浸っていた時間が長ければ長いほど、人は新しいものにどこかで拒否感をもつのではないだろうか。
映画『グッバイ、レーニン』はまさにそうした時代の変化に立ち会った庶民を、アイロニーとユーモアを込めて描いた作品だ。「グッバイ、レーニン」では東側の集合住宅に住む一家が主人公だったが、まさにその家族が住んでいたかのような、住宅の内部を見る機会があった。
駅の名前は忘れちゃったけれど、ベルリンの郊外まで電車で行って、そこから歩いて5分ほど。4〜5階建ての低層マンション群があって、その一室。日本風にいえば住宅公団のような組織が、1970年代のまま、つまりは東独社会主義がそれなりに経済成長で賑わっていた時代のままに、リニューアルしてミュージアムとして公開しているのである。
リニューアルというのは言葉としてはおかしいが、室内を当時のまま再現するために、オールドファッションな壁紙や古い家具を探してくるのが大変だったよと、案内してくれた60歳ぐらいのガイドのおじさんが話していた。
広さは2DK。壁のつくりはややチープだが、けっして貧相とはいえない。狭いキッチンでの夕食後は、リビングに窮屈に並べたソファでテレビを見てくつろぐ、そんな情景が立ちのぼる。子ども部屋に貼ってあった世界地図には、ドイツ民主主義共和国はもちろん、ソ連も当時のままの版図で載っていた。
70年代という時代水準で比べれば、日本でも東京郊外の公団住宅によく見られたようなたたずまい。全体の規格化された間取りなどは、もしかしたら日本の戦後の住宅政策は東ドイツに学んだのではないかと思わされるぐらい、瓜二つである。なにせ東ドイツは当時の社会主義のなかでは優等生と言われたんだから。
リビングのテレビの上にあった小さなメーター付きの装置が気になった。聞くと、当時は電力事情が安定しておらず、電圧が下がるとテレビの画像が乱れるので、これで調整したのだという。日本だってまだその頃はよく停電があったから、似たようなものだ。
ガイドのおじさんは説明しながらときおり懐かしげな表情をする。それはイデオロギーを越えた懐旧というやつだろう。そもそもこのミュージアムを公開したのは、歴史を記録するという目的だが、少しは観光客や、あるいは新たにそのマンションに引っ越しして来ようという客を目当てにもしているようだ。日本からも若い観光客が見に来るよと、言っていた。
社会主義レトロは、70年代という時代や東西分断の歴史を知らない時代の若者たちには、キッチュで新しい意匠のように映るのだろう。
終わりを告げた舌の根も乾かぬうちに、ベルリン点描、ちょっとだけ再開。なかなか捨てがたい写真があったもので。
「Badeschiff」(バーデシフ)。直訳すると「風呂船」。「水浴船」と訳している日本語サイトもある。最近話題の、夏のベルリンのイベント・スポット。
ベルリンを横断するシュプレー川に、古い石炭コンテナ船を浮かべ、船倉に水をためてプールにした。プールの底には照明を設置。日が暮れるとこんなふうに川の中のプールがブルーに浮かび上がる。もちろん、ちゃんと泳げるプールだ。
桟橋風のステージでは、夕暮れ時からアマチュアバンドが、音楽ともトークともつかぬパフォーマンスを始める。100人ほどの人出だったが、おそらく夜がさらに更ければもっと人出が増えそうな気配。そばには倉庫を改造したディスコも店開きしていた。
スザンナ・ローレンツというアーティストと建築家集団が手がけた展示の一部なのだとか。日本風にいえば、リバーサイドの活性化ということだろうが、仰々しくなく、さりげなく、のんびり人々がくつろいで夏の夜を楽しむという風情。ま、日本だと浴衣姿のカップルがぞろぞろお出ましで、一発ドカ〜んと花火大会なんだろうけれどね。
7月15日にはたまたま何年かぶりでラブパレードが開催されるというので、物見遊山で6月17日通りに出かけた。
世界最大規模のテクノ・レイヴの祭典というのだけれど、テクノもレイヴもようわからんおじさんには、ただひたすらズンドコズンドコのウーハー音だけが耳に残る。まあ、うるさくはないけれど、音楽には聴こえない。もちろんトランス状態になんかはならないけれど、奇抜なファッションの若者たちを見るのは、けっこう面白い。
というわけで、カメラマン気取りで人並みをかきわけ、けっこう撮りましたな。写真の練習にはなりました。
ベルリンから帰ってきてはやひと月半。日本はそろそろ秋風が吹く頃です。ベルリンで撮影した写真は、わが iPhoto が数えてくれのだけで、700カットにも達します。他にもお見せしたいものはありますが、キリがないので、そろそろこのあたりでベルリン点描は終わりにすることにします。
建築に詳しくはないですが、見るのは好きです。というわけで、ちょっと気になった建物やモニュメントなどを。
001 :ユダヤ人教会(シナゴーグ)。ナチスによるホロコーストの後、なぜいまドイツ国内にユダヤ人が住んでいるのかという問題は、実は重要な問いなのだ。
002 :どこかのオフィスビルだったけれど、そのエッジの効いたデザインもさることながら、窓のカーテンを巧みに彩ることで、モザイク的な色彩のリズムを生み出していた。
003 :ダニエル・リーベスキンド設計によるユダヤ人博物館のファサード。内部空間も象徴的である。
004:ウンターデンリンデンで見かけたモニュメント。ドイツの偉大な思想家、作家、詩人たちの名前が刻まれている。
ベルリンは過去を記憶する都市だといわれる。この70年の歴史の中でも、文化的爛熟、ユダヤ、ナチス、戦争、瓦礫、占領、分断、壁の建設と崩壊、国家統合、外国人流入、新しい首都……とめまぐるしいまでの歴史の転変があった。
その歴史のどこに光を当て、それをどのように記憶するか。つまりの記憶の表現の仕方には、記憶する主体の恣意性が混じらざるをえない。記憶とはつねに記憶する主体にとっての記憶でしかないという、ある種の諦めはある。しかし、その恣意性を可能な限り社会的客観性に敷衍すべく、徹底した議論が重ねられてきたことも同時に認められる。
政治がもたらした災厄を記憶したり、忘却したりするのは、けっして個人の「心の問題」などではない。政治を記憶する行為とは、すぐれて新しい政治行為である。すなわちそこには一定の客観性と責任が伴わざるをえない。「心の問題」にすり替えて平然としているわけにはいかないのだ。
写真はベルリンのベルナウアー通りにある壁のメモリアルである。当時の壁はいったん崩されたが、東西分断の歴史を記憶すべく、1999年に当時と寸分違わないままに再建された。その周辺には壁を越えようとして建物から飛び降りそこねたり、射殺された人々の記録が残っている。一人の東独兵士が、壁ができる前の鉄条網を飛び越えて西に越境したのもこの近く。越境のためのいくつかのトンネルが掘られた地域でもある。
これらの壁は、そのおぞましくも血塗られた歴史、東独共産主義圧政の証を後生に残すべきものとして再現されたのであろうが、私には、政治イデオロギーの滑稽なまでの物象化の記憶のようにも思える。
何事につけてもドイツ人は徹底している。そこに堅固な社会主義イデオロギーが加わるとなればなおさらだろう。社会主義的勤労精神はここでは、人民が逃亡しないようにするための高い壁を作るためにだけ奉仕された。その愚直なまでな精密さを、私たちはいまようやく笑うことができるようになった。
ふたつの壁の間の無人地帯にはかつて教会が建っていたが、立ち退きを強制され、1985年、建物は跡形もなく爆破された。その跡地に、いまはモニュメンタルな意匠で新しい教会が建つ。その名は皮肉にも「和解教会」という。
その悲劇とも喜劇ともいいかねる場所を、青年歴史学者といった風情の若者が、ボランティアでガイドしてくれる。Mの通訳のおかげで大要は把握できた。壁建設のために東独国家によって収用された土地の返還を巡っていまなお議論があるという。
■画像の説明
005:ベルナウアー通りの壁のモニュメント 006:案内してくれたボランティアガイドの青年。対面には壁記念館とよばれる資料館がある。 007:ガイドが見せてくれたのは当時の壁の見取り図。 008:かつての壁の無人地帯に建つ和解のモニュメント 009:縦格子が印象的な新しい和解教会 010:周辺で見かけた東独製のマンホールのふた_ 小石川T [イタリアが優勝しましたね。決勝戦はいかがでした。]
島の天気は変わりやすい。3日目にようやく晴れだし、パングラシアン島というところでのピクニック・ランチ風景をようやくおさめることができた。前日この島にロケハンに行ったときは、激しいスコールに見舞われてボート上で全身ずぶ濡れ。しかし、稲光のする嵐のような海をボートで全力疾走というのは、それはそれでワイルドな感じがして楽しかった。
エル・ニドリゾートでの最大の発見はなんといっても、現地のスタッフの人柄であろう。カメラのM氏曰く「人のそのままの形が残っている」島。なかでもマリンスポーツのスーパーバイザーの Jeff は、運動神経抜群、気さくで明るくて、そのきめ細かな気遣いは我々を感動させてくれた。マニラに家族を残して赴任しており、我々のアテンドが終わると、久しぶりの休暇でマニラに帰れると喜んでいた。
日本語通訳も兼ねる Vim 嬢は、少々恥ずかしがり屋の褐色の美女。実際、Ten Knots 社が作成した今年のエル・ニドのカレンダーではモデルも務めている。大阪で勉強したという日本語はまだ完ぺきとは言えないが、我々の仕事の性格をよく理解して、適切なサポートをしてくれた。
「ミニロック島」も、もう一つの「ラゲン島」も、その島というか岩礁というかには、水上コテージを含むいくつかのコテージとクラブハウスがまとまってあるだけで、他には宿はない。宿がないどころか他に店一つないのである。
そのリゾート内にいる限りは、チップフリーであるのはもちろん、アルコール以外の飲食やスポーツ・アクティビティへの参加も無料。お土産などを買うにしても最終日にクレジットカードで清算すればいいので、現金は1ペソたりとも必要ない。
こうしたクラブ形式のリゾートというのは初めての経験だったが、まあ、楽と言えば楽。街で買い物したり、レストランを探す楽しみはないけれど、そのぶん、思う存分、アクティビティで汗を流し、くつろいでくださいというスタイルなのだろう。
部屋は籐や藁で編んだ、写真のような、南洋の民家風。テレビは個室にも、クラブハウスにもないが、無線LANだけはクラブハウスの半径10mぐらいの範囲まで来ている。まあ、いまどきのリゾート客には、TVなし、Internet 使い放題というのは最適の環境といえるかもしれない。
ともあれ、私たちは色々とアクティビティ・シーンの写真を撮らねばならない。曇り空の下を早速ラグーン巡りにでかける。参加者の希望を募って、小舟で10分ほど。小舟には人数分のカヤックを繋いで引っ張っていく。ラグーン──ここでは、珊瑚環礁によって囲まれた海面を指す──に到着すると、カヤックを自分たちで漕いでラグーンの中に入っていくのである。
ラグーンの中には、写真のように大きな岩が水門のようになっていて、満潮時には入口が閉ざされるため、カヤックでは中に入れないものもある。水が引いた時間帯を狙って、しずしずと入っていくのだ。
天気が良ければ、水面はいっそうコバルトブルーに輝き、透明度の高い水の下にはサンゴの大群が群れなす姿を見ることができたろう。天気がいまいちなのが残念だった。
_ 小石川ぢ [マラリアは、熱帯地方にいる夜間吸血性の雌ハマダラカに媒介されるマラリア原虫により感染します。熱帯熱マラリア原虫、三日..]
おたく仲間と土日1泊で、北海道帯広の旅。帯広のファミリー企業に転職したばかりの友人の近況をたずねてというタテマエはあったが、実際は知人を勝手に訪問して勝手に遊ぶ旅。
北海道に詳しいH氏の綿密なプランニング、札幌在住のN氏のワイルドなドライビングガイド、2年ぶりのサワコイ君の車中漫談と、旅のサポートも万全で、久しぶりに楽しい旅ができた。
帯広は初めての訪問地だったが、食い物が美味い、空気が美味い、自然がいっぱい、温泉がいっぱい。食い物のなかでも感動的だったのは豚丼。あの質と価格で東京に上陸したら、吉野家やすき屋は壊滅だね。キタキツネにも会ったし、お菓子のハシゴもしたし、地ビールの味比べもしたし、ワタシ的には北海道再発見であった。
沖縄・那覇から東シナ海を航海し、27日基隆港に到着。翌日、台北に移り、本日(12/30)、列車で台南入り。特急じゃなくて急行に乗っちゃったので、5時間もかかったぜ。
仕事のメールは携帯で読めたし、台北ホテルのモデム通信がうまくいかなかったりで、これまで PowerBook では通信しなかった。台南のホテルは中級ビジネスだが、ADSLが部屋まで来ているので、心おきなくネット接続。
基隆は雨の街だからやむを得ないとしても、台北、台南とも、ずっと曇り。那覇からずっと何日も青空を見ていない。むろん東京よりは温かいけれど、全然南国らしくないなぁ。ま、食い物が旨いので許すか。
ということで、全国約×名の読者の皆様へ、旅先で健在のご報告まで。
_ tamachan [熱心な読者(その1)です。ご無事で何よりです。お気をつけてご帰国ください。 土産話を楽しみに待っております。]
_ N田 [ワニの絵が最後で音沙汰ないと...何かあったのかと(^^;)]
成田からのナイト・フライト。ブリスベンに朝7時過ぎに着いて、9時過ぎの国内線に乗り換えたのだが、なぜか砂漠の真ん中の小さなエアポート「マウント・アイザ」に途中降機。なんでもダーウィン上空が雷を伴う嵐なのでしばらく待機するんだと。ブリスベンを出発する時点ですでに機体の故障で1時間以上遅れており、マウント・アイザでも2時間ぐらい待ち。なんだかんだで結局、着いたのが現地時間の夕方5時過ぎ。昼の予定はすべてキャンセル。それでも、日本語ペラペラのキュートなガイドさんに伴われて、ダーウィン市民が乾季の時期に楽しみにしている木曜夜のナイト・マーケットを軽く取材。ホテルそばのタイ・レストランで夕食を摂る。
明日は早い。いよいよ気温38度、湿度70%のカカドウ国立公園に突入だ。
俊輔のセルティック・デビュー戦は面白かった。たしかによく機能していた。しかも過剰なぐらいスタンドのファンからの温かい拍手。チームメイトのFWも、こいつラグビーからの転向者かと思うハートソンとか、小柄でイライジャ・ウッドちょっと似のマローニーなど、個性派が多そうだ。スカパー!が全試合生放送というので、今季はしばらくセルティックにつきあってみようか。
と思ったら、中田ヒデのボルトン移籍も本決まり。とにかく試合に出ることが先決だわ。
というわけで、早速、ボルトン、グラスゴーを含むイングランド&スコットランドのフットボール&ウィスキーの旅行企画を夢想する。なにせイングランドはサッカーの母国だから、ワシのライフワークはこれなしでは完成しないのだ。今年中または来年には絶対に行くぞ。ん? 来年はドイツじゃなかったのかよ……
というか、今年は沖縄→石垣→台湾にフェリーで行くのじゃなかったのか。そうでなくてもJALのマイレージのポイントの年末に切れる分だけで、韓国・台湾に行けるんだったな。9月に15年ぶりのソウル、正月に船で台湾、そんでもって来年2月に英国(寒そう)ってのはどうだと、しばし逃避するように脳内ヴァーチャル・トリップ。
仕事が忙しくなってきて、ストレス性買い物症候群が再発。不要不急の贅沢品をなんだかんだと言い訳しながら永久運動のように買い続け、捨て続けるというのは精神の病である。
というわけで、最近の買い物。PowerBookG412インチのメモリ・HDD増設サービス(まだ本体をショップに送ってないんだが)49K、アルプス社の「ProAtlas X2 for Mac」(GoogleMapにいずれ追いつかれそう)8.4K、リュウド社の「携帯Sync for Mac3」(FOMAにiCalのスケジュールが送れるというので)6.3K、その他 LifeDrive 用の Palmware をこまこまレジスト。
EOS Digital Kiss N 用の超広角ズームレンズも買いそうになったが、これは寸止め。携帯Sync for Mac3 は最初、端末を認識しないので焦ったが、 トライスターの「携帯万能」を入れていると、ドライバが邪魔して端末と通信できないんだとか。リュウドはこのドライバを一時停止する Terminal 用の実行スクリプトを配布しており、それを当てることで使えるようになった。永久的にドライバを消すためには、携帯万能をアンインストすればいいのか。
石垣島→那覇→沖縄市(コザ市)→今帰仁村→国頭郡東村→那覇というコースで琉球取材終了。これまで那覇、宮古には行ったことがあるが、今回の取材はよりディープだった。その地で、たんに遊ぶ人ではなく、働く人を取材すれば、いかなる意味でもディープにならざるをえない。南の島の「明」と「暗」を、つかの間とはいえ感じた。
ベレン地区を歩いていたら、学生の卒業式のような風景に出くわした。
会場の外でにぎやかに記念撮影している。儀式の際の黒マントはコインブラ大学の定番と聞いていたが、他の学校も着るみたいだ。彼女らが抱えている卒業証書(?)の表紙の文字は「リスボン市立高等工業学校」と直訳できるが、日本でいう工業高校なのか、高専なのか、専門学校なのか、不明。向こうの学制と年齢がわからないし、みんな、日本の若者よりは、表情が大人びているからなあ。
黒マント集団には他の場所でも出会った。100人ぐらいの集団が揃ってバスに乗り、テージョ川の遊覧船に乗り、学生生活の終わりを懐かしむふうだった。5月初めはちょうどそういう時期なのだろう。……って、てっきり卒業式だと思っているのだが、まさか入学式なんてことはないだろうな。
旅の11日目はちょっと贅沢しようと、エヴォラ(Evora)のポサーダを日本から予約していた。ポサーダというのは、貴族の館などを保存改修し、あるいは景勝の地に特有の建築様式をいかして建てた国営の宿泊施設のこと。スペインでいう、パラドールである。
エヴォラはリスボンからバスで東方に約1時間45分、乾いた平原が続くアレンテージョ地方の中心に位置する古い都だ。観光対象は城壁で囲まれた歴史地区。範囲は直径1kmに満たないから歩いて回れる。2世紀末にローマ人が造ったコリント様式の神殿や水道橋の跡などが建築的には面白いが、あとは白い街と古い教会があるばかりだ。でも一応ここも世界遺産。中心部のカテドラルには16世紀に天正遣欧少年使節が訪れ、パイプオルガンを弾いてみせたとか。いちおう拝観しましたけどね。
エヴォラのポサーダ「ポサーダ・ドス・ロイオス」は15世紀に建てられた修道院の一部を改装したもの。1階の回廊をレストランとして使い、2階の僧房が客室。インテリアを含め、内観はたしかにムーディ。でも、前にも書いたけれど、ここのレストランの料理は値段の割にはいまひとつだった。ちょっと疲れが胃に来ていて、体調不良だったということを差し引いても。
だが、翌日、くりかおりさんのサイト「リスボンのくりの家」での紹介を頼りに行った市中の「FIALHO」という店は雰囲気、料理ともによかった。このサイトの情報は他の地区でも大変役に立ったのでこの場を借りてあらためて感謝したい。
ポサーダの日本での予約は、イベロ・ジャパンにて。客室も少なくハイシーズンは混み合うので、数ヶ月前からの予約が賢明。ちなみに、ポサーダ・ドス・ロイオスの料金は、ツイン1泊32,500円でした。
メールでのリクエストに答えて、ポルトガル紀行を再開。
ロカ岬(Cabo da Roca)は、リスボンの西20キロ、シントラ山地と呼ばれる山系が急激に大西洋に落ち込んで形成された断崖絶壁の岬である。
私たちはその日、リスボンから国鉄のシントラ線に乗り、シントラの世界遺産指定の景観のなか王宮などを見学した後、カスカイス行きのバスに乗って、岬で降りた。天気のよい一日で、時刻は夕方6時を回っているにもかかわらず、陽が落ちる気配はない。北緯38度47分、東経9度30分は、ヨーロッパ大陸すなわちユーラシア大陸の最西端である。「ここに地果て、海始まる」というカモンエスの詩句を刻み、頭頂に白い十字架をつけた石碑が向き合うのは、西陽を銀色に照り返す大西洋だ。
私がこの岬のことを知ったのは、キャメロン・ディアスが出ていた映画『姉のいた夏、いない夏』であった。キャメロンはアメリカからヨーロッパに留学し、その地での反体制運動に疲れ果て、ポルトガルまで流れ着き、そしてロカ岬から144メートルの下の海に飛び降り自殺したことになっている。
岬という地形には人の神経を不安定にさせる、ひそやかな魔力があるのだろうか。もうこの先には海しかない──実際は島があり、さらに行けば別の陸地があるのだが──という感覚が、よくも悪くも人々に諦念をもたらすのかもしれない。
その映画の印象もあり、殺風景で荒涼とした場所をイメージしていたが、あにはからんや、そこはシントラ・カスカイス自然公園の一角を成す、花の咲き乱れる美しい岬だった。とはいえ、けっしてけばけばしくはない。
多数の観光客がいるにもかかわらず、しかし人々の声は渡る風と遠い潮騒にかき消され、あたりは不思議な静謐感に包まれている。教会と土産物屋、ヨーロッパ最西端到達証明書を発行してくれる観光事務所がそれぞれ一つずつ建つのみで、観光地に特有の仰々しさがないのだ。観光事務所も6時には閉まってしまい、私たちは到達証明書をもらうことができなかった。
そもそも、ユーラシアをずっと歩いてきたわけでもないので、最西端への到達感などというものはなかった。それでも、カモンエスに倣って「おお、ここが地の果てか」というぐらいの感興はあった。もしも、冬の夕暮れにでも来たなら、静寂な印象はなおさら強まったに違いない。
MacのiPhotoからオーダーできるフォトブックでポルトガルの写真を精選しプリンテッドのアルバムを作ってみた。26ページのハードカバー。送料込みで5,250円也。オーダー受付が5/27で、到着が6/8だから約2週間かかったことになる。
受付・発送メールは日本語だったが、タイムスタンプはアメリカ太平洋夏時間、ブツはドイツから発送されてきた。実際はどこで作っているんだろうね。装丁はネイビーのリネン貼りで、ちょっとカッコイイが、表紙に写真をぺたっと貼った感じはいかにも。
中味は全部オレの写真なんで、品質・芸術性ともに素人の域を超えないけれども、世界に1冊しかないオリジナル写真集というのは、なんとも心地よいわ(もっとコストが安ければ増刷してバラまくんだけれど(笑))。
Alfama──アラビア語で泉の湧くところ、という意味らしい。明確に、ここがアルファマ地区だと指し示す看板などはない。「もう、このあたりはアルファマだろうね」などと話しながら坂道を下りていくと、建物の3階から身を乗り出した男が、「アルファーマ!」と叫んだ。頭上から降ってくるその声を、私たちは、東洋からの観光客への歓迎の挨拶と受け止めた。
リスボンの旧市街の中心点をコメルシオ広場だとすれば、そこから北東部に広がる下町地区。テージョ川から立ち上がる急峻な河岸段丘にへばりつくようにしてあるその街区は、18世紀中葉のリスボン大地震でも完全な破壊を免れた。そのため、街並みはキリスト教支配以前のイスラムの影響を色濃く残しているといわれる。イスラム風様式は、カテドラルの尖塔やサン・ジョルジェ城の城壁といった古建築にもうかがわれるが、なにより特徴的なのは街の迷路のような構造だろう。
丘の上から見下ろす赤茶けた瓦屋根と白い家壁、そして向こうに海のように広がるテージョの水のコントラストは、一見するとこじゃれた南欧風のたたずまいだが、一つひとつの屋根の方向はといえば、微妙に不規則だ。その足元には、下手をするといつのまにか迷い込み、同じところを何度も上り下りしかねない小径や階段が、細い運河のようにうねっている。
敷石は途中で剥がれ、古い建物の補修工事は随所で延々と続き、犬の糞や車の通行にも気をつけなければならない。その運河のような迷路のそばに、サッカーに興じる子供たち、風にはためく洗濯物や閉ざされた門扉、鳩や鴎や猫や犬や、諍う声や人を呼ぶ声、ときにはギターラの音やらが、生活の雑多な匂いとともに這いつくばっている。アルファマは、グラナダのように牧歌的ではなく、ヴェネツィアのようには幻想的ではない。しかし、その吸引力から逃れることは、そう容易なことではない。
ひとたびアルファマに抱かれてみれば、かつては都市防衛的な観点からあえて設計された高低差のある迷路が、現在は住人たちの生活の襞となり、旅人にとってはそこはかとない旅情を醸し出す、絶好の舞台装置であることがわかる。
その思索的エッセイ『白い街へ─リスボン、路の果てるところ』で杉田敦は、リスボンを西欧の道が果てる場所と解釈した。司馬遼太郎の『街道をゆく〈23〉南蛮のみち2』もまた、コメルシオ広場の船着き場跡が、階段状にテージョ川に沈む様子を、西洋近世の道の終わり、そして大航海への始まりの刻印と理解した。
いずれにしても、そこは川と丘の、大陸と大洋の、一つの文明ともう一つの文明の、一つの宗教と別のそれとの、汀(みぎわ)であったには違いない。むろん、それは一つが他者を排斥する境界ではない。渾然と一体となり、曖昧となり、ただ朽ち果てつつ、しかししぶとく呼吸し続ける街。その汽水のような境界域の感覚は、リスボンの街全体に濃いが、アルファマにいるとなおさら強く感じられるのである。その感覚は、一介の旅人には、一瞬の安らぎと感じられ、また私はそれを素直に楽しんだのだった。
ブラガへの一日エクスカーションを経て、我々は4月28日、ポルトガル国鉄(CP)の InterCity 列車に乗ってリスボンに向かった。ポルト─リスボンには、ICよりも速い「アルファ」という特急列車が走っているのだが、ポルトのカンパーニャ駅でちょうどよい列車がなかった。
狭い国土のこと、ポルト→リスボンはIC列車でも3時間半だ。リスボン市内には長距離列車が発着する駅がいくつかあるが、我々はホテルの関係で、市東北部のオリエンテ駅(写真右)に降り立ち、そこから地下鉄に乗り換えて、オライアス(Olaias)に向かった。4/28から5/8まで荷を解くことになる「Hotel Altis Park」は、地下鉄オライアス駅から徒歩1分のところにある。
リスボン到着の午後4時すぎから早速行動を開始する。まず、ホテル最寄りの地下鉄オライアス駅(写真左)だ。ここは、98年のリスボン万博に合わせて開業した駅らしい。駅舎内部とプラットフォームの偉容は、写真では伝わりにくいかもしれないが、きわめて「異様」な構成美である。
地下鉄の駅になんでこんな巨大な空間が必要なのか。駅の周辺にはいわゆる団地風のマンションがひしめき、おそらく朝夕の通勤ラッシュにはこの広大なプラットフォームにも人は溢れるのであろうが、しかし、それにしてもこの天井の高さや、巨大なモニュメントのような金属製の列柱には驚きを禁じ得ない。
モノの本によれば、ポルトガルというより、リスボンっ子には、人口や経済規模に見合わないほどの巨大建築をよしとする傾向があるのだという。それは、巨大ショッピングセンター、オリエンテの「ヴァスコ・ダ・ガマ」や、ルス駅の「コロンボ」でも感じたことだし、テージョ川沿いに、エンリケ航海王子500回忌を記念して1960年に建設された「発見のモニュメント(Padrao dos Descobrimentos)」の、異様なまでの壮大さにも通じることである。
ま、建築物の巨大さを民族の誉れと感じる心性というのは、けっしてポルトガル人に特有のことではないかもしれないが……。
それにしても都市デザインという観点からみれば、駅舎というのはそれ自体きわめて重要なメディアである。なかでも地下鉄は現代的な都市モニュメントの一つであり、そこにデザインの粋を凝らすというのは、ある意味当然のことだろう。
かつて、鍾乳洞のような雰囲気をもったストックホルムの地下鉄や、駅名を達筆の書で揮毫した香港の地下鉄の構内に私は「美」を感じたことがある。オライアス駅のデザインもまたその一つとして記憶されることになるだろう。それは、どこの駅もほぼ同じ印象しか与えない、日本のほとんどの駅舎のデザイン的貧困との対比において、より鮮明になる。
ちょっと面倒になってきたんで、写真説明だけでポルトの項を終わらせちゃおう(写真番号がとびとびでごめんなさい)。
今年のUEFAカップ決勝戦は、せっかくの大舞台を地元リスボンのジョゼ・アルバラーデ21スタジアムで迎えながら、スポルディング・リスボンはCSKAモスクワに勝てなかった。もしもここで優勝できたとしたら、リスボンの街は革命騒ぎであっただろう。
■ ポルトガルにはサッカーも観に行ったのである。最初の予定では、スーペルリーガ(一部リーグ)4月24日30節・ボアビスタvsモレイレンセ戦をポルトで、30日に31節・ベンフィカvsベレネンセス、5月8日に32節・スポルディングvsギマランイス戦をそれぞれリスボンで観る予定にしていた。
■ しかし24日はポルトガル入りの翌日。時差ボケやら旅の疲労が残って、サッカーどころではなかった。30日のベンフィカ戦は観たが、最も期待していた8日のスポルディング戦は、UEFA準決勝戦が5日にオランダで行われたこともあって日程が変更され、9日の月曜日という変則開催になった。我々はその前週にアルバラーデスタジアムにチケットを買いに行くまで、その変更に気づかなかった。いや、実際に窓口でチケットを購入してから、「あれ、9日って日曜日じゃないのか?」と気づくという体たらく。月曜日は帰国便に乗らなければならないので、どうしたって夜のゲームを観る時間はない。2週間の旅行ですっかり曜日の感覚さえ失ってしまっていた。チケット売場での購入をそばで英語でサポートしてくれたお兄さんに、「9日は絶対月曜日!」と言われて、やむなく買ったばかりのチケットをキャンセルして返金してもらうしかなかった。
■ その売場には、5月18日のUEFA決勝戦のチケットも売りに出ていた。もし旅の日程がずれていれば、国内リーグ戦ばかりか、めったには観られない欧州カップ戦の決勝戦、それも地元チームが地元で闘う試合を万余のスポルディンギスタと共に観ることができたのに……。しかし、えてして旅とは、そしてサッカーとはこういうものである。
■ さて、30日のベンフィカ戦である。ベンフィカはリスボン郊外の住宅街。フットボールチームは1904年に設立された。創立当初はベレン地区の裕福な子弟が参加するチームだったが、ほどなくベンフィカに本拠を移した。70年代には「モザンビークの黒豹」ことエウゼビオを擁し、かつてはルイ・コスタもパウロ・ソウザも在籍した。
■ 1930年代からポルトガル一部リーグはFCポルト、スポルディング、ベンフィカの3チームのいずれかが優勝するという寡占傾向があり、それは現在も変わらない。ちなみに、今季はイタリアの名匠トラパットーニに率いられたベンフィカがUEFAカップ決勝を控えたスポルディングを、5月14日のリスボン・ダービーで破ったことで、現在3ポイント差でスポルディング、FCポルトを押さえ首位に立っている。もしこのまま逃げ切ることができれば、93/94シーズン以来のリーグ優勝ということになる。しかし、ポイント差はわずか。優勝決定は5月22日の最終節までもつれ込んでいる。
■ ベンフィカのスタジアム「エスタディオ・ダ・ルス」は地下鉄 Colegio Militar/Luz 駅からすぐ。ちなみにこの駅は巨大ショッピングセンター「Colombo」とも繋がっている。2004年の欧州選手権(Euro 2004)の決勝戦が開かれたところで、チームカラーの赤を基調にしたド派手なカラーリングはテレビで観ていて印象に残っていた。
■ 優勝を狙える位置につけてのリーグ終盤戦、ファンも気合いが入り、1時間前に会場についたのに人で混み合って、なかなか座席につけなかった。これはちょっと入口の動線に問題ありだと思った。スタジアムは満席とはいえず9割の入り。だが、ファンの多くが赤いユニフォーム、座席も赤く塗られているので、スタジアム全部が真っ赤っかという感じである。我々の席はゴール裏の高いところで、選手の顔はわからないが、フォーメーションなどはよく確認できる位置だった。お値段はたしか 30 ユーロだったと思う。キックオフ前からマフラーをふって気勢をあげるファン、応援歌にあわせて「ベンフィーカ!」の掛け声、途中には場内を何周もするウェーブ、最後にはチームのマスコットのほんものの鷹が飛び立つというパフォーマンスも楽しかった。
■ 試合は前半から完全に押し気味のベンフィカが最後のツメの甘さと、ベレネンセスの堅い守備でなかなかゴールが破れず、結果的にはPKの1点を守りきって逃げるという、危うい勝ち方。それでもここに来ての勝点3は大きく、ファンは大喜び。だが、客観的には大味なゲームだった。ベンフィカの選手で知っているのは、Euro 2000 での大活躍やその後のフィオレンティーナへの移籍で世界的に知られたヌーノ・ゴメスと、ポルトガル代表のシモンぐらい。ヌーノはゴールにからむことなく後半途中で交替させられていた。今季は7得点ぐらいで、シモンの半分。イケメン系で日本でも人気のある選手だけに、ちょっと心配だ。
■ スカパー!でのたまの放映と、生で1ゲーム見ただけで何事か語る資格はないが、ポルトガル・ナショナルチームに期待できるスペクタルさは、少なくともこのゲームからはあまり感じられなかった。しかし、こうしたリーグ戦で揉まれるなかから次代のゴールデン・エイジ、ポルトガル代表が生まれることはたしかである。
■ 試合の翌日の夕方、リスボンの旧市街アルファマ地区の広場で休んでいると、自転車遊びをする小学高学年ぐらいの男の子2人が近寄ってきた。子供たちとの世界の共通語はサッカーだ。ここぞとばかり、『旅の指さし会話帳 ポルトガル』(くりかおり著・情報センター出版局)を使ってコミュニケーションを試みる。「あなたたちは兄弟ですか?」「ナオン、アミーゴだよ」、「どのチームのファンですか?」「リシュボア」「僕はベンフィーカ」、「サッカーではどんな選手が好きですか?」「ロナウド」(これはおそらくマンU在籍のクリスチアーノ・ロナウドのこと)「ジョアン・ピント」……とか、結構通じたのが嬉しかった。
■ もうすぐ夕飯の時間なのだろう。ポルトガルのレストラン料理にちょっと飽きが来ていた我々は、少年の家に招かれて、本場のポ家庭料理を味わいたいなどと夢想した。そんな図々しい気配を感じたのか、少年たちは 「Tchau!」(チャウ、簡単なさよならの挨拶)と手を挙げて夕闇(というか、まだまだ明るい)に消えていった。
料理はともかく、ポルトガルの人は旅行者にめちゃ温かい。それを物語る一件を、いまのうちに記しておこう。
5月5日、我々はリスボンからオビドス(現地の発音だとオビドシュに近い)への一泊エクスカーションを試みた。オビドスは、リスボンから80kmほど北方にある、古い城壁に囲まれた小さな村である。中世の夢を見たまま眠るようなたたずまいが、日本人にもたいそう人気だと聞いた。
リスボンからは長距離高速バスで、カルダス・ダ・ライーニャ(Caldas da Rainha)という交通の要所まで行き、そこで別のバスに乗り換えて10分ほどと聞き、地下鉄ジャルディン・ズロジコ(動物園駅)、国鉄セテ・リオス駅そばのバスターミナルから、 Rede Express(長距離バス会社の一つ)に乗り込んだ。切符はちゃんと、ライーニャまでで発券してくれたが、窓口嬢が示した番線にその時間についたバスの行き先は「Leiria」(レイリア)とある。今から思えば、全然スペルが違うのだが、我々はなぜか「ライーニャ」も「レイリア」も同じと思いこんで、「このバスの終点で降りればいいんじゃないか」とお気楽にバスの車窓を流れる風景を楽しんでおったのだ。
約1時間10分。二人ともすっかり眠り込んでいて、ふと目覚めると、バスはどこかの街のバス・ターミナルに滑り込むところだった。時間にすればここが、そろそろライーニャだが、どうも終点という雰囲気ではない。そうこうするうちに、バスは乗客を乗せたまま、次の目的地に向けて走り出す気配である。
「オビドス行くのは、今のところで降りるんじゃないの?」「いや、まだだろう」などと我々が騒いでいるのを不審に思った乗客の若い女性が、英語で「オビドスなら、ここで降りなければならないのよ」と言ってきた。「あちゃあ」。バスはスピードを上げて市街を走り抜けようとしている。「バスを止めた方がいい」とその女性がいうので、運転手に掛け合おうと運転席まで行ったが、なにやら強い口調のポルトガル語で彼は「○△×ポルトゲーゼ!」と怒鳴るのみ。私には「おいらは、ポルトガル語でしか受け付けねぇぜ」と言っているように聞こえた。
困り果てて座席に戻り、「彼は私の英語を理解しない」と先ほどの女性に訴えると、彼女は席を立ち、運転手にポルトガル語で掛け合ってくれた。しかしどうにも埒があかない。
「彼のポリシーで途中でバスは止めないってさ。あなたたちは、次のマリーニャ・グランデという停留所で降りて、そこから戻るしかないわ」というのだ。「マリーニャ・グランデ」とは初めて聞く地名だ。我々が持ってきた2つのガイドブックの地図には、記載されていない。彼女は、そのスペル(Marinha Grande)をガイドブックのライーニャとナザレの中間地点に書き込んでくれた。
「そうか、ナザレのほうが近いのか」。ナザレは、オビドスの後に立ち寄る予定にしていた、海岸沿いのリゾート村である。オビドス→ナザレという順番を、ナザレ→オビドスと逆にしたって、何か困る理由があるわけではない。
バスはそれから20分も走り続け、小さなバス・ターミナルに到着した。「グランデ=英語の grand」という名にはあまり似合わない、何の変哲もない地方の町だ。
我々は、親切なバスの女性にお礼を言って、マリーニャ・グランデという予定外の街に恐る恐る足を踏み入れた。小さなバスの待合室には、バスを待つのか、暇をつぶしているのか、老人たちが5、6人いるばかりである。
ナザレ行きのバスを探すか、もう一度、ライーニャに戻るべきか。ターミナルの壁に貼ってある地図で、その経路を探していると、チケット売場の若い女性が出てきて、なにやらポルトガル語で話しかけてくる。英語は理解しないようだったが、身振り手振りで、オビドスに行こうと思ったが、ライーニャのバス停を乗り過ごしてしまったこと、ナザレが近いのならナザレでもいいかと思っていることを、なんとか伝えた。
チケット嬢は、私の意思をほぼ理解したようだが、それでも念のためにということなのだろう、私の腕をひっぱって、近所の雑貨屋まで連れて行ってくれた。そこは中国人が経営していた。同じような顔をしているから言葉も通じるとでも思ったのだろう。しかし、その中国系の店員は英語を解さず、代わりに中で買い物をしていたポルトガル人の男性客が英語を話してくれた。3人とも顔なじみという風である。
「オビドスもいいけれど、ナザレも捨てがたい魅力がある」というようなことを彼は言う。先にナザレに行って、帰りにオビドスに寄ったらいいじゃないか。ナザレだったら、ここからそう遠くはないよ。
現地の人のサジェッションに従って、我々はナザレ行きを決定。約1時間後の次のバスの時間を確認し、チケット嬢に切符を売ってもらった。
陽射しのきつい暑い午後だった。ターミナルの外のベンチで我々は次のバスを待っていた。先ほどのチケット嬢は、次のバスが到着するまで時間を持てあましたのか、待合室の老人たちの話し相手になっている。旅案内をしてくれたお礼もかねてあの店で水を買おうと、先刻の雑貨屋に顔を出した。「agua, sem gas, dois」(ガス抜きのミネラル・ウォーター2つ)は、今回の旅行で最もよく使ったポルトガル語の一つだ。ところが、ペットボトルを2本差し出しながら、中国系の彼は「Nao!」(a に鼻母音のアクセント。ナオンと聞こえる。英語の No、いいえの意)と笑いながら手を振り、お金を受け取ろうとしないのだ。「道に迷った人たちなんだから、お金なんていいよ」という顔をしている。たまたまレジのところにいた太ったおばさん客までが、彼に同調して「ナオン、ナオン」と言う。
これには涙が出そうになった。たんにバス停を間違えただけで、我々は致命的に困り果てていたわけではない。解決策も見いだした。けれども、彼らにとっては、予定外の街に迷い込んだ旅行者は、そのまま無下に見捨てておけない存在なのだ。次のバスでこの街から立ち去り、おそらくもう二度とは戻ってこない、通りすがりの旅人だけれど、いやだからこそ、水ぐらい恵んであげよう。そんな、掛け値のない素朴な親切が嬉しかった。
マリーニャ・グランデ。地図にもないポルトガルの小さな街(いや、詳細なポルトガルの地図にはちゃんと載ってますけどね)。そこで受けたささやかな温情こそ、今回のポルトガルの旅を象徴するものだったと、私たちは後になって思うのである。その後の、ナザレもオビドスも、素敵な観光地だった。しかし、それ以上にマリーニャ・グランデの人々のことは、忘れがたい思い出である。
ポルトガル料理といっても日本ではあまりなじみがない。旅行前に調べた範囲では本格的なポ料理レストランは東京に3軒ほどしかなかった。うち、2つは系列店である。そのうちの一つ、「マヌエル コジーニャ・ポルトゲーザ」で食べた話は以前書いたが、旅行前に私が食したポ料理はこれが初めてのものだった。
ただこの店の料理をレファレンスモデルにすると、現地の大方の料理は、まず量が多すぎて、かつしょっぱいことに驚くだろう。量が多すぎるというのは美味さに影響するものである、ということを痛感した旅でもあった。「マヌエル」の料理は美味しいが、これは味付け、量ともに日本人向けにアレンジされているとみてよい。
さらに、ポ料理はフレンチやイタリアンに比べると、全般に「田舎風」で「粗野」な印象がぬぐえない。つまり、美味にうっとりとか、頬が落ちるとか、舌がとろけるとか、そういう語彙とはなかなか縁遠い世界なのだった。体感した現地ポ料理の美味しさ確率、つまりガイドブック基準で選んで入った店で、これまたガイドブック基準でチョイスしたメニューで舌鼓を打つ確率は、せいぜい55%程度。むろん舌の感覚は人それぞれだし、たまたまおいしい料理に出会えなかっただけなのかもしれないが……。
たとえば、イワシをオリーブオイルで焼いただけの「サルディーニャス・アサーダス」なんていうのは、美味いことは美味いのだが、つまりはたんなるいわしの塩焼きであって、ナザレあたりの海岸村の細い路地でおかみさんたちが焼くものであり、高級レストランで給仕されるものではないと、日本人なら思うはずだが、それでもちゃんとレストランのメニューに載っているのである。しかも、さほど安くはない。日本円で1500円前後取るところもある。一人前5本も6本もイワシが出てきて、付け合わせのポテトもたっぷりとなった日にゃ、3本目ぐらいでうんざりというのが実態である。
ポルトガルのガイドブックには必ず出てくるのが「バカリャウ」を使った料理である。「バカリャウ」とは干し鱈のことで、街の市場やデパ地下には、
真っ白く塩をまぶした写真のようなものが山ほど売られている。ポルトガルでは、このバカリャウを使った料理が365種類あると、ガイドブックには書かれているが、この数字に根拠はない。毎日食べても飽きないぐらい、ポルトガル人は好きだというぐらいの意味だろう。
バカリャウの本体は塩が強いので、まず一晩水につけて塩気を抜き、その後、そのまま茹でたり、焼いたり、フライにしたり、炒めて卵とじにしたりするという。ちなみにスペインでも「バカラオ」という名前で同じような食材があるらしいが、私はスペインでこれを食した記憶がない。
バカリャウのコロッケは、レストランの前菜としてもよく出てきた。これはまずまずの味なのだが、それに気をよくして、バカリャウとタマネギ炒めの卵とじである「バカリャウ・ア・ブラス」なんぞを頼むと、もうそれだけで他には何も入りませんってなぐらい、巨大な量で出てくる。しかもしょっぱいので、少し箸をつけただけで、もう結構です、ということになる。バカリャウ料理をいくつか試してみんなそんな感じだったんで、我々の食卓では4日目ぐらいからは、バカリャウ禁止令を出さざるをえなかった。それを食っていたら、他のものが食えないのである。
そもそも、鱈は北の海の魚だ。これは日本も同じこと。南欧のポルトガルで鱈がそんなに獲れるとは思えない。おそらく北大西洋北部の漁獲を大量に輸入しているのだろう。かつて北欧バイキングが長期にわたる航海ができたのも、大量の干し鱈を船に積んでいたからだといわれる。鱈は今でもノルウェーでの水揚げが多く、70年代にはイギリスとアイスランドが漁場をめぐって砲艦が打ち合うという、いわゆる「タラ戦争」まで勃発した。北ヨーロッパの人にとっては、ことほど貴重なタンパク源なのだが、これを干して保存したものをポルトガル人が好むというのは、生鮮食品の流通事情がよくなく、かつ貧しかった時代の名残ではなかろうか。古きを温ね、食文化の歴史を知るために食すというのなら一興だが、短い観光旅行のさなかに、そればかりを好んで食べるというほどのものではない。
別の意味でまずかった料理に、「Acorda:アソーダ(cの下にアクセント記号)」というのがある。これはスープに堅いパンを浸した「パンがゆ」のこと。単体で出てくることはなく、何かの材料との組み合わせが多く、たとえば「アソーダ・デ・マリシュコ」といえばシーフードのパンがゆということになる。これは味はともあれ見た目が悪い。もとは古くなったパンの再活用という狙いがあったようだが、出来上がりは冴えない土色をしたどろどろ状態。それが山のように皿に盛られると、見ただけで食欲が減じる。ポルトガル中南部エヴォラで、元は修道院だったというポサーダ(古城などを改造した少人数の高級ホテル施設)のデイナーでこれが出てきたときは、ロマンチックな雰囲気と料理の激しく大衆的なたたずまいに、目が点になるほどのギャップを感じたものだった。
まずい料理のことばかり書いたが、もちろん美味い料理もある。それはまた別の日に。
_ アジャ [料理の量が驚くほど多いのは辛すぎだったけど、バカリャウ・ア・ブラスはもっとバカリャウの塩抜きをしたら美味しいはず。干..]
仕事以外のことになるとマメに記録するタチではないんで、4/23-5/9のポルトガル旅行、思いつくまま、記憶にあるまま、あれこれと……。
エールフランス便のパリ経由で、現地時間午後6時半に到着したのがポルトガル第2の都市ポルト。陽はまだ高いところにある。Porto は O Porto と表記することもあって、航空業界の空港コードでも「OPO」と表記される。ここでいう O はポルトガル語の定冠詞で、英語で言う The のことらしい。
The Porto と言われましてもねぇという感じで、空港は暗く小さく、ポルトの歴史地区も当然ながら古色蒼然たる印象。まあ、欧州の旧市街というのはたいていこういうものだが、それにしても最初は、街に佇む老人密度が異様に高く感じた。
宿泊は旧市街中心部、ポルトガル国鉄(CP)サン・ベント駅そばの「メルキュール・バターリャ」という仏アコー社グループの中規模シティホテル。ちょうど角部屋で窓が二方に開かれ、教会の塔の眺めが美しい。一昨年のスペインに続き、BANCOTEL 経由で予約し、バウチャーで支払う形式で、ここに都合5泊した。
同行のAに指示されるまま、翌日から、坂道の多い歴史地区、ドウロ川周辺などを積極的に歩く。天気は午前中は曇っているが、午後からは晴れるという展開。これはリスボンでも続き、結局、17日間の旅程中、ほとんど雨が降ることはなかった。
たしか到着の翌日の日曜日だったと思うが、バスに乗ってドウロ川河口を越え、郊外の公園まででかけて帰る途中、街中心部に戻るバスを探しあぐねていると、バスを待っていた若い日本人男性が親切に教えてくれた。車内で雑談をしていると、ポルトガル人建築家の元で働いている人らしい。それが日本でAが情報を得てきた当の人物I氏だった。「何かあったら連絡をしてみては」と言われてはいたものの、わざわざ会いに行こうとまでは考えていなかったのだが、偶然の邂逅に双方驚く。
「ポルトに5日は観光としては長いですね」とI氏はいろいろと見所を教えてくれる。そのお薦めにしたがって、小さな渡し船でドウロ川対岸に渡ったり、その後、彼の師匠の建築家アルヴァロ・シザが設計した現代美術館があるセラルヴェス公園に出かけることになった。建築といえば、先日日本旅行を一緒にしたドイツのウォルフガング氏から聞いていた、レム・コールハース設計になる音楽堂にも行ってきた。閉館時間に間に合わず、外から眺めただけだったが。
ポルトは2001年に「ヨーロッパ文化都市」を宣言し、いくつかの文化事業に取り組んでいるが、この音楽堂建設もその一環。世界遺産の歴史地区やポートワイン工場だけでなく、こうしたモダンデザインを含めての文化発信なのであろう。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ ga [ほんと、よく動きますねえ。 ところで、プラハ行きは? があ]
_ ひろぽん [基本的に、動いたときしか日記書かないから。>ほんと、よく動きますねえ。 プラハ、行こうよ。幹事さん誰でしたっけ?]
_ circus [あ、…。部屋で関連書を積み上げて研究してはいるのですが。打ち合わせ飲み会をやりましょう。]
_ ひろぽん [ちょいテスト]