ポーランド(現在の西ベラルーシ)に侵攻したナチスから迫害されるユダヤ人たち。その救出と集団自治や抵抗を組織したビエルスキ兄弟の実話。
Wikipedia によれば、「基本的には実話に基づいているが、一部に映画的結末を描くための脚色があり、特にエンディングの戦車との戦闘シーンについては原作者も当初は戸惑いを覚えたことを告白している。また、ビエルスキ兄弟が率いたユダヤ人組織に対する歴史的評価もポーランド内では分かれており、同じポーランド人から略奪することで生き延びた山賊集団ととらえる向きもある」とされる。たしかに、森のなかでの戦車との戦闘シーンは、おあつらえむきのカタルシスで、そこがクサイ感じもしたのだ。ちょうど、カチン虐殺に関する『カチンの森』(みすず書房)という本を読んでいたこともあり、場所こそ違えどポーランドの森の風景(実際のロケ地は知らない)をイメージし、独ソの間で翻弄されるユダヤ系ポーランド人の立場に思いをはせることができた。
この時期、ポーランドはドイツとソ連の挟撃にあって領土をいいように分割されてきた歴史があった。カチンの森虐殺に見られるように、ポーランド人も多数殺されたが、そのポーランド人からも差別されていたのがユダヤ系ポーランド人だ。ゲシュタポに売り渡され、ゲットーで殺されるか、収容所で殺されるか、いずれにしても命運は尽きかけていた。森へ逃げるというのが唯一の生き延びる道ではあったが、それもまたけっして安全の保証があったわけではない。
出エジプト記にもなぞらえられる、迫害されるユダヤ人たちの救いの物語。神はとっさのところで我々を見捨てなかったという意味で、特定の民族集団にとっては、貴重な宗教的感興をもたらすのだろう。
ただ、性懲りもなく量産されるユダヤ系アメリカ資本による反ナチ・プロパカンダ映画と切り捨てるには忍びない、深みをもつ映画でもある。抵抗運動内部におけるモラルの確立と崩壊、明確な階層差を超えた自治原則によるコミュニティの誕生、集団におけるリーダーシップと分派の発生など、現代のあらゆる組織に通じる貴重な教訓も読み取ることができる。
また、ファシズム、スターリニズムだけでなく、シオニズムを相対化する視点もあって、そこにはアメリカのリベラルな知性が顔を出している。劇中の言語は、英語がメインだがこれはたぶん東欧ユダヤ人たちのイーディシュ語の代位だろう。他にも現地の非ユダヤ系農民と話す言語(ポーランド語?)、ソ連赤軍将校と話す言語(ロシア語)、ドイツ兵のドイツ語が登場し、それらとは明確に区別されているからだ。まさかイーディシュで全編を貫くわけにはいかなかったろうが、いちおう当時の現地の多言語環境を意識しているようで、その配慮には好感をもった。
むろん、サボタージュ活動や銃撃戦のスペクタクル、集団内の恋愛なども盛りこんで、エンタティンメント映画の王道も外していない。反ナチ抵抗ものとしては、けっして悪くない映画だ。
この前、ディカプリオとウィンスレットの『レボリューショナリー・ロード』(2008年)という映画を観ていたら、戦後アメリカ経済の黄金期と都市ホワイトカラーの大量発生、そして彼らを吸収した、郊外に広がる新興住宅の様子がよく描かれていた。戦後ベビーブーマーたちの親の世代の原像だ。
一見、絵に描いたように幸福なアメリカン・ウェイ・オブ・ライフなのだけれど、その裏には、鬱屈と虚無も忍び寄っている。
ウィンスレット扮する妻は、「パリで人生をやり直したい」と唐突な夢を描く。亭主もそれに巻き込まれて、えらい迷惑という話なんだけれども、妻にパリへの憧れを搔きたてたのは、亭主が欧州戦線への出征時に撮った、エッフェル塔を背景にした一枚の写真なのだ。戦争がもたらしたアメリ庶民のヨーロッパ体験。それが「ここではないどこかへ」という幻想のエンジンを回転させる。
アメリカ人にとってのパリは、日本人と同様に、やはり憧れの都であり、一部の人にとっては、大衆社会における疎外を解消してくれる実存の都なのだろう(いや、だった、というべきか)。
パリに眩惑されるアメリカ人というのも、昔からよく描かれたテーマで、ロマン・ポランスキーの『フランティック』(88年)なんかもその一つ。文字通り『巴里のアメリカ人』(51年)はガーシュウィンの楽曲に触発されてできた楽しい映画だけれども、ここでのアメリカ人はパリに熱病のように浮かれている。
『レボリューショナリー・ロード』の妻が夢見るパリ生活も、まったくの熱病で、少しも現実味がない。家を売る準備をし、荷物の梱包まで始めてしまうのだけれど、パリでは当面の仕事のアテさえないのだ。パリは、ヨーロッパに実在する街というより、空漠な心の闇の中に生まれる一つの幻視体験のようでもある。そこで忘れてならない映画が、ヴェンダーズの『パリ、テキサス』(84年)だろう。テキサス州にある小さな田舎街パリは、崩壊した家族の夢の潰える先、そして再生の象徴でもあった。
ところで、これまでテキサス州パリなどという地名は、脚本家サム・シェパードの想像の産物かと思っていたら、実際に存在するらしい。向井万起男さんの『謎の1セント硬貨──真実は細部に宿る in USA』(2009年、講談社)というエッセイ集で教えてもらった。
テキサス州のパリには、エッフェル塔のレプリカもあって、天辺に巨大なテンガロンハットがかぶされているという。親切にもこの本には、テンガロンハットをかぶった妻の、アストロノーツ・向井千秋さんが、そのテキサスのエッフェル塔の前で撮った記念写真まで添えられている。笑っちゃうけど、その(笑)を大まじめに追求するのが、エッセイスト・向井万起男の真骨頂なのだ。
ついでながら、パリという街はテネシー州にもあるらしい。アメリカ人は国内に海外の地名をもじった街があり、そこにはまるで記念写真の書き割りのためだけのような象徴的建造物まであることを、「移民の国アメリカの文化多様性」と誇っているのだとか。たぶんその「誇り」は、デイズニーの「国際色豊かな」テーマパークにも受け継がれていて、その幾分かは、田舎町にオランダ村とかドイツ村を忽然と出現させる日本人のビジネス感覚にも影響している。
私の周辺でクチコミで評判が広がっていたので、年末にSとの映画会のお題にした。オフィシャルサイトはこちら 。
韓国・慶尚北道ののどかな農村。老いた農夫は、いまでも牛を使って田んぼを耕している。もう40歳になる老いぼれ牛だ。いまどき、韓国でも耕作牛は珍しいかもしれない。実際、隣家の水田ではトラクターやコンバインが威勢よくエンジン音を鳴らしている。当地でも失われゆく農作業のスタイルなのだ。
老夫婦の表情と会話がいい。老婆は「こんなところに嫁に来るんじゃなかった。厳しい農作業で、もう体はボロボロだよ」とグチを言う。それはまるで老牛の呟きを代弁するかのようでもある。しかし、その奥底には連れ合いへの深い愛情も隠されている。
長年使役した牛がいよいよ余命1年となる。老婆は市場で売ってしまえといい、老爺も一度は売りに往くのだけれど、買い手がつかずというか、処分する決断がつかず、またトボトボとその牛車に乗って村まで帰ってくる。韓国版「ドナドナ」。
その牛がなければ、畑を耕すことができず、一家が暮らしていくこともできなかった。それだけに愛着と信頼がある。そのことは今は都会に出て、年に一度帰省するだけの子供たちにもわかっている。しかし、農夫の牛への思いは格別だ。そうしたたぐいの家畜への感情は、彼らの世代が亡くなれば、おそらく同じ形で蘇ることはないだろう。だからこそ、ドキュメンタリーとして残す価値があった。
農夫は老いぼれ牛の代わりに、子どもをはらんだ若い雌牛を一頭飼い始める。食欲旺盛な若い牛に牛舎を占領されて、恨めしそうにそれを見やる老牛の表情がいい。むろん人間の側の感情移入があるからそう見えるのだが、その瞳はまさに“老愁”を帯びている。こぼれ落ちる涙まで、カメラはしっかりと捉えている。
やがて老牛は農夫に看取られながら寿命を全うする。春めいた季節に老夫婦が丘に登り、牛の墓参をする冒頭のシーンがあらためて思い出される。奇跡のように美しい、人と家畜の関係だ。
銀座のシネパトスで見終わった後、思わず拍手してしまった。人であれ牛であれ、ともにやってくる老い。老いるという過程のなかに、どんな幸せの形を見いだすべきなのか。それを私は映像のなかに求めていたのかもしれない。
2009年に見たドキュメンタリー(そんなには観ていないけど)の中では、ベストワン。50歳以上の夫婦割引でぜひどうぞ。
映画や本のことなど、とりあえず記録まで。
『レッド・ダスト』(イギリス/南ア 2004年/劇場未公開/WoWoW)
アパルトヘイト撤廃後の南アの話。先日観た『マンデラの名もなき看守』の後日談ともいえる。
赤い砂塵の舞う土地をトレーラーで回る「真実と和解委員会」の巡回法廷。そこに迎えられた南ア出身で、現在はニューヨークで仕事をする若い弁護士の役をヒラリー・スワンクが演じている。法廷で明らかにされる弾圧と裏切りの事実。白人と黒人の根深い対立と、それを超えていこうとする努力。まさに「真実と和解委員会」のキャンペーン映画のようであるのだが、ともあれ、そういうことがあったんだということを知る上では得がたい作品。(★★★☆☆)
『バトル・イン・シアトル』(アメリカ/カナダ/ドイツ 2007年/これも劇場未公開/DVD)
WTO反対運動の現状は日本ではあまり話題にならないが、先日もジュネーブのデモで33人が逮捕されるという事態が生じた。これは一時、シアトルを非常事態宣言下においた1999年のWTO反対活動の実話に基づく。
主人公らは非暴力反対運動を貫こうとするが、運動の宿命として暴力を行使する人々も出てくる。ただ、彼らがなぜWTOに反対するのかの論理が映画のなかではうまく表現されていない。個人的恨みではないかと誤解させる恐れもある。役者は、レイ・リオッタとシャーリーズ・セロンしか知らないが、後者はいわば脇役。セロンが反WTOの闘士として登場するわけではなかった(期待してたんだけれど)。
映画としての面白みはイマイチだが、これもまた、世界の出来事を知るうえでは重要な作品かと思う。(★★1/2☆☆)
ちょっと欲しいかなと思う本。
『太宰治選集』太宰治生誕百年記念出版—全3巻(柏艪舎)
読者の年代別にお薦めの短編を編んでいる。若いときに読んだものも、年老いて読めばまた別の味わいということで、巻をまたいで重複収録される作品がいくつかあるというのだが、全巻揃いで買っちゃう人にはムダがあるということか。版元は札幌の小さな出版社らしい。
『希望学』全4巻(東大出版会)
釜石市における地域研究も含まれているというので、ちょっと関心が...
「週刊読書人」「図書新聞」のバックナンバー、読まずにいるのがずいぶんたまってしまった。ちゃんと読み出すと、必要以上に本が欲しくなるし、困ったものなのだけれど。
最近日がな一日、テレビ映画しか観ていないような感じですが……そんなことはないんだけどね。
『自由へのトンネル』(劇場未公開/イタリア/ハンガリー/イギリス合作/WoWoW/★★★☆☆)
1961年、西ベルリンに住むイタリアからの留学生らが、壁のため西側に戻れなくなった同級生らを救うべく、東西ベルリンを結ぶ地下トンネルを掘ったという実話に基づく。そのトンネルの模型のようなものを、かつて壁があった時代に訪れたベルリンの壁博物館で見たような記憶がある。
日本語吹き替えが興ざめだったが、まあ、並み程度のスリルとサスペンスはある。第三国のパスポートをもつ人の往来が結構自由だったり、大型トラックを東側に運び入れることができたり、当初は警備の抜け穴というものはあったのだな。
以前観た『トンネル』(2001年)のほうが人物描写、撮影、ドラマとしての重厚感はいずれも上回る。壁崩壊20周年ということで、お蔵入りしていたフィルムを復活させたという感じ。
『アメリカを売った男』(2008年日本公開/アメリカ/WoWoW/★★★☆☆)
20年以上にわたってアメリカの国家機密をソ連やロシアに売り渡していた実在のFBI捜査官のスパイ事件を映画化。原題の Breach は「背任」というぐらいの意味か。渋面のクリス・クーパーはスパイ・サスペンスには必須の脇役だが、今回は主演。ライアン・フィリップはナイーブな訓練捜査官、ローラ・リニーは仕事と結婚したような独身女性エージェント役で、それぞれが芸風のツボにはまった演技をしていて、そういう意味では最適の配役、かつそれゆえ無難な映画。
最初は曖昧な理由しか告げられないまま上司の背任捜査を命じられる若い訓練捜査官が、上司の奇矯ではあるけれど魅力的な人柄にしだいに惹かれていく過程はよく描かれている。ただ、ラストのエレベーターで出会うシーンはなくもなが、だろう。
スパイの動機は、金以上に、一種の名誉欲、ひそやかな自己顕示欲だったのだろうか。ふと、佐々木譲の『警官の血』(下巻)のストーリーと対比したくなる。
テレビ録画の映画鑑賞。粛々と消化中。WoWoWやNHK-BSではときおり見逃していた名画に出会えるので、録画は止められない。ただ日記に記録しておかないと何を観たのか、すぐ忘れてしまう(笑)。
■ビレ・アウグスト監督『マンデラの名もなき看守』(2008年フランス/ドイツ/ベルギー/南アフリカ)
27年間獄中にあったネルソン・マンデラに、長く看守として接触することで、ヒューマンな意味で触発される男の話。あらすじを聞くだけで予期できる全体のストーリー、その意味ではベタな社会派ドラマなのだが、役者のクオリティが高いので十分見応えがある。
南アのアパルトヘイトというのは知っているようで知らないわけで、その一端が描写されており、啓発的価値は高い。アフリカ民族会議(ANC)の綱領的文書が南ア政府の手によって発禁扱いとされ、公安警察の許可がなければ閲覧できなかったというのは初めて知った。
それまで微温的だった刑務所の処遇をより厳格に運用すべく着任した新任刑務所長の演説内容は、とても近代社会とは思えないほどの、あらわな人種差別のオンパレードだ。しかも彼は「おまえら看守は、軍人にも警官にもなれなかったハンパものだ」といい、差別の下層転化、つまり虐げられたものがより下層の人を抑圧することで、立身を図るプロセスを助長しようとする。
これはアパルトヘイトの実態と、マンデラの気高き精神性だけでなく、いつの世にもある下層官僚の鬱屈をとらえた映画ともいえる。
マンデラが最後に移送された刑務所は、刑務所というよりは文字通りの別荘みたいな快適なところで、懲役ではなく幽閉ともいうべき状態だったようだ。これもまたアパルトヘイトへの国際的圧力の成果なのだろう。
しかしそれを喚起したのは、ANCの長期にわたる、殺人・爆破を含む反アパルトヘイト闘争だ。「数々の請願は無視された。我々はもはや暴力で立ち向かうしかない」とマンデラは言うのだが、反人種差別の闘いにおいて、テロリズムはどのように許容されるのか、という点についても、もう少し突っ込んだ解釈があってもよかったと思う。
看守の妻役のダイアン・クルーガーは相変わらず美しい。アパルトヘイトは神様の思し召しと信じ、夫の立身出世だけを願っていた凡庸な妻さえも、夫を通してマンデラの声を聞き、しだいに感化されていく。この人、芝居うまくなったね。(WoWoW/★★★★☆)
■ポール・ハギス監督『告発のとき』(2008年アメリカ)
原題の「In the Valley of Elah(エラの谷にて)」は旧約聖書にあるゴリアテとダビデが戦った谷のことだという。キリスト教圏ではピンと来る題名なのだろうが、日本人には馴染みが薄い。だからといって、この邦題はなんとかならなかったものか。私なぞどこかで観た映画だとばかり思って、すっかり見逃していたもの。
軍隊内犯罪をミステリー仕立てで解き明かす映画ってのは意外と多く、一つのジャンルをなすほどだ。古くはピーター・オトゥール主演の名作『将軍たちの夜』、この15年ぐらいの間にもジョン・トラボルタの『将軍の娘/エリザベス・キャンベル』とか、トム・クルーズの『ア・フュー・グッドメン』など、印象に残る映画がいくつかある。日本では自衛隊内の椿事は映画化されない/できないけれど、向こうでは軍隊内人間模様といえば、格好の映画の題材なのだ。
しかも先のテキサス州フォートフット陸軍基地での乱射事件のように、大統領の外交日程を左右させるほどの驚くべき事件が起こる国柄だから、こうした映画もまたリアリティをもつのだろう。
ミステリーとしての仕立ては60点ぐらいで、そんなには面白くない。そもそも、これはミステリー・サスペンスとして観る映画じゃないだろう。イラク戦争に対する疑問を、ストレートにぶつけた反戦映画。そうみれば、かなりの秀作である。
一人のイラク帰還兵が基地のそばで無惨に切り刻まれ、焼き殺される。当初は麻薬取引にからむ犯罪と目されるが、父と現地警察の女性刑事が執拗に調べるうちに、その真実が明らかになる。
息子とその戦友たち、真面目で礼儀正しい青年らの顔からは想像もつかない、精神の荒廃がやがて浮かび上がる。戦地で「犬を殺す」ように現地住民を殺戮した記憶は、そのまま帰還後も引き継がれ、ちょっとした喧嘩でも、虫けらを殺すようにナイフをふるうことになってしまった。「共に砲弾の下をくぐり抜けた戦友たちは、けっしてウソをつかない」という、父のベトナム戦争時代の経験と確信は、ものの見事に裏切られる。
戦地からの息子の訴えを paternal (父性的)な態度で聞き流してしまった父。かつてアメリカの正義を素直に信じることができた patriotic な父の戦争と、大義を失った息子の戦争。二つの星条旗掲揚のシーンの対比。最初の星条旗は父のプライドの象徴だが、ラストの星条旗はその失墜を意味する。あまりにもわかりやすいところが、あえて言えば映画の難点。それにしてもあまたある「アメリカの戦争」映画で逆さまの星条旗というのはおそらく前代未聞。アメリカでの興行成績は最悪だったというが、それもそのはずだ。トミー・リー・ジョーンズは覚悟の出演だったに違いない。
息子の携帯電話に残された動画が謎解きの重要な手掛かりになるのだが、その映像を入手する過程がいかにもご都合主義的なところを除けば、もう少し高得点をつけたいところだ。(WoWoW/★★★1/2☆)
友人ETお薦めの『チェイサー』はたしかに力作。猟奇殺人を扱った映画は無数にあるが、この十数年ではベスト10に入るかも。ワタシ的にはベストワンはデヴィッド・フィンチャーの『セブン』かな。古いのでは当然ヒッチコックなどが挙がるけれど。(DVD/★★★★☆)
土曜日、表参道を散歩していたら、紀伊國屋のところがこんな風なビルに。ずっと工事しているなとは思っていたけれど、オープンしたのいつだっけ。色調を細かく変えた壁面ガラスと、タワー棟の全面に輝くイルミネーションが軽快で美しい。ファッション関係のショップが多いが、時節柄テナントが埋まらないようで、募集中の掲示がしてあった。
表参道に出かけたのは、イメージフォーラムでSと『アンナと過ごした4日間』 を観るため。
感動的という感じの映画じゃないけど、見応えは十分。東欧の重たい雲の色が、映画全体の色調になっている。とはいえ、映画のテーマは「愛」。限りなく偏執狂的な「犯罪」であるけれども、ときにはそれを「愛」と呼ぶしかない衝動だ。
回想のなかでたまたま主人公が、レイプされる女性を目撃するシーンがある。主人公の「愛」の形とは似ていて非なる、正反対の暴力。そのあたりの描写は、サム・ペキンパーも戦慄するほどのバイオレンスの美学だ。
主演男優の身振りが、Mr. ビーンを思わせるところがあって、少し笑える。ストーカーされる女優が全然美人じゃなくて、ふつうのおばちゃんみたいなのも、また一興。
映画館を出ると雨がぱらついている。銀座のもつ焼きの名店「ささもと」へ。ここのもつは絶品だ。店の雰囲気も場末と違って、女性でも臆せず入れる上品さ。やはり銀座だ。焼酎を8:2ぐらいの割合で赤ワインで割った「葡萄割」もなかなかいける。
ここで結構飲んだんだが、腹にたまるという感じではなかったので、小石川の焼肉屋へ。へべれけになって深夜に帰還。
ところで昨日来、Booxter 作者の Matt からテスト依頼があり。小さなテストプログラムを3度にわたって走らせる。最後はなかなかいい感じだった。これで直るかなあ。
_ ET [この春のオープンですね。見た目はユニークだけどまさに空っぽの世界です。表参道は金曜日に行きました。こっちのほうが面白..]
『トムマッコルへようこそ』の原作者でもあるチャン・ジンが2007年に撮った作品。強盗殺人で無期懲役の模範囚が一日だけ外出を許され、15年も会っていない息子と母親に会いに行く。息子とは3つのとき別れたままでこれまで一度も面会したことがない。懲役囚はその顔さえ忘れてしまっているのだ。
映画の途中までは、ぎこちない父子関係にしだいに血が通い始める過程をたどって、まあ、よくある父子モノかなと思ったのだが、終わりの15分ぐらいがちょっと違う。驚愕のラストというほどでもないが、すっかりダマされてしまった。その詳細を書いてしまうと未見の人には申し訳ないので、一切書けないのだが。
『トンマッコル』にも共通する独特のユーモアは好ましい。
監督は「私自身はストーリーが順調には終わらない作品の傾向が好きだ。私の好みもあるがこのような展開にしなければきっと退屈だったのではないだろうか」と、あるインタビューで述べている。
たしかに退屈さからは免れている。というよりも、ここでは「父」と「子」の血縁関係はいわば一種の象徴性なのであって、それにとらわれなくても、人と人の心の通い合う瞬間というものはあるのだと、気づかされるのだ。(NHK-BS/★★★☆☆)
サイバー犯罪を扱う映画もネット技術の進歩を追いかけ、さらに追い抜くように、新手の犯罪手段を考案するようになる。『真実の行方』(96年)『オーロラの彼方へ』(00年)が印象深いグレゴリー・ホブリット監督、ダイアン・レイン主演の『ブラックサイト』(08年)。
猫を罠にかけて殺すシーンをえんえんと流す闇のサイト killwithme.com は、物見高いネットユーザーの間でしだいに評判になる。そのうち、毒物入りの注射器をセットした拷問台に、男を縛り付けた映像が現れた。アクセス数の増加につれて、注射器からは少しずつ毒物が被害者の体内に注入されるという仕掛けだ。
Webのアクセスカウンターと、外部の機器や装置のアクチュエーターを連動させるということは、技術的に可能なんだろうか。Webアクセスを何らかの信号として取りだすことができれば、決して不可能だとは思わないが、それが実現したという話は聞いたことがない。ただ、この映画ではもっと先を行っていて、携帯電話や自動車までがネットを介して「ハック」されることになる。
目の前でリアルに進行する犯罪を阻止すべく、FBIのサイバー捜査官ダイアン・レインらは動き出すのだが、サイトのIPアドレスはたえず変更され、遮断してもすぐにそのサイトのコピーが現れる手の込んだ仕掛けが施されている。しかも使用サーバーはロシア、すなわちFBIの管轄外というの一応の説明(いまどき、これだけでは弱いと思うけれど)。捜査官たちは被害者が死ぬまでの瞬間をただ呆然とモニターで見やるしかないのだ。
昔から闇の世界ではリアルな殺人儀式を観衆に見せたり、それをビデオに撮ったスナッフムービーというものがあるらしい。それらがネットに流通してもなんらおかしくはない。さらに、2ちゃんねるに代表されるような野次馬サイトでは、猫殺しの画像が評判を呼び、自分で放火した家の炎上シーンを投稿する輩もでてくる。
荒唐無稽と笑い飛ばせない技術的可能性と、実際にありうる、ネットを感情の増幅装置として利用した劇場型犯罪が、この映画のベースだ。技術的問題はいろいろと指摘されようが、それなりにリアルっぽく映画に取り込んでいるなという感じ。
人々の熱狂的な好奇心と、冷酷な無関心はコインの裏表というあたりが、映画の伝えるメッセージ。「死刑だってそのうちネットで中継されるようになるさ」というような台詞があったように記憶している。
ダイアン・レインを観るのは『パーフェクト・ストーム』(00年)以来だと思うが、FBi捜査官としての激務と子育てに疲れ果てたオバサンな感じがよく出ていた。80年代の知的美貌は取り戻すべくないが、まあ、これはこれでよいんではないだろうか。
最後は、体操選手のようなしなやかな肉体(スタントウーマンだとは思うけれど)で反撃し、黄門様の印籠のようにFBIのバッチを見せる派手な立ち回りを見せるのだが、このあたりはジョディ・フォスターの最近の演技を意識しているようにも見える。そう、ダイアンはジョディより3つも若いんだものな。まだアクションで生き残れる?(WoWoW/★★★☆☆)
最初はこのタイトルどうなんだろうと思っていたが、見終わってやはり原題の『The Kite Runner(凧追い)』よりは、これしかないかな、と。
70年代のアフガニスタン。裕福なパシュトーン人の家庭に雇われる、モンゴロイド系少数民族ハザラ人の召使い一家。雇い主の息子と召使いの息子という関係にありながらも、アミールとハッサンは兄弟のように育ち、仲がよい。
だが、12歳の冬の凧合戦の日、臆病者のアミールはハッサンを裏切り、盗みの汚名まできせて友人の人生を台無しにしてしまう。それから26年。今はアメリカに住み新進小説家としてデビューしたアミールのもとに一本の電話が。彼は意を決して、タリバーン支配下のカブールへ償いの旅へと旅立つ……。
アフガン出身の作家カーレド・ホッセイニの原作はあくまで小説だが、彼がかつて育った時代「中央アジアの真珠」と呼ばれたカブールの美しい街並みが、郷愁と共に再現されている。それが78年の軍事クーデターとその後のソ連侵攻、さらに98年のタリバーン実効支配に至る過程で、無惨にも崩壊していく様子も。
私は多数派のパシュトーン人によるハザラ人に対する差別がこのような形で現れていることをこれまで知らなかった。亡命したアフガン系米国人の生活の一端もなかなか興味深い。ソ連兵やタリバーン兵の腐敗と暴虐も、どこまで事実に即しているかは不明ながらも、かなりひどい描かれようだ。
こうしたアフガニスタンの歴史的・社会的な文脈とエキゾチックな風景が横糸に、少年たちの友情の物語が縦糸に織り込まれ、奥深い映画になっている。
もちろん、アミールとハッサンの知られざる関係や、今はタリバーン幹部になった幼なじみとの遭遇シーンなど、韓流映画も真っ青のご都合主義的な仕掛けもあるのだが、それで映画が興ざめになることはない。誰もが想起するのは、カンボジア内戦とポル・ポト支配を舞台に、ジャーナリストとアシスタントの友情を描いた映画『キリング・フィールド』(84年)だろう。
ところで私も子ども時代に凧揚げに興じたが、空中で相手の凧の糸を切る凧合戦はやったことがない。映画を見てもよくわからなかったのだが、どういうテクニックを使うんだろう。マーク・フォスター監督。公式サイト (WoWoW/★★★★☆)
『イントゥ・ザ・ワイルド』2007年製作 ショーン・ペン監督
大学卒業と同時に都会と文明を捨て、森と共に生きることを選んだ若者の物語と思いきや、家庭問題を抱え込んだモラトリアム青年の自分探しの旅だった。
むろん背景には、アメリカ文化の一端にある反都会主義(それこそソロー、エマソン、オーデュポンから60年代のヒッピー文化に至るまで)の系譜がある。さらに、荒々しい自然によって鍛えられ、男として成長したいという青年らしい気負い。ただ、そんな身勝手な“野望”の前に食料として犠牲になるウサギやジャコウウシはたまったものじゃないけれど。
主人公クリスには、私生児として生まれた過去と、それを隠蔽するように一見幸福そうに営まれる擬似家庭への反発がある。大学卒業までは優等生としてふるまうが、いったんその擬制をリセットしない限り、社会的大人としての自立はなかったのかもしれない。そこで選ばれた通過儀礼が、全米を放浪する生活であり、アラスカの荒野への挑戦だった。
放浪の旅で出会うのは、トウモロコシの刈り入れに従事する季節労働者であり、トレーラーカーで全米を移動する元ヒッピーたちだが、彼らにも「小さな悩み」はあり、「家庭問題」がある。隠遁生活に安住する孤独な老人にも、人とのつながりを求める瞬間がある。「ほんとうはクリスは、冒険ではなく、失われた家庭の再建をしたかったのだ」──というのが監督の示唆であろう。
しかし、クリスはアラスカへ向かう。そこで何年生き抜くつもりだったのかどうかはわからない。ワイルドライフの経験を糧に、いずれは都会の人混みへと回帰するのは必至だったろう。
荒野に放置された廃バスでの生活。廃バスというのが寓意的だ。荒れ野は、昔の荒野ならず。そこにも文明の浸食の跡が刻まれている。荒野の中へとはいうものの、クリスは荒野の縁に留まったまま、ただそれを覗き見したにすぎないのか。
世間知らずのアマちゃんヤンキーの冒険譚といってしまえばそれまでだが、ただ、私にも共感するところはある。豊かさの中の不幸と自分探しの旅。かつての全共闘世代も直面した「現代的不幸」(@小熊英二)への抗いが、そこにはあるからだ。新鋭エミール・ハーシュの激ヤセの演技には驚いたが、これもまたカタチを変えた摂食障害という病いなのかもしれない。(DVD/★★★1/2☆)
『その土曜日、7時58分』2007年製作 シドニー・ルメット監督
都会的なクライム・ストーリーとそこにおける破滅的人生を描かせたらこの人。83歳なのに、なんでこんな映画が撮れるんだと、その健在ぶりを感じたが、とはいえ往年の『評決』」『セルピコ』『狼たちの午後』にははるかに及ばない。前半部の展開は、コーエン兄弟の『ファーゴ』を思わせるが、コーエン兄弟にあるような突き放したユーモアがそこにはない。映画としては中途半端。
一点、マリサ・トメイの40代半ばとは思えないハリのあるオッパイは必見。(DVD/★★★☆☆)
『接吻』2008年公開 万田邦敏監督(WoWoW/★★★☆☆)
『レイクサイド・マーダーケース』2004年製作 青山真司監督(WoWoW/★★1/2☆☆)
いずれも悪い映画じゃないんだけれど、ツメが甘い。「接吻」のストーリーの仕立ては面白いが、主人公女性(小池栄子)の異常な心理を際立たせるためにこそ、もう少しディティールを重視して欲しかった。
たとえば獄中結婚をかぎつけたマスコミが殺到するシーン。スクープ記事を狙うのだから、ふつうは接触するのは1社の記者だろう。あんなにいきなりドタバタ追いかけはしない。法廷や拘置所の面会所の描写にもリアリティを感じられない。
主題を浮き彫りにするためのディティールの欠如は、後者の『レイクサイド』にも言える。子供たちの冷酷さをあらわすシーン(たとえば、スリッパでチョウを踏みつぶす)が、いくつかは描かれているのだが、中途半端。むろんこれを強調すると、謎解きが台無しになるというジレンマはあるものの..。結果としてテレビの「火サス」風のよくできたドラマ程度の印象に終わってしまった。
『バーダー・マインホフ 理想の果てに』2008年製作 ウリ・エデル監督
めちゃくちゃ派手で、いい加減で、残忍で、展望のないドイツ新左翼闘争史。長尺。史実に即しているのだろうし、映像にリアル感は感じるのだが、時代背景以上に、68年世代の自己探しというあたりをもっと描いてほしかった。とりわけ、ジャーナリストから活動家へ転進するマインホフの内面がちょっとわかりにくい。内面がないと物語性が希薄になる。
おそらく制作者たちがいいたいのは、警察官僚役のブルーノ・ガンツに言わせた言葉「社会の根本的問題が変わらない限り、彼らのようなテロリズムは止むことがない」というものだろうと思うのだが...それもまた表層的な理解ではある。
結構役者がすごいんだと思った。重鎮ブルーノ・ガンツにアレクサンドラ・マリア・ララも出ている。『ヒトラー最期の12日間』のメンツだ。というか、マインホフ役のマルティナ・ゲデックは『マーサの幸せレシピ』『善き人のためのソナタ』の人だし...。マイナー作品と思っていたが、このあたりは意外。現代史資料としての価値はあるかも。(渋谷シネマライズ/★★★☆☆)。
『ワルキューレ』の一番のポイントは、史実に基づいた作品だということです。ナチスドイツやヒトラーをテーマにした映画は数多くありますが、「ドイツ内にもナチスに対するレジスタンス運動があった」こと、さらに「ナチス政権の中枢にいる人たちが関わった大胆な暗殺計画が実行された」ことまで描いた映画は、ほとんどなかったのでは?「ほとんど……」と逃げているが、2004年にテレビ用映画として『オペレーション・ワルキューレ』という作品がドイツで製作され、日本でもDVDが販売されているのを知らないのか。WoWoWでも先週の日曜日に放映されたようだ。トム・クルーズ版の映画紹介を読む限り、ほとんど同じストーリーだ。たしかに知名度ではトム・クルーズには負けるが、『オペレーション……』主演のセバスチャン・コッホ(後に『ブラックブック』『善き人のためのソナタ』などに出演)の演技は見事だった。 他にもこのヒトラー暗殺計画を描いた映画は複数存在する。そのことを、多くのメディアがあえて無視している。「知られざる史実の初めての映画化」というニュアンスをキャッチフレーズに入れて封切りを盛り上げたい一心なのだろうが、こうした過去の作品に敬意を表しない態度は、たとえ配給会社の宣伝マン(と化したライター)とはいえ、いかがなものか、と思うのである。 ナチス抵抗ものの映画に一定の関心をもつ私ではあるが、そういう事情もあったりして、トム・クルーズ版にはあまり食指が動かないのだ。
_ 宮澤 [「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」はいい映画だったよね。あれも史実に基づいているのだ。「ドイツ内にもナチ..]
1月に前編『チェ28歳の革命』(原題:The Argentine)、2月14日に後編『チェ39歳別れの手紙』(原題:Guerrilla)を観た。
前編では以下のようなことを感じた。
・デル・トロよりゲバラのほうが数倍カッコイイ。デル・トロは野獣的すぎて、知的ではなく、そもそも、配役としてもう少し痩せるべき。
・ノンフィクションではないとはいうものの、モンカダ兵舎襲撃や、グランマ号による上陸作戦(の失敗)など、重要なモメントが外されているのは疑問。モンカダ襲撃にはゲバラは参加していないけど、キューバ革命を表現する上では重要だと思うのだが……。
・ゲバラの1964年の国連での演説シーンが度々挿入されるが、時期的にはシエラ・マエストラでのゲリラ戦より後の話であって、背景を知らない観客は混乱するかもしれない。
総じて、ゲバラがなぜ・何のために戦うのかというところが説明不足。映画としては、ゲバラのキューバ革命前史を描いた『モーターサイクル・ダイアリーズ』(主演ガエル・ガルシア・ベルナル)のほうが圧倒的によい。ま、こっちでゲバラの「動機」を理解しておいてから、『チェ 28歳の革命』を観て下さいという話だろうか。
こうした難点はたしかにあるものの、最後まで飽きずに観ることはできた。監督に妙なイデオロギー的思い入れがなくて、革命運動という「戦略」よりは、革命運動下におけるゲリラ戦という「戦術」的な視点を貫いているからかもしれない。あとは見る側が、それぞれのゲバラへの思い入れで補ってくれ、とでもいうかのような、やや突き放した感がある。逆にいえば、ゲバラを知らず、ゲバラへの思い入れがない人が見ると、戸惑うだけの映画かもしれない。
後編もまた同様だ。こちらはほぼ全編、ボリビア山中の山岳戦を淡々と描いている。ボリビアに入国するにあたって、ゲバラは偽のパスポートをつくり、ビジネスマンの身なりを装うのだが、その変装が、いま残されている実際の写真とソックリだとか、ゲバラと共に闘った女性兵士タニアがけっこうドジで弱々しく描かれているとか、このタニア役のフランカ・ポテンテと、神父役で一瞬登場するのはマット・デイモンで、おおこれは『ボーン・スプレマシー』以来の共演ではないかとか、映画的に興味深いエピソードはあったものの、映画の展開は基本的には『ゲバラ日記』に依拠しているようだ。
その本は、山岳戦の日常を細かく記したものだが、村人を巻き込んだ有効な戦線をつくり出すことができず、疲労と病気と怪我と食糧不足に悩まされながら、全体に敗北へと向かう暗鬱なトーンが支配的で、かつて読んでいて息苦しかったことを記憶する。映画でも、部隊がいくつにも分断され、それぞれが違う稜線や谷間をたどりながら撤退したり、合流しながら、どんどん追い詰められていく様子がリアルに描かれる。
キューバ革命のように、山岳と地上の2つの戦線の有機的結合は、ボリビアでは実現できなかった。今からすれば時期尚早の冒険主義であって、ゲバラの敗北はいわば必然でもあった。ただ、そうであったとしても、なおゲバラがボリビアに向かわざるをえなかった、その身もだえするような革命への思いが、本来は映画の主題であるべきなのだが、残念ながらその描出に成功したとはいいがたい。一口でいえば、描き方が「淡々とすぎる」のである。
以前、NHKが放映した戸井十月によるドキュメンタリーでは、処刑直前のゲバラと、彼に水を運んだ村の女教師との会話というのがあったが、そこは映画には描かれず、代わりに見張りのボリビア軍兵士との短いやりとりが挿入される。「キューバには信教の自由はあるのか」と問う兵士に、ゲバラはこう答える。「もちろん、あるさ。ただ、私自身は無神論者だ。私が信じているのは、人間だ」。その言葉の力強さに、ボリビア兵は一瞬たじろぐ。そのように、ゲバラには言葉と行動を通して人を変える力があった。それがボリビアの社会的現実を変える力=ヘゲモニーに育つには、その後の40年という歳月が必要だった。
デル・トロもまあ一生懸命、演技をしたし、ソダーバーグもまあそこそこ撮ったとはいえるだろう。しかし、望むらくは、ゲバラによって触発されたかのような、より奥深い映画的エネルギーだった。そこがこの映画には欠けている。
後れ馳せながら、DVDで『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』を観た。1971年に『純愛日記』として公開され、田舎の高校生であった私を痛く感動・興奮させた映画のオリジナル完全版だ。『純愛日記』の思い出については、以前、同じロイ・アンダーソン監督の『散歩する惑星』のところで少し触れた。
ひっきりなしにタバコを吸う少年少女たちやそのファッションはいかにも70年代的ではあるが、それを除けば、映画はけっして古びてはいない。35年前のフィルムは、見事なまでにデジタル処理されており、映像のみずみずしさは当時も今も変わらない。撮影は『みじかくも美しく燃え』や『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』と同じヨルゲン・ペルソン。説明と台詞を極端に排除したストーリー展開は、まさに「スタイリッシュ」と呼べるものである。
だからけっして悪くはなかったのだが、あの感動を再びというのとはちょっと違う、不思議な体験をした。
私の記憶の中で、この映画は典型的な青少年恋愛ものなのだが、今回再見したら、印象が微妙に違うのだ。もちろん14歳の少年少女が主人公であることは間違いなく、彼女たちの幼いなりに真剣な恋愛がメインストーリーであることもまたその通りなのだが、その恋愛譚を地に浮き出た文様だとすれば、むしろその「地」の部分にこそ不思議な味わいがあって、それが映画のふところを深いものにしているのだ。「地」にあるのは何かといえば、それは、二人の家族・親戚など周囲の大人たちの、エキセントリックな立ち居振る舞いだ。
初公開当時は約20分カットされ、今回のが完全版だという。当時もカット部分があることは知られていたが、その多くは少年と少女のセックスシーンだとされていた。しかし、どうやら他の部分も削られていたようだ。
たとえば、少女には独身の叔母が一人いて、それが子供のいない独身の身の不安を延々と少女に語るシーンがある。あるいは、田舎の別荘に両家が集まるパーティでは、異常なまでに笑い転げるその叔母が、唐突に、対面する席の男から殴られたりする。前後の脈絡は描かれないから、その暴力がどういう事情なのか、観客にはわからない。ただ、それらのシーンを、私は全く覚えていなかった。
厳密な考証のためには当時のフィルムを再現して比較するしかないが、おそらくこのあたりの一見、意味不明なシーンも、71年版ではカットされていたのではなかろうか。
ラストのパーティシーンでは、少年の父が沼の中で入水自殺を図り(実際には周囲の勘違いだったのだが)、みんなが霧の中を大慌てで捜索したりするシーンがある。これもまた覚えていない。「ええっ、こんなカット、あったっけ」と、私は呆気にとられた。
当時削除されていたとすればやむを得ないが、そうでなかったとしても、私の記憶がそうした、映画の「地」を成している「問題のある大人たち」の存在をすっかり消し去っているということはあるだろう。長い間の風水で柔らかい地表が削られ、堅い部分のみが岩山として残るのと似た、私の側の記憶の風化。そのせいで、35年前と今回では、映画の印象が微妙に違った。少年少女の切なくも愛らしいラブストーリーは、それ自体で独立してあるのではなく、すべて大人たちの鬱屈の鏡の中でこそ、輝いていたのだ。
今回、完全版を観ることで、ロイ・アンダーソン監督の、変わらぬ作風というものを感じることができたのは幸いだったかもしれない。『スウェーディッシュ〜』に登場する奇矯な大人たちは、その後の『散歩する惑星』におびただしく登場するおかしな「隣人」たちによく似ている。未見だが最新作『愛おしき隣人』にも、きっと「彼らは」同じように登場するはずだ。
その大人たちの表情には、おかしみに彩られた死の匂いがする。そもそも、『スウェーディッシュ〜』で少年と少女が出会うのは、老人介護施設のようなところだった。人生の終わりに近づいた老人たちの世界。そこに14歳の少年少女たちの、若い性と初々しい好奇心が、対照的に置かれている。美しい田園の緑を息づかせながら、ときに雲に遮られるような斜光線の中に、少年と少女は置かれている。その輝きが一瞬であればこそ、映画の生命は永遠なのである。
というわけで『ミスト』。フランク・ダラボン監督作品は、結構観ているな。『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』『マジェスティック』など。脚本にかかわった昔の『ザ・フライ2』なんかも覚えている。なかでも『ショーシャンク〜』は私の好きな映画のベスト10に入る。で、同じスティーブン・キング原作となれば、いちおう観ておかなければ。
田舎町のスーパーマーケット。山のほうから降りてきた深い霧に街は一瞬にして包まれるが、その霧の中には「何か」がいた……。異世界から来た魔物たちに、物理的にかつ精神的にもとらわれる人々。映画では軍隊の秘密研究が失敗して、異次元から呼び寄せてしまったモンスターたちということに一応なっているが、あんまり説得力はない。むしろ、それらは、キング原作ということもあり、リアルな怪物というよりは、人々の恐怖が生み出した夢の中の魔物のようにさえ思える。
魔物の造形には、『海底2万マイル』(巨大タコの触手)、『エイリアン』(クモの糸にからめとられ、繭にとじこめられてしまう人間)、『宇宙戦争』(巨大なポッド)などこれまでのSF映画からの引用がふんだんにされていて、それはそれで楽しい。そいつらが手を変え品を変えながら、人間を襲ってくるのだが、いっそのこと怪力で建物ごと木っ端微塵に粉砕すればいいのに、そうはしない。恐怖は持続し、人々の籠城は続く。映画が描きたいのは、外敵のおどろおどろしさ以上に、極限状況における人間の異常なふるまいなのだから。
物語の重要なプロットになるのが、旧約聖書の黙示録的世界観だ。私はその方面に詳しくはないが、狂信的な巫女(マーシャ・ゲイ・ハートが熱演)が叙述する聖書の終末感と魔物の襲撃は照応し、住人の多くはその女の扇動に巻き込まれ、魔物を鎮めるために生け贄を差し出そうとさえする。
監督の宗教的態度は定かにはわからないが、扇動家の巫女が脱出派の手によって最後には撃ち殺されるところをみると、呪術的な観念や原理主義的なものへの嫌悪感があることはたしかだ。
いわば、マーケット内では宗派対立が起こっているのである。なぜなら、主人公デヴィッド・ドレイトン(トーマス・ジェーン)に率いられるグループとて、脱出の先に何があるのか合理的な判断を下せるわけではない。ただ、そこにいては巫女の呪縛にとらわれて、人間性を失ってしまうという危機感があるのみである。ドレイトンはその恐怖から人々を救う新宗派の預言者にすぎない。
その宗派対立、あえていえば旧教に対する新教の対立は、一見、新教の勝利に終わるかに見えて、そうはならない。新教の神もまた残酷な試練をドレイトンに課し、彼はそれに耐えなければならなかったのだ。
こんなふうには書いているが、何もこの作品を宗教映画だというつもりはない。そこそこよくできたSFパニックホラーという評価で十分だ。だが、キリスト教的な物語と重ね合わせると、また別の楽しみ方ができるというだけである。(☆☆☆★=3.5/5点満点))
マンハッタンのヤッピー(死語?)たちが巨大モンスターに食われる話。日本公開時の配給会社の宣伝が派手だったというが、私は何も知らず、レンタル屋で偶然手に取った。監督には『ゴジラ』へのオマージュがあるともいわれるが、モンスターへの関心や憐憫が一切ない点で、日本的怪獣映画とは映画的志向が異なる。「9.11」の衝撃を踏まえての映画であることはたしかだが、特に政治的メッセージはない。ハンディカメラ風など映像の斬新さは感じるが、今となっては既視感もつきまとう。
全体には「いま風」なアメリカ映画。パニック・ムービーとしてはそれなりに楽しめるが、それだけだ。
自由の女神像をパニックの象徴として使う映画は他にもあったが、首を飛ばしてしまったのは初めてかも。埃まみれで転がっているその顔は、なぜかアンコールワットの仏像に似ていた。
ベス役のオデット・ユーストマンはラテン系の美女。演技がもっとうまくなれば、今後ブレイクしそう。迷信深い田舎町でのモンスターとの格闘を描いた、フランク・ダラボンの『ミスト』と併せて観ると、いろいろと面白い比較ができる。(☆☆★=2.5/5点満点)
松涛でポルトガル料理で夕食、その後、神保町で少し飲んで、零時前に帰宅。
今年のカンヌ主演男優賞、チェ・ゲバラ伝記映画が2部作で公開決定!だそうです。ゲバラって人気あるんだなあ。ベニチオ・デル・トロは雰囲気は似ているが、インテリジェントかどうかというと、ちょっと疑問。
先日顔を出した金時鐘さんを中心とした詩と音楽・舞踊のイベントの打ちあげで、ひょんなことから映画監督・黒木和雄の話題が……。先日、戦争レクイエム三部作の『父と暮らせば』(宮沢りえ/原田芳雄主演)をDVDで観て、いたく感動しておっただけに、タイムリー。
しかしながら、黒木和雄はその初期作品を私はちゃんと観ていない。いや、戦争レクイエムも『美しい夏キリシマ』が未見だし、遺作『紙屋悦子の青春』も観ていない。
最近の作品はTSUTAYAで借りられるとはいえ、初期のものはそう簡単ではない。そこで「初期傑作集 DVD-BOX」というのをヤフオクで探して落札。『とべない沈黙』(1966年)『キューバの恋人』(69年)『日本の悪霊』(70年)の3つがセット。近年、ATG映画が再評価されているというが、それを語るには外せない監督。8月は黒木月間とすることにしよう。
MacBookの内蔵 HDD を入れ替え。OS新規インストール、主要データのコピーで無事に復旧。内蔵ディスクの換装はこれで2度目。取り外しは簡単だが、ディスクをマウントして押し込むときに、内部のガイド用のゴムが邪魔してなかなか入らないんで、少々焦る。このゴム、意味あるのかな。押し込んでもカチっと音がしたりしないんだものな。ま、ちゃんと動いているからいいか。
日曜日は銀座で『敵こそ、我が友〜戦犯クラウス・バルビーの3つの人生〜』を観ていた。監督が『ラストキング・オブ・スコットランド』を撮ったケヴィン・マクドナルドだというので俄然興味が湧く。地味なドキュメンタリーだが、公開2日目ということもあり、客席は満員。
ナチス戦犯の数奇な生涯をたどる。むろん映画はその犯罪性を擁護するものではないが、彼一人を断罪するものでもない。むしろ、バルビー一人にスケープゴートのように罪を押しつけて平然としている、アメリカやフランスの戦後社会を問うものだ。
バルビーの弁護を買って出たベトナム系フランス人の弁護士は言う。「ユダヤ人の強制移送にはときのフランス政府も荷担していた。いわば、バルビーの罪はフランス人の罪でもあるのだ」。
戦争犯罪と戦後犯罪との、いまだ清算されない密接な関係。その構造は日本でも同じだ。
NHKBShiで昨夜再放送された『シリーズ新的中国人 芸人 毛沢東に似た男』というのがメチャ面白かった。
毛沢東と背丈と額のハゲ具合が似ていて、演説をそっくりの口調でモノマネする芸人が、中国にいる。書もよくし、毛沢東の書体を伝統保存する「毛書体研究所」なる組織の長を名乗っている。あるとき、彼は紅軍の長征の跡をたどりながら、毛沢東由来の観光地で、パフォーマンスを演じる旅に出る。それに同行した中国人若手ドキュメンタリストの作品だ。
芸人は、自分は毛沢東崇拝主義者であって、その思想を人々に伝えるのが使命だと宣うのだが、要は各地で芸を披露し、自分が書いたという「毛書体」の解説書や揮毫したなにがしかの額を、人々に売りつけるのが目的だ。ホテルで着替えた人民服の胸には「主席」と書かれたリボンまでついている。人々の前でポーズを取り、毛沢東のようにタバコを吸い、彼の革命詩を、毛沢東に似た少し甲高い声で吟じてみせる。
現代中国において毛沢東の思想的影響力がいかほどのものかは推して知るべしだが、それでも毛沢東はいまなお人民にとっての「アイコン」である。芸人が各地で出会う人々は、ときに毛沢東を称え、彼を神だといい、彼によって中国は救われたといい、そのポスターを部屋に飾り、彼の生家を訪ねては、写真を撮る。
地方の共産党幹部はもとより、ふつうのオジサンやオバサンや、仏教の坊さんや、四川省のチベット僧までがそういうのだから、これには少々驚く。毛沢東をモノマネする芸人の本性を、金が目的だと見抜き、侮蔑の眼差しを向ける人がいないわけではないが、多くの人は、彼の演説に笑い、一緒に写真に収まってくれとせがむ。
ある中年の女性は、そのモノマネにいたく感心し、若かりし頃、一度だけ車列の中の毛沢東を間近に見て、声を挙げることもなく、ひたすら陶然としたという少女紅衛兵時代の思い出を語る。自分が経営する養鶏所の看板を、芸人に揮毫して欲しいと頼む。
などという会話は、下手な映画の脚本よりも数倍も面白い。書の値段が、人民元ではなく、米ドル建てというのも笑える。
毛沢東の生家のそばで料理屋を営んでいた女性がいた。革命成就後に毛沢東が帰省した折り、一緒に写真に写ったその人は、その写真が新聞に掲載されると全国的に有名になり、その後、「毛家飯店」なるレストラン・チェーンで財を成すようになった。いまや豪勢な館に自分の蝋人形まで置いている。その女性経営者を訪ねて、芸人は握手をする。毛沢東の威光は、人々に富をもたらす。今度は芸人がそれにあやかる番だ。
その一方で、別の隣人はいまなお見るからに貧しい暮らしで、80歳を過ぎた老婆は、曲がった腰で畑仕事をする毎日だ。「ワシも一緒に主席と写真に映りたかったよ」と歯の抜けた口元が悔しそうに笑う。彼女もいま写真に収まる。しかし一緒に写るのは、主席本人ではなく、そのモノマネをする芸人だ。
これも一つの「格差」なのだろうか。
福建省あたりの沿岸部には古くから媽祖の信仰があるが、さながら毛沢東は労働者・農民にとって民間信仰の対象のようでさえある。その信仰は、現世御利益に直結している。現代中国の拝金主義の風潮が、そのアイコンをいまなお輝かせる。
私はキューバのハバナの街で、アイスクリーム屋の客引き用に飾られていたチェ・ゲバラのポスターを見たことがある。ゲバラは死して、アイスクリーム屋を儲けさせる。しかし、革命のアイコンがもたらす現世利益は、ここではキューバの比ではない。革命の皮肉の強烈さもまた、その比ではない。
救われるのは、ドキュメンタリストの冷徹な視点だ。権力にこそ執着したものの、金には無頓着だったといわれる毛沢東。そのモノマネで身すぎ世すぎをする芸人。その芸を笑って楽しむ人々。可笑しくもあり、同じくらいもの悲しくもある、イデオロギーの変わり果てた姿。これもまた、現代中国の諸相の一つであることはたしかなのだ。
キューバの亡命作家、レイナルド・アレナスの自伝をジュリアン・シュナーベル監督が映画化。ハビエル・バルデムが好演、ジョニー・デップが怪演。革命と反革命、独裁と自由がテーマ。
なぜ、社会主義独裁は、同性愛者を差別し弾圧するのか。むろん、ふつうの資本主義下における市民社会においても、偏見から解き放たれているわけではないし、キリスト教やファシズムの同性愛差別はもっと残酷なものだったが……。いずれにしても、それは社会の生産性にとって同性愛はマイナスであると認定するからであろう。生産力主義の誤謬。
同じジュリアン・シュナーベル監督作品。
レイナルド・アレナスの自由と表現を封じたのが、社会主義独裁の牢獄だとすれば、本作の主人公ジャン・ドミニクのそれを奪うのは、片方の目のまばたき以外に、全く動くことのない植物人間としての肉体だ。その牢獄をここでは「潜水服」に象徴させている。
それでも主人公は自分の意思を、介護者らによるアルファベットの口述をまばたきの回数で指定することで、伝え、単語を綴り、一冊の書物として残すことができた。本人の意志の勝利であると同時に、介護という営みの最も優れた成果でもある。
病棟で意識の戻った主人公の瞳にぼんやりとさし込む光と、その瞬間に縫いつけられる片方のまぶた。それを瞳の主の側から描く映像。ルイス・ブニュエルほどにはシュールでもシンボリックでもないが、それと同じぐらい残酷で、かつ美しい。
映画の美しさは、ジャン・ドミニクの瞳に映る人々、たとえば言語療法士役のマリ=ジョゼ・クローズ(『ミュンヘン』にで素っ裸で殺される女暗殺者の役)のような美女たちによっても醸し出される。こんな誠実で優しい美女たちに囲まれながら死期を迎えることができたのだから、この男は幸せ者といえるのかもしれない。
死期をさとった男の最期。残される家族や、友人、愛人との交流。それだけ取れば、『潜水服〜』と設定は似ていなくもない難病モノ映画であるが、こちらはなんせ原作が秋元康だしなあ。期待していたわけではないが、その通り、あんまりでした。
役所広司の演技は並みのデキだったとしても、今井美樹は完全なミスキャストだろう。その演技に途中ずっとハラハラしていたが、最後にやっぱりぶち壊しだった。とりわけ、病床を訪れる妻と愛人の描き方は、ありえねぇ。涙が流れないわけではないが、せいぜい1.5ミリリットル。
屈託を抱えた素人が、何事かの訓練を重ねて、最後には人生のハレ舞台に立つという、カタルシス映画。『Shall we dance?』とか『ウォーターボーイズ』などの系譜に連なるものだが、二つ目落語家の生活ぶりを丹念に描いていて、それなりに面白かった。
国分太一の劇中の落語は、最後まで下手だとは思うけれど(笑)。むしろ伊東四朗の話芸のうまさが引き立つ。若手の落語をガチンコで聞いてみたくなる。
というわけで後れ馳せながら、『靖国』を観てきた。渋谷のシネ・アミューズという小さな小屋。高齢の観客もいたが、若い人もちらほら。長尺のドキュメンタリーだから、見続けるのに気力と体力が必要だと思っていたが、意外と最後まで寝ずに観られた(笑)。というか、これはかなりの力作だ。
反日か親日か、なんていう議論はそもそもどうでもいい。そういうナショナリズム基準で映画や芸術を平然と区別するセンスは貧しい。
軍服と兵隊ラッパで参拝する老人たち。その出で立ちは「軍服フェチ」かよと思うぐらい異様だが、欧米でも戦勝記念日などのパレードではときどき見かけるシーンではある。ただ、その姿が、なぜかもの悲しく、滑稽に見えるのは、いまそこにある靖国神社が「戦勝」を奉祝する場ではなく、「敗戦」の惨めな記憶を引きずる場所であるからだろう。靖国は慰霊の場というよりは、日本人にとっては、ルサンチマンの発揮の場であるように思える。
軍服姿で騒々しく参拝する人たちがやってくる度に、そこに眠るとされる「英霊」たちは、痛恨の思いを再び喚起され、けっして安らかではないだろう。
「小泉首相を支持します」と日本語で書かれたプラカードと星条旗を掲げる、ミズーリー州からやってきたという変なアメリカ人が映っていて、これがすごく可笑しいんだけれど、もっと可笑しいのは「小泉支持はその通り。でも星条旗はダメだ。リメンバー・ヒロシマ、ナガサキ!」と来場者に一喝され、すごすごと境内の外に追い出されるシーン。
ここで日の丸以外の国旗を掲げるのは、違法なのか。逆に、靖国における日の丸が持つ特定の意味を感じさせる映像である。
「特定」の意味とは、つまり靖国は日本国家と日本人の“聖域”であり、それと異なるものはすべて排除しようとする強度の排外主義に貫かれた場所である、ということだ。
そのことは別のシーンでも描かれる。神社のそばで開かれていた保守派の集会で君が代の演奏が始まると、そこに二人の青年が「小泉参拝反対!」を叫びながら突入してくる。当然、集会参加者に追い出されるのだが、この追い出し役を買って出た男の異常性が、これまた笑える。
「おまえら、なんだ。中国か。中国に帰れ。中国に帰れ」
と叫びながら、しつこく青年たちを追い回すのだ。「チューゴク、カエレ」を30回は叫んだろうか。まるで2ちゃんねるのような醜い排外主義のリフレイン。ちなみに、その青年たちは、言葉づかいからみて、明らかに中国人ではなく、日本人なんだけれども。
その騒動で、額から血を流した靖国反対派の青年が、救急車に押し込められようとするのを制して、「こんな傷ぐらいなんでもないです。日本によって侵略されたアジアの人たちが流した血に比べれば」と芝居がかった口調で絶叫するのも、まあ、これも笑える。私なぞは、急にそこだけ、時代が70年代にプレイバックしたような錯覚にとらわれてしまう。「血債論」ってのもありましたなあ。
ついでながら、その保守派の集会で壇上に立ち、時代錯誤の宣言文を読み上げた女性は、たぶんあの「稲田朋美」だ。な〜んだ、自分の映像が勝手に使われたのに気づいて、映画の反宣伝を始めたのか、こいつ。個人的理由を公的理由にすり替えるたぁ、政治家としての品格を疑うよ。
日本には、戦争についての価値判断はせず、無名戦士の墓地のようなものとして、靖国をとらえる気分がある。お盆の年中行事のようにそこを訪れる遺族の多くはそのような思いだろう。その慰霊の気持ちを、外国からなんのかんの言われるのは心外だ、というのはわからないでもない。
しかしながら、「戦没者の魂は靖国に宿り、安らかに眠る」というのは初めからウソじゃん。それは、明治政府によって作り出されたイデオロギーにすぎない。所詮、慰霊とは、生き残ったものたちが自らを演出する行為にすぎないから、そのイデオロギーのなかでまどろんでいたい人はそうすればいい。
しかし、それを拒否する思想があることも事実だし、それもまた尊重されなければならない。
たとえば戦死した父の合祀取り下げを求めるお寺の住職さん(真宗遺族会・菅原龍憲氏)が語る靖国。
「合祀取り下げをいうと、靖国神社は、合祀は遺族の要請ではなく、国家によるものだというのです。つまり、国家によって徴兵され亡くなった人々は、死後もなお国家に囚われたままなのです」
その言葉がいちばん重く響いた。
映画の基調としてたびたび登場する刀鍛冶のおじいさん(刈谷直治氏)には、まあ、騒動に巻き込まれちゃって大変でしたね、と同情したい。彼自身は、根っから寡黙な職人肌の人で、けっして声高に何事かを叫ぶ人ではない。監督からの「靖国についてどう思うか」という趣旨の問いにも、終始笑って答えずじまいだ。
しかし、こうした沈黙の中に潜む政治性というものを、映像は引き出そうとした。神社と天皇制と軍隊が結びつくおどろおどろしさ。そのことに無自覚な日本人に対する、この映画はアジアからの問いでもある。優れたドキュメンタリーだけが特権として行使できる、映像の冒険。それがここでは試みられている。
この件、ネットのブログをサーチすると、いつものようにイデオロギー論争。ぱっと見、半量ぐらいは上映中止、または上映について疑義をはさんだ国会議員の行動に賛意を示す論調だ。映画館の上映自粛のことよりも、むしろこうした日本人の反応こそ、世界に伝える価値があるニュースだと思う。世界から笑われるのを覚悟して……。
誰もその映画を見ていないのに、この映画を「中共の謀略宣伝」とまで言い切る輩もいて、「中国人」「靖国」という2つの項を与えると、自然に方程式が解けるという体の、単純な反応にはいつもながらヤレヤレなのだが、これら賛成議論の論調のなかで、多少は議論するに値する論点と思えるのは、
──独立行政法人芸術文化振興基金の助成金の応募規定に「宗教的、政治的な宣伝意図を有する活動でないこと」とあるので、それに違反する可能性があるとすれば、国会議員が試写を要求するのは当然。また、これに違反する映画に助成金を支出したのは問題──
とするものだ。これは試写を要求した稲田朋美議員(写真)の表面上の主張でもある。
「宗教的、政治的な宣伝意図」とはプロパガンダのことであろう。その映画がプロパカンダであるか、ドキュメンタリー作品であるかの線引きは難しい。リーフェンシュタールのナチ党大会の記録映画は、当時は明確なプロパカンダとして機能したが、いま見れば、優れたドキュメンタリー作品である。このように微妙な問題であるのを、国会議員ごときが裁判官のように審査できるものなのか。判断に、その国会議員の宗教的・政治的な傾向が反映されないと誰が言い切れるのか、という問題は残る。
たしかに国会議員は国民の代表ではあるが、私たちは芸術審査の権限まで彼らに委ねたわけではない。稲田議員は試写に臨むにあたって、「ひたすら政治的に中立であるかどうかという観点でチェックした」旨の趣旨を述べ、試写の後に「力作であるが、偏ったメッセージを発しており、助成金支出は妥当ではなかった」旨の発言している。
しかしながら、「偏ったメッセージを発している」という稲田議員の感想の妥当性を問うためには、誰もが自由にこの映画を見られる環境がなければならない。公金支出の是非はそれから検討してでも遅くはないし、むしろ映画が広く公開されてからでなければ、その是非を問うことさえできないのだ。
そもそも、実際に政治と宗教の喧噪の渦に巻き込まれつつある靖国神社を対象にしたドキュメンタリー作品に、なんらの政治的メッセージも含まれないようにと期待すること自体、無理である。たとえ最終的に一つの政治的意見を擁護するものであっても、それがたんなるプロパガンダに終わらないようにするためには、監督は細心の注意を払わなければならない。それに成功したとき、初めてドキュメンタリーは作品としての普遍性を獲得できる。
公的な芸術振興財団が資金を提供するかどうかは、その映画の個別の政治メッセージにではなく、ひとえに映画としての普遍性になのであって、「政治性があるから公金支出はダメ」というのは、ドキュメンタリー映画制作を今後一切、この国は支援しないというのに等しい。むろんそうなっても別に構わないけれども、そのことが世界に知られれば、日本の文化政策の貧困が嘲笑の対象になるだけだ。
稲田議員は「上映中止は本意ではない」というが、しかし、現実的には彼女らの「チェック」という名の政治行動が、街頭右翼や保守系団体・日本会議、さらに市民の一部の上映館に対する抗議行動(電話による、面談によるを含む)を招いたことはたしかだろう。直接的行動だけでなく、日本的な意味での世論の「空気」を醸成することに繋がった。映画館主が「圧力」と感じたのは、言ってみればこのような「空気」のことだから、この圧力を詳しく実証することは難しい。しかし、日本社会が法的な権利または法的な保護(表現の自由)のもとでも、こうした「空気」のごとき同調圧力に弱いことは、これまでの歴史を見ても明らかだ。あえて、NHK従軍慰安婦特集番組改変問題や品川プリンスの日教組集会拒否問題をあげなくても。
私は稲田議員が映画という文化財を「事前検閲した」とまでは言わないが、少なくともこの空気の醸成役を買って出ることによって、結果的に私がこの映画を見る楽しみを奪った、奪いつつあるように思う。この人は、映画ファンにとっての敵である。
思うに、この騒動は、現代日本の政治思想のなかにおける最も危ういゾーンである「靖国」という事象に、歴史的に日本人が複雑なコンプレックスを抱いてきた「中国人」である監督が、ドキュメンタリー「映像」という強烈なイメージ手法をもって斬り込んできたことから始まっている。そのことを稲田議員やそれになびく人々は、心底、恐怖しているのだ。もう、映画を見る前から腰がブルブルと震えているのである。小便さえチビっているかもしれない。できれば「見たくない」「視界の外に追いやりたい」という心理が、映画上映を中止・自粛させる「空気」として波動したのである。
その波動は、私にとってロクなものではない。微力ながらそれを押し返さなければならない。上映する映画館を探し出し、ルンルン気分で見に行くという、一映画ファンとしての自然な行為によって。
_ bacci [この映画、フランクフルトで開催中の「Nippon Connection」という恒例フェスティバルで上映されているよう..]
ナチス末期の通貨偽造工作「ベルンハルト作戦」は実際の出来事で、ザクセンハウゼン強制収容所のユダヤ人に贋造させたポンド紙幣は当時の流通量の1割に達したというからすごい。贋造すればナチスを助けることになるが、それを拒否すれば再び強制労働や銃殺の目にあう。死を賭して正義を守るのか、義に背いても命を守るのか。そのジレンマに置かれた囚人たち。
彼らの生殺与奪の権利はナチスの将校の手に握られている。彼らの命は、面従腹背というぎりぎりの線上に、か細いマッチの灯のように揺らめくしかないのだ。限界状況におけるスリリングな駆け引きのドラマといえばその通りで、それはよく描かれ、娯楽作品としての一流の仕上がりになっている。だが、映画が向かうのは、たんに個人が直面する理不尽なジレンマというよりは、より普遍的な人間の連帯に関する問題であると思う。
贋札づくりのためにナチスに選ばれ、優遇される囚人たちがいる一方で、壁の向こうには、強制労働(軍靴のテストのために走らせられ続ける)と死を待つだけの「選ばれなかった」囚人たちが存在する。互いが交流することはけっして許されない。精巧な贋札を作り続ける限り、選ばれた囚人たちは生き延びることができるが、それはナチス体制の延命に繋がる。そして、自分たちの生の時間が長引けば長引くほど、選ばれなかった囚人たちの命は縮まるのだ。
収容所解放の瞬間に、その残酷な天秤の存在を、あからさまに知ることになった主人公たちの解放後の「生」とは何なのか。
自分は助かったという安心感と同時に、自分だけが仲間を犠牲にして生き延びてしまったという罪悪感。これもまた、収容所に囚われた人々の心理に典型的なものだとは思う。そして、それはシチュエーションを超えて、再びこれからも起こりうる限界心理ではあるのだ。
そのあたりをきちんとえぐりだすことで、映画はより深みを帯び、見応えのあるものになった。もともと贋札づくりのプロであったがゆえに、作戦に抜擢された主人公サリー役の、カール・マルコヴィスクという役者。見るからにノワールで悪党風な風貌がいい。私にとっては、『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』などと並んで、記憶に残るホロコースト映画の一つに数えられることになるだろう(☆☆☆★/5点満点)。
友人の1人が昨年のベスト1に挙げていた作品。公式サイト。
トム・ティクヴァというドイツ出身の監督はまだ42歳と若いが、『ラン・ローラ・ラン』や『ヘヴン』の人と聞いて納得もした。両者ともに独自の世界をもついい映画。その才能は投資価値があると、プロデューサーらは踏んでのうえで、この大作を任せたのだろう。美術には相当な予算がかけられているようだ。18世紀パリの腐臭に満ちた下町とか、橋の上の奇妙な建築物が倒壊するシーンとか、処刑台に群がり倒れる群衆とか、これを見るだけでも一見の価値あり。
得も言われぬ天使の香りのようなオーラを放つ処刑台の周りで750人のエキストラが服を脱ぎ交接するシーンはCGではないというが、よくぞ撮ったり。パゾリーニ映画を彷彿とさせる群衆の痴態。だが、冒頭の臍の緒をつけたまま産み落とされる赤ん坊は一部CGじゃないかなあ。もしそうじゃないとしたら、ほんとよくやるよ。
たんに物量やグロテスクなシーンで圧倒するだけじゃなくて、何気ないカットにも感性を感じる。たとえば、恐怖の殺人鬼から逃げ出すために、リシ(アラン・リックマン)と娘のローラ(レイチェル・ハード=ウッド)が馬で遁走するシーン。レイチェルのかぶる帽子が風に飛ばされ、赤毛が風になびくところなんか、鮮やかな色彩感にハッとする。
だいたい、女性の裸をこれほど美しく官能的に描いた映画も近年まれであろう。それも生きた肉体ではなく、屍体を。たとえそれが巨大なガラスの水槽につめられたものだとしても……。私に屍体趣味はないが、作品全体にみなぎるエロチシズムは怪しく心を掻き立てる。ふと、リュック・ベッソンが製作にかかわった『つめたく冷えた月』(94年)という映画を思い出したりした。月夜の晩に、美女の屍体を盗む男たちの話だ。
冒頭に死刑宣告のシーンをもってきて、そこから時間を巻き戻すように主人公の生い立ちを語り始め、かなりの時間を過ぎて処刑台となれば、たいていの観客はここでつつがなく下手人が処刑されて大団円と考えがちだ。それでも不満はないほどの、緊密な描写が続いていた。たとえそこからのどんでん返しを予想した人がいたとしても、あのようにゴージャスなカリスマ誕生のシーンまでは想像つかないだろう。そこにこの映画の構成上の最大の見所がある。
この映画のテーマはなんだろうか。倫理的に人間の枠外にある怪物が、最後に贖罪を受けて浄化されるという展開などは、どこかやはりキリスト教文化(たとえそれが反キリスト教的だとしても)のモチーフを感じる。主人公グルヌイユ(ベン・ウィショー)は最後は生まれ落ちたパリの貧民街に戻り、香水で群衆を吸引し、それらによって押しつぶされて、肉体そのものを消滅させるが、これはまるでイエス・キリストの昇天ではなかろうか。香水に幻惑された人々の罪を、すべて購うかたちで消失してしまうのだから(ここでもふと私は、テオ・アンゲロプロスの『アレクサンダー大王』(80年)のラストを思い出したりしていた)。
とはいえ、やはりこれは人の倫理や宗教性を問う映画ではない。あえていえば、フェティシズムの虜となったカリスマの誕生と破滅の物語。愛の不在あるいは究極の愛の形。高度な寓話性をもちながらも、説教臭さを控えめに、娯楽性を厚めにしたところが、キリスト教や香水という文化に馴染みの薄い日本でも受けいられるゆえんだろう。
ストーリーに弱点がないわけではない。たとえば、物語の根幹に触れる部分だけれど、そもそも人の肉体から香水成分を抽出するという発想は、あまり科学的とはいえない。たとえそれが美しい処女に限られたとしても。動物ではジャコウ鹿とかジャコウ猫の生殖腺から優れた香料が取れるというが、はたして人間の肉体はそれほど香るものなのだろうか。ただ、まあこのあたりは物語だから、よしとして。
一歩間違えば、女性の皮を剥いでランプシェードにしたというナチスの悪行を思い出させたり、たんなる猟奇モノに陥りがちなところを、芸術性の高い映像がそれを救っている。
一つわからなかったのは、アラン・リックマンが「俺は騙されないぞ」と剣を片手に処刑台のグルヌイユに近づきながら、最後は「わが息子よ」と平伏すところ。この「息子」にはどんな意味があるのか。象徴的な意味なのか。それとも実際に血の繋がった息子としてのDNAをそこに感じたのか。もし後者だとすれば、グルヌイユはプロバンスの金持ちがパリの屋台の女に孕ませた不倫の子ということになる。もしそうだとすれば、背徳の罪の因果は巡り来りて、ということか。腐臭にまみれたパリの街で、魚のはらわたの上に産み捨てられた父親も知らない息子。彼が悪行の果てにやっとたどりついたのは、父性のほのかな温もりであって、それによって初めて浄化は完成されるということになるのだろうか。
主役のベン・ウィショーは新しい発見だ。処刑台から群衆に向かって香水のついたハンカチーフを指揮者のように振るシーンは、まさに大見得切り。あえて、けれん味たっぷりに演じることで、映画の最高潮を演出している。欧州ではときおり、こうしたけっしてイケメンとはいえないものの、繊細かつ野性的な演技のできる若手が登場する。アラン・リックマンというこれも舞台出身の怪優とがっぷりよつで、いい勝負をしている(☆☆☆☆/最高☆5つで)。
連休中にやったこと。映画『君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956』。半世紀前のハンガリー動乱のことを歴史として勉強するにはいいが、ジャンヌ・ダルクのように勇ましい反ソ革命の闘士とオリンピック選手との恋の描き方は、ドラマとしては類型的すぎるかな。公式サイトにコスタ・ガブラスの『ミュージックボックス』についての記述があるが、これって公開年とか監督名とか、間違っているんじゃないかな。
本は桐野夏生の『グロテスク』。論じられるべき意欲作だとは思うが、オレの琴線には触れなかった。桐野の「娼婦論」を読まされているようで……。で、桐野はそれを説明し尽くしたかというと、最後は自分自身も混乱しているようで……。
後は散歩と酒飲み。
_ ひろぽん [映画スタッフのプロフィールに間違いを発見した件。配給元のシネカノンにメールしておいた。今は訂正されている。]
どうにも調子が乗らないので、映画のことでも。
井筒和幸監督の『パッチギ!LOVE & PEACE』がレンタルDVD解禁になった。前作の続編というより、独立した、もう一つの在日朝鮮人ヒストリーと捉えたほうがいい。あるいは、石原慎太郎批判映画か(笑)。
監督の井筒が、映画の劇場公開時のころさかんに石原プロデュースの特攻隊映画を攻撃していたのは、たまたま同時期公開の映画に対する牽制と、彼のたんなる趣味の問題と思っていたが、そうだったのか、自身の映画の中で完全にパロっていたのか。
石原の映画だけでなく、これまでの日本の戦争大作映画ってのは、ほとんど、脳天気なエスノセントリズム(自民族中心主義)に貫かれている。朝鮮・台湾の植民地から徴兵した(または志願させた)異民族の兵士・下士官のことには触れないままだった。そういうものへの苛立ちもあったのだろう。
コンセプト的にいえば、これまでの日本映画から漏れ落ちていたいくつかのテーマを拾っていて、たしかに監督が言うように「これまでなかった問題作」だとは思う。たとえば、
・植民地下における強制連行と、朝鮮における抵抗運動
(挺身隊への女性の強制連行、徴兵検査からの脱走シーン。ただ脱走した先がヤップ島というのはちょっと解せないが)
・大東亜共栄圏の滑稽ぶり
(ヤップ島の子供らが皇居遙拝を強制されるシーン)
・戦後の在日コリアン社会の形成過程における済州島「四・三事件」とのかかわり
・江東区枝川地区における在日コリアン共同体の存在
(「江東朝鮮人生活協同組合」という看板が映画に出てくる。この地域は朝鮮第二初級学校の土地明け渡し問題の舞台でもある)
・国士舘学生と朝鮮高校の抗争
(これは昔、東京生まれの連中によく聞かされていた話)
・戦後の芸能界における在日芸能人の役割 ……等々
一口に言えば、『血と骨』『夜を賭けて』などに連なる、日本社会における民族的マイノリティーを全面的に主役にした映画。シネカノンと井筒監督はこれを、昨今しきりにエスノセントリックに傾く日本の文化状況に対するアンチとして提出していることは明白だ。
右派からみればただの「反日・自虐史観映画」ってことになるんだろうが、監督らが訴えたいのはたんなる反日プロパガンダではなく、民族共生の多文化的視点であることも、一目瞭然である。
マイノリティというのはつねに芸術の題材の宝庫であり、映画もまた、民族的・政治的・性的マイノリティに関心を持ち続けてきた。最近の映画の傾向でいっても、そうしたモチーフを持ちつつ、作品的にも興行的にも世界性を獲得した映画は少なくない(一例だけ挙げれば、インド系イギリス人監督が撮った『ベッカムに恋して』)。世界的な多文化主義の流れのなかに、この映画はある。少なくとも石原の映画に、それはない。
日本でも、半径3メートルの恋愛話ばかりじゃなく、こういう骨太のマルチカルチャーな視点をもつ映画はもっと描かれてしかるべきだとかねがね思っていた。その点で、井筒は頑張っているとは思うのだが、ただ、娯楽映画としてどうなのかというと、そんなに高い評価はつけられない。
前作に比べよりテーマは先鋭になっているものの、その提出の仕方は生硬な感じはぬぐえない。また、物語の中味は、子供の難病、同胞の助け合い、少女の涙の出世物語、日本人と在日の淡い恋愛といった、甘い人情メロドラマ。
外側は生乾きのまま、中味は甘く柔らかいというのは洋菓子としては成功かもしれないが、映画としてはどうか。もう少し突き放した客観的な視点があったほうが、大人の映画になったような気はする。
在日同胞を贔屓する余り、アブドラ・ザ・ブッチャーまでをも同胞にしてしまうというギャグもあったりして、在日コリアン社会のマイナー・コミュニティゆえの頑迷さをも監督は一方で描いているのだが、そういう大らかな笑いがもっとあってもよいと思う。
私は崔洋一監督の『血と骨』のほうを高く評価するものだが、それはやはりビートたけしの俳優としての圧倒的な存在感があったからだ。この映画にはそれだけの超主役級ともいうべき中心点がない。その点もこの映画の物足りないところだ。
もうおなか一杯というぐらい、在日コリアンをめぐるエピソードをいくつも盛りこもうというのだから、それは相当な決意が必要だ。同時に、映画としての破綻も覚悟しなくてはならない。破綻のギリギリとのところまで行きながら、なんとかかろうじて持たせましたね、というのが率直な感想だ。ただ成功とは言い難く、かといって完全な失敗作ともいえないというところ。
ここまでぶちまけちゃって、井筒はこれからどんな作品を撮るんだろうか。そこに興味はある。(評点3.5点<5点満点中>)
東京で起業した会社を潰し、女房とも別れ、逃げるように実家のある北海道に帰ってきた男(伊勢谷友介)。兄(佐藤浩市)はばんえい競馬の調教師。弟とは13年ぶりの再会だ。最近ずっと勝てない女性騎手(吹石一恵)、兄を世話しながらも結婚に踏み切れない女(小泉今日子)、廃馬寸前の競走馬「うんりゅう」らとの交流をからめながら、男が立ち直っていくストーリー。
根岸監督の作品を観るのはもしかしたら『ウホッホ探検隊』(1986年)以来かも。正統派的な撮り方で、演出のきめ細かい監督という印象があるが、意外と寡作だ。今年は竹内結子主演の『サイドカーに犬』が公開されたが、単館上映だったためかあまり評判を聞かない。
帯広の雪、馬の息、競馬場の土から立ち上る湯気など、黒と白のコントラストを基調とした端整な映像が美しい。Y・Nさんの日記に出てきたタウシュベツ橋梁が雪に映えて美しいたたずまいを見せる。綿密に計算されたシーンを丹念に積み重ね、静かに語りかける映画づくりは好感がもてるが、いまどきの映画に比べると少々「古典的」味わいといえるかもしれない。雪玉を屋根の上に上げて馬の無事を願うシーンは、タイトルの由来でもあるが、二度使うだろうなと思ったら、その通りになった。
俳優陣は健闘。伊勢谷の甘えてふて腐れた口調はちょっと気になるが、これもダメ男の再生の物語ゆえの演出か。佐藤、山崎努らベテランに引き立てられ、演技にはなっている。伊勢谷の元同僚を演じる小澤征悦が意外といい。吹石も女性騎手役を体当たりで好演。
ちなみに、北海道遺産にも指定されるばんえい競馬は、協賛する自治体の財政難でいまや風前の灯火。今年度はなぜかソフトバンク・グループが支援していることは、先月のソフトバンク取材で知った。(DVD、☆☆☆★)
先日のNHK-BS「週刊ブックレビュー」などを参考に、ポピュラーサイエンス系の本などを購入。bk1にて。
・吉田太郎著『世界がキューバ医療を手本にするわけ』築地書館
・福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』 (講談社現代新書 1891)講談社
・西成活裕著『渋滞学』 (新潮選書) 新潮社
・ギャヴィン・プレイター=ピニー著『「雲」の楽しみ方』河出書房新社
・三澤慶洋著『図解でわかる飛行機のすべて ─飛行のメカニズムから航法・離着陸まで』日本実業出版社
・竹田いさみ他編『オーストラリア入門 第2版』東京大学出版会
最後の二つは入荷待ち。
それからディリー・バックアップ用の外付HDDの容量がいっぱいになったので、秋葉館の通販で500GBのHDD(FireWire400/Seagate製)を購入。明日到着予定。
本日の晩飯は、近所の「イーノ・イーノ」。イタリア産のフレッシュ・ポルチーニのソティと、北海道産牡蠣のパスタ。ポルチーニの香りに酔い、カキは厚岸じゃなくて別の産地で名前忘れたけど、そのふっくらとした食感にクラっとなる。この店の素材と料理のレベルは年を追うごとによくなっているような気がする。
すべてDVD。偶然ながら、邦画はいずれもベストセラー小説の映画化作品。『模倣犯』(森田芳光監督/宮部みゆき原作 2002年作品)、『地下鉄に乗って』(篠原哲雄/浅田次郎 2006年)、『手紙』(生野滋朗/東野圭吾 2006年)、『空中庭園』(豊田利晃/角田光代 2005年)。売れ筋の漫画原作、小説原作に頼ることが多く、オリジナル脚本が少なくなった日本映画の現状を、はからずも確認することになった。
『模倣犯』は森田の最大級の失敗作。『海猫』(2004年)もあんまり誉められた映画じゃなかったし、森田ももう終わりかなと思ったが、『間宮兄弟』(2006年)は『の・ようなもの』(1981年)を彷彿とさせる本来の森田テイストで楽しめた。いまどきの日本映画界で森田ほどコンスタントに映画が撮れている監督は少ないが、器用に何でもこなして作風を荒らすのではなく、自らの撮りたいものだけをしっかり撮るべきだろうな。奥田英朗原作の『サウスバウンド』を秋に公開予定というが、どうなることやら。
『地下鉄に乗って』もイマイチ。タイムトラベルの形式に安易に寄りかかりすぎ。
『手紙』はけっこうよかった。ラストの刑務所の慰問会で、玉山鉄二が滂沱の涙を流すシーンは感動的。全体的には、なくもながの演技や脚本も多いが、エンディングの緊迫感がすべての難点を救っている。
『空中庭園』は秀作。小泉今日子の演技が光る。家庭円満のために無理してふりまくわざとらしい笑顔が、一瞬、振り向くと、少女時代のトラウマを背負ったままの夜叉のような相貌として立ち現れるシーンは、凍り付くほど怖い。
女優としての小泉今日子が一皮剥けたのは『風花』(相米慎二監督、2001年)あたりからじゃないかと思うが、『センセイの鞄』(久世光彦演出、2003年)では安定した演技力を発揮、さらに本作品あたりで、ほんといい女優さんになったと思う。洒脱な婆さん役の大楠道代とか、優柔不断の浮気夫役の板尾創路もいい。
洋画ではイーストウッドの『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』を先月に観ている(観るのが遅くて...)。共に完成度は高く、日本視点から描いた前者のほうにより興趣が湧いたが、よく出来た戦争映画という以上の感想はない。うまく言えないんだが、「出来すぎ」という感触がぬぐえないのだ。もちろん悪い映画じゃないんだけれどね。
『ブラック・ダリア』(デ・パルマ監督)は、なんだこりゃ。おそらく原作を消化しきれない脚本の悪さだろうな、何でこの人がこの人を殺すわけ? てな感じで、まったく筋が追えない。デ・パルマ的破調といってしまえばそれまでだが……。
ところでデ・パルマを含む複数の監督が、イラク、アフガンを舞台に新作映画を準備中という(参照記事:米映画界で戦争テーマが復活、話題作が続々登場)。『ユナイテッド93』のポール・グリーングラス、『クラッシュ』のポール・ハギスらが、帝国の戦争の今をどう撮るかに注目したい。
周防正行監督は10年以上新作を撮ってなかったのか。通称「それボク」を後れ馳せながらDVDで観た。映画づくりは意外と(と言ってはなんだが)シリアスだし、リサーチも丹念だ。
「裁判は公正なものである」と素朴に信じる人は今ではそう多くはないと思うが、その公正さが見せかけのものだとすれば、ではその実態とはどのようなものであるのかを、真摯に問いかける。周防は『Shall we dance?』のような人情モノよりも、実はこうした社会派ドラマを本当は撮りたかったのではないかとさえ思える。
私は、70年代に大規模な冤罪事件の裁判支援にかかわった経験があるし、弁護団の立証作業をサポートしたり、アシスタントのような立場で弁護席の後ろの方で筆記したこともある(当時は傍聴人の筆記が認められていなかったため)。別の裁判では証人として出廷したこともある。だから、裁判のプロセスはそれなりに知っていたつもりだが、それでもこの映画で蒙を啓かされることが多々あった。
繊細で一見弱々しいが、気骨の通った青年を、加瀬亮がみずみずしく演じている。小日向文世の柔らかくも冷淡な視線は、この裁判長役にぴったりだ。2000年代日本社会派映画の、今のところ最大の収穫。
フットボール映画です。フッチバルですな、ポルトガル語流に言えば。フッチバルは、カポエイラやカーニバルと並ぶ、ブラジルの民俗芸能みたいなものなんじゃないかと、このドキュメンタリーを観て思う。サントスFC時代のロビーニョとフットサルのファルカン以外、登場するのはみな無名の選手またはその予備軍なのだが、みんな信じられないほどのテクニック。Jリーグだったら、10人抜きできるぐらいのドリブルとフェイント。それを見ているだけでも楽しい。
以前読んだ、『サッカーという名の神様』(近藤篤/NHK出版)に、こんな言葉が引かれている。
「ブラジルでは、サッカー選手が地面からどんどん生えてくる。ロビーニョみたいな選手を1本刈り終えるころには、もうその周りでロビーニョが3本ぐらい芽を出し始めている」
3本どころか、無数の選手の木がにょきにょき芽を出している。
都市部のトップリーグの話はほとんどない。むしろ、それを支える底辺にスポットを当てる。プロテストになかなか受からない少年、地方のアマチュア、ビーチサッカー、車いすの選手など、各層にわたる取材が、このスポーツがブラジル社会に根づいている様子をよく見せてくれる。
ブラジルのフッチバルの、そのリズムのコアにあるのが、ここでいうGiNGA(ジンガ)。ポル語で「揺れる」。カポエイラの基本動作から来ているらしいが、広義ではしなやかなリズム感のある楽しい動作、ぐらいの意味があるようだ。
若い白人の選手が、「俺たちはこの世界じゃ差別されるからね、そんなのに負けてられない」というシーンとか、アマチュアの全国(全州?)大会では、同時に美人コンテストが催され、美人コンテストで勝ち上がった地区は、サッカーの試合で負けても敗者復活戦に臨めるんだという、のんびりしたエピソードとか。ある意味、現代ブラジル民俗誌とでも呼べそうな映画だ。(ブラジル/2005年/WoWoW/☆☆☆☆)
『バベル』のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリト監督作品を、逆順で追っかけ。日本公開時にはそこそこ話題になっていたのを知っていたが、見逃していた。複数の細かいエピソードを、時系列を無視して並べながら、最後にはそれがジグソーパズルのピースのように収まるべきところに収まっていくという手法は、『バベル』にも共通するもの。
「魂」というものに質量があるとは思えないが、もし質量があるとすれば、それは21グラムだというのは、西欧の何かの言い伝えなのであろうか。あるとも、ないともという、そのはかない重さに象徴される、人の生と死の間の薄鼠色のような境界線。この作家はそこにカメラをすえながら、登場人物たちの息づかいに静かに寄り添う。
そこに響くのは、ショーン・ペンの体内で死に至る臓腑の音や、ナオミ・ワッツのまさに魂の抜け殻のがらんどうのような呟きだ。神に見放された肉体労働者、ベニチオ・デル・トロの物言わぬ、動物のような瞳も、冥府への境界線に据えられたカメラだからこそ、捉えられた映像だろう。
脚本(ギレルモ・アリアガ)、撮影(ロドリゴ・プリエト)、音楽(グスタボ・サンタオラーラ)のスタッフも、『バベル』そして前作『アモーレ・ペロス』(未見)と同様。注目すべきチームだ。
エンドロールに流れる、Dave Matthews の“Some Devil"という曲が気に入ったので、Amazon で注文。
(DVD/☆☆☆★/5点満点中/公式HP)
GW中は映画も観た。劇場では『バベル』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督)。これにはきわめて高い評価をあげたい。こんな緊張感のある絵づくりをする監督には久しぶりに出会った。人の心の問題と同様に、グローバリズムの不気味さにもきちんとメスを入れている。いわば、世界ー内ー存在としての視野というべきか。昨今の日本の映画にはなかなか真似できないスタイル。この監督の前作『アモーレス・ペロス』『21グラム』も急いで観なければ。
DVDも当たり週間。『白バラの祈り──ゾフィー・ショル、最期の日々』は、独裁政権下における人間の倫理を問う秀作。ナチス末期にはすでに共産主義者・社会主義者の抵抗はほぼ消滅していたが、軍部の反ヒトラー派と、プロテスタント左派はかろうじて生き延びて、そのほんの一部が抵抗を行っていた。
ショル兄妹の白バラ運動には、西欧風の近代民主主義の理想と同時に、プロテスタントの信仰心が背景にある。彼らは神との対話を経て、そこで得た確信をもとにナチズムの蛮行を裁き、倫理的に優位に立つ。だから強い。
ナチスの検察官や裁判官による取り調べは、まさに異端審問官との議論のような様相を呈する。あたかも、ジャンヌ・ダルク裁判のような。結局、ナチスはゾフィー・ショルの神学的な問いにさえ答えることができない。それに答える代わりに、逮捕後わずか4日目の即決裁判で彼らをギロチン刑(!)に処す。ナチスは政治的・軍事的以前に、倫理的に敗れていたのだ。
このような思想対立(宗教的倫理とファシズムとのイデオロギー闘争といってもよい)は、欧州社会に特有のものではない。日本でも一部のキリスト者や新興宗派の抵抗はあった。だが、すべての宗教者が戦争に反対したわけではないのは欧州も同じだ。ファシズム自身がときには宗教的衣裳を身にまとって登場したし、国家との緊張感を失った宗教は、ほとんどが体制に迎合した。そうした負の歴史を、あらためて思い出す。
この政治と倫理というテーマに関連していえば、70年代イタリアにおける新左翼テロリズムの倫理問題を扱った『夜よ、こんにちは』(マルコ・ベロッキオ監督)がそこそこ面白かった。ここでは、ファシズムに勝ったパルチザンの末裔としての新左翼が、キリスト教民主主義者に倫理的に敗北しているのである。
それらの作品とはほとんど関係ないけれど、今春からスペイン語を勉強し始めた関係で、スペイン語圏の映画は積極的に観ようと思っていて、そこで引っかかった『僕と未来とブエノスアイレス 』(ダニエル・ブルマン監督)という作品もなかなかの佳作。
アルゼンチン・ブエノスアイレスのユダヤ人社会が舞台。ガレリアと呼ばれる商店街の、個性ある面々が、ヒューマニスティック=ユーモラスに描かれる。
■WoWoWで『ヒトラー最期の12日間』を録画しつつ、途中から観る。ナチス政権最終末の戦況や、ヒトラーやゲッペルス一家の自殺の過程、登場人物の何人かについてのエピソードは、先日読んだ、アントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落1945』の記憶がまだ鮮やかだったこともあり、わりとよく理解できた。
ヒトラー役のブルーノ・ガンツ(名演!)をはじめ、第三帝国の建築家アルベルト・シュペーア役のハイノ・フェルヒ(『トンネル』の主人公)、シェンク博士役のクリスチャン・ベルケル(『影のない男』の捜査官役)と、見知った役者の顔が何人かが登場。ヒトラーの個人秘書で、この映画の原作の一つを書いたトラウドゥル・ユンゲ役のアレクサンドラ・マリア・ラーラの無垢な演技もなかなかよい。
まさにこの世が終わらんばかりの悲愴感と、その反作用としての狂乱が同居していたベルリン地下要塞は、20世紀の戦争ドラマで欠かすことのできない舞台といえる。ほとんど妄想状態でベルリン防衛戦を指揮するヒトラーと、彼を恐れて客観的な戦況を伝えられない将校たちの自暴自棄ぶり。それでも豊富にあった酒と食料で夜な夜な晩餐を重ねる地下壕と、ソ連赤軍の攻撃で廃墟となる地上との対比。
街灯には、敵前逃亡や敗戦思想のかどでSS憲兵隊や人狼部隊によって摘発されたベルリン市民たちの処刑死体が吊されている。ニヒリズムもここに極まるともいえる、世にもおぞましい情景だ。
日本でも大きな観客動員に成功した映画だけに、賛否両論も含めて映画関連ブログも賑やか。なかでは、こことここが参考になった。アントニー・ビーヴァーの本に影響を受けていると思われるものの、前者のいう、赤軍の進攻をナチスとベルリン市民がどれだけ恐れていたか、という部分が描き切れていないという点は同意する。ただ、それはこの映画の決定的な瑕疵とまでは言えないだろう。
■ヒトラー関連でいえば、コスタ・ガブラス監督の『ホロコースト〜アドルフ・ヒトラーの洗礼』(原題:AMEN)とヨ・バイヤー監督の『オペレーション・ワルキューレ』(原題:Stanffenberg 2004年ドイツ/日本では劇場未公開 ☆☆☆))も最近観ている。前者はSSの衛生研究所所員クルト・ゲルシュタイン、後者は1944年の7月20日事件の首謀者の一人、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐の、それぞれヒトラー政権に対する反抗を題材にしたもの。いずれも史実の一端を知るという意味では勉強になる。
より重要な作品は前者のほうだ。ゲルシュタインのことだけでなく、ゲルシュタインと共にユダヤ人虐殺の事実をローマ法王に直訴しようとした若い神父のエピソード(史実かどうかわからない)も描かれている。神父は結局、ローマ法王に裏切られた思いを感じ、宗派を超えた人道的な決意に基づいて法服の胸にダビデの星のマークを縫い付け、イタリアのユダヤ人と共に強制収容所に送られ、そこで死んだことになっている。
ナチスのホロコーストに対して、明確な抗議をすることができなかったローマン・カトリックを断罪するという、ガブラス監督の意図は明確だ。ただ、映画としては『ミッション』のようなみずみずしさには欠けるかもしれない。(2002年フランス/ドイツ/ルーマニア/アメリカ 日本では劇場未公開☆☆☆)
ナチスとバチカンの関係については、ここの記事が参考になるかも。それによれば、「この映画は、『第10回フランス映画祭横浜2002』において上映された長編17作品中、最も長く大きな拍手を浴びた。終演後、来日したガヴラス監督と集まった約千人の観客との質疑応答は、深夜まで続いた」という。
■ケン・ローチのパルムドール受賞作品『麦の穂をゆらす風』が公開されている。これは近々ぜひとも劇場で観たいと思っている。舞台設定は、1910〜20年代のアイルランド独立戦争。かつて『マイケル・コリンズ』が描いた時代とダブる。
ちなみに、『麦の穂〜』のサイトにあったアイルランドに関係する映画リストで思い出したのだが、ディビッド・リーン監督の1970年作品『ライアンの娘』も背景はアイルランド独立運動だったのだな。女が、英国将校と不倫をしてコミュニティから排外されるのはその不倫のゆえだと、この作品を劇場で観た中学生時代は思っていたのだが、それはたんなる不倫ではなく、民族にとっての敵との密通という、コミュニティにとってはより「犯罪的」なものだったからなのだなと、今にして思う。
むろん、中坊時代は、そんなこともよくわからず、ただひたすら女優のサラ・マイルズとアイルランドの海岸風景の美しさに酔っていただけなのだけれども。
それはともあれ、ケン・ローチ。いくつか観ているはずだなと思ったが、強烈な印象があるのはスペイン内戦を描いた『大地と自由』のみで、初期の『ケス』はテレビで、2002年の『SWEET SIXTEEN』はDVDで、観たことがあるようなないような……記憶が怪しい。
■で、『SWEET SIXTEEN』をTSUTAYA DISCASで取り寄せたら、ああ、これ一度観ているわ。ただどうしちゃったんだろう、後半の展開はよく覚えていなかった。あらためて観て、これは記憶すべき作品だと思った。
舞台はグラスゴー周辺。少年リアムはまだ15歳。父はおそらく暴力か麻薬で死に、母は新しい愛人の身代わりで獄中にある。今はいやいや母の愛人と暮らしているが、学業はとうに放棄し、友人とタバコを売って小遣いを稼いでいる身。16歳の誕生日の前日に母は刑期を終えて出所する予定だ。リアムは、母が愛人との関係を絶つことを願い、姉やその息子と一緒に住める新しい家を探している。家族はとうの昔に崩壊している。彼は姉と共に、一時は施設に預けられていた。
16歳になるいま、リアムは自らが、この崩壊した家族を再生しなければならないと、男の子らしく努力を始める。何度も光明が差すかに見えて、しかしその手前で光は残酷なまでに閉ざされる。出口はどこにもない。結末は悲惨の極致だ。Sweet どころか苦すぎる16歳の誕生日。
ケン・ローチの政治的立場や映画が追求するテーマは明解で、徹頭徹尾、社会の底辺でのたうつ人々に視点をすえているのだが、けっしてその作品はプロパカンダ的ではない。また、ハリウッド的な意味での、いかなる「ハッピーエンド」をも拒否する姿勢が、そこには貫かれている。
監督の、この映画での少年に対するまなざしは優しいが、それはたんなる人への優しさという意味を超えたものだ。ドキュメンタリストとしての冷徹な視点がベースにある。かと思えば、そこには弱きものを光で包み込む神の気配さえ感じとられる。だが本来、それは社会がもつべき「優しさ」なのではないかと、彼は訴えているように思う。
リアム役の俳優はこれが映画初出演。その前は、スコットランドリーグの2部か3部のチームと契約していたプロサッカー選手だったというが、演技はかなりうまい。少年期と青年期の淡い境界に漂いながら、母や姉への甘え、友人や甥っ子への優しさ、不良少年としての暗い決意など、さまざまに変転するシーンを、表情一つで演じきっている。(2002年 イギリス/ドイツ/スペイン☆☆☆☆)
■『やさしくキスをして』の舞台もグラスゴー。監督はもしかしてここに住んでいるのだろうか。詳細なストーリーはリンク先に譲るとして、一口でいえば英国における移民問題を背景にしたラブストーリー。
以前に、『ベッカムに恋して』という映画を、少女スポ根映画だと思って観ていたら、背景にあるのは移民問題だったということがある。サッカーの試合中に、インド系の少女は相手選手から「パキ!」という言葉で罵られる。言うまでもなくパキスタン系住民への蔑称だ。差別する側には、インドもパキスタンも区別がつかないのである。
『やさしくキスをして』の語り口は、『ベッカム〜』によく似ている。ここでも学校で「パキ!」と罵られる、パキスタン移民の一家の妹のほうは、顔まで『ベッカム〜』の主人公パーミンダ・ナーグラにそっくりだ。
ただ、背景の書き込み方は本作のほうがずっと深い。なぜパキスタンの一家がイギリスに移住しなければならなかったのか。そして、なぜ息子や娘の自立への希望を抑圧してでも、宗教やコミュニティや血族の伝統を守らなければならないのか。それが一家のヒストリーを語るなかで描かれる。そこにあるのは、移民コミュニティの側の防衛的な非寛容だ。
それと対照的に描かれるのは、もちろん、イギリス社会、なかでも、カソリック・コミュニティにおける非寛容ということになる。正式に離婚していない若い女性が、イスラム教徒の青年と同棲していることだけで、その女性は職場を追われる。日本ではすぐにはピンと来ない話なのだが、これは当地では、教区の司祭をエキセントリックなまでに激昂させるスキャンダルなのだろう。
なにせ、グラスゴーはサッカー場でカソリックとプロテスタントが殴り合いを演じる街なのだそうだから、ましてや異教の神を信じる者などと、というわけだ。
互いが属するコミュニティの、非寛容な視線にさらされ、侮蔑され、妨害されながらも、二人はこれからも愛し合いたいと思う。その愛が成就するのかどうか、映画は何も示唆してはいない。
リアル世界でありうる選択として、駆け落ちのようにして別の街に出奔することは不可能ではないだろう。しかし、それはけっして真の解決ではないはずだ。この映画は、必ずしもカソリック社会やパキスタン人コミュニティという特殊性に依拠してつくられたものではない。そこにおける差別と不寛容は、おそらく地球上どこにもあり得る話、どこに逃げようが若い人々の前に立ちはだかる壁なのだとして、監督はこの映画を差し出しているのだから。
イスラムとカソリック、たとえ信じる神が違っていても、二人は会話できるし、恋人としての生活さえ営むこともできるはずだ。それなのに、それを不可能にする社会がある。どこへも逃げることができなければ、二人は別れるしかないのか。そうはさせたくない。しかし何ができよう……。監督と同様に観客もまた、ジレンマを抱えたままに、映画は終わる。
原題の「Ae Fond Kiss...(やさしいキス)」は、劇中で演奏される歌の曲名で、その詩はスコットランド詩人ロバート・バーンズによるものだとか。その旋律があまりに甘美なだけに、道ならぬ恋の行方を思えば思うほど涙がにじむ。(2005年 イギリス/ベルギー/ドイツ/イタリア/スペイン ☆☆☆☆)
■ケン・ローチには近作として前述の『麦の穂』以外に、オムニバスの『明日へのチケット』や『11'09''01/セプテンバー11』がある。いずれも未見。一貫して、社会に対して問題を提起する作家であることはたしかだ。もう少し観てみたいと思い、アマゾンの中古で『カルラの歌』(1996年)を買ってみた。
30年ほど前、井上陽水はこう歌った。
「都会では自殺する若者が増えている。今朝来た新聞の片隅に書いていた」
最近、バタバタと小中高校生が飛び降りたり首吊ったりして死を急ぐのだが、統計上は、陽水がこの「傘がない」を書いた時代のほうが、子供たちの自殺数は大きかった。ちなみに、1974年は277人。79年がピークで380人。それから右肩下がりで数字は減っている。小中高校生人口は当時と比べて減っているから、もしかすると自殺率はいまのほうが高いのかもしれない。ただ、近頃目立って若者が自殺し始めたわけではないのだ。
陽水の歌詞からは、ある意味で当時の時代性を感じるし、別の意味では時代は変わらない、あるいは繰り返すということも感じる。
「今朝来た新聞が...」と陽水は歌うが、傘を買う金がなくても、当時の若者は新聞を読んでいた。いまふうに言えば、「Yahoo!ニュースの下の方に書いていた」となるのだろうか。
テレビで「我が国の将来の問題を誰かが深刻な顔をしてしゃべっている」のは、当時も今も変わらない風景だ。深刻に語るのはいいのだが、テレビで語るぐらいでは何も変わらないのだが。
そんなことより、陽水にとっての「問題は今日の雨 傘がない」ことだった。そして「君」のこと以外は何も見えなくなっていた。「何も見えない」といいつつ、彼は新聞を読んでいる。若者の自殺を考えている。そのあたりが、いかにも70年代の若者風ということはできる。
例によって☆5つで満点。
『散歩する惑星』ロイ・アンダーソン監督 2000年スウェーデン/フランス DVD ☆☆☆1/2
ロイ・アンダーソンは欧州TVCF界の巨匠ということだが、私は彼の1970年(日本公開1971年)の作品『純愛日記』を忘れることができない。高校時代に観た。この前、高校の同窓生たちに聞いたらみんな記憶がないという。自分的にはティーンエイジャーの恋愛もの外国作品のなかでは生涯ベストなんだがな。タイトルの「純愛」とうらはらに、当時は新鮮なセックス描写が話題になった。
その監督の劇場作品で日本公開は、この『散歩する惑星』が2本目かも。70年作品のピュアで透明感のある映像とは違って、こちらは徹底的に絵づくりにこだわったシュールな作品。人物造形はグロテスクとさえいえる。大恐慌のような閉塞状況の街で、おじさんはリストラされ、車は延々と渋滞し、自分で自分をむち打つ宗教儀式のように人々は行進し、ついには犠牲の山羊として少女を断崖から突き落とす……。テーマがあるようでいて、ないような。たぶん、ないな。終末感の漂う、奇妙で滑稽な戯画を長回しで見せられるが、不思議なカタルシスはある。出演者のほとんどが素人というあたりだけ、70年作品と共通する。
『隠された記憶』ミヒャエル・ハネケ監督 2005年フランス/オーストリア/ドイツ/イタリア DVD ☆☆☆
欧州の映画祭では批評家受けする監督らしいが、映画は難解。一歩間違えば退屈。子供の頃の小さな過ちが、他人の人生を変転させた。その報いを受けるインテリ男の話。テーマはさしずめ「存在の耐えられない不安」というあたりか。本人も気づかない人種差別意識の深層というあたりも描き込まれているが、誰にもわかるように伏線を張ってくれるような親切な映画ではないので、観るほうはモヤモヤとした感じが残ったまま。ラストの長いショットの中に、ミステリーを解く鍵があるといわれるが、それこそビデオを巻き戻してスローで観なくちゃわからないような解題の仕方はナシだろうと思う。よくわからん、というのが正直なところ。
『影のない男』メナン・ヤポ監督 2004年ドイツ DVD ☆☆☆
最近ドイツ映画をまとめて観ている。これはドイツ版『レオン』だ。アサンシン(暗殺者)のヨアヒム・クロールは一見冴えない中年男。ジャン・レノよりももっと冴えない。暗殺者を追う捜査官のほうを主人公にすればよかったのに。邦題はかなり安直だが、原題が「LAUTLOS」(英語の SILENT) だからやむを得ないか。ただ、サスペンス映画としてのデキはそんなに悪くない。
(あと、6〜7本ほどあるんだけれど、時間がないので後記する)
主演は、田中裕子と岸部一徳の「ザ・タイガース」繋がり。同じ町に育ち、高校時代につき合っていた高梨槐多(岸部)と大場美奈子(田中)の二人だが、あるやっかいな事情と偶然のために、つき合いは途絶えてしまった。しかしお互いのことは忘れたわけではなく、その後も同じ町に住み続ける。槐多は結婚し、市役所の児童福祉課勤め。美奈子は独身のまま50歳になり、スーパーのレジや牛乳配達をして暮らしている。唯一の趣味が本を読むことだ。
槐多の妻・容子(仁科亜希子)は末期癌であとわずかの命。病床で、夫が若いときからずっと別の女を思い続けており、それが毎朝牛乳配達に来る美奈子であることを知ると、意を決してある日、美奈子に手紙を書く……
とまあこんなストーリーなんですが、いわゆる淡々系の映画ではあります。人の思いって、やすやすと移ろうもののようで、そう簡単には消滅しない。周囲に何も起こらなければ、その秘めた思いは、そのままの形で墓場まで持って行かれたのかもしれないけれど、死にゆく妻、痴呆になった叔父、親に遺棄される子供など、別の生の起伏が、二人が互いに閉ざしていた心の蓋を一瞬にして破砕することになる。
そんなにスゴイ映画ってわけじゃないけれど、田中と岸部のしみじみとした演技がいい。50代の夫婦が見て、互いの来し方を語るにもちょうどよい題材かもしれない。むろん、50代の独身者にとっても。
私は、作中、槐多が市役所を訪れた85歳の老人を掴まえて、切羽詰まったように「50歳から85歳までって、長かったですか?」と尋ねるシーンが一番深くグサっと来た。長いんだろうね、きっと。怖いくらいに。
(監督 緒方明/原作・脚本 青木研次/配給 スローラーナー2004年。WoWoWで視聴。公式サイトはこちら。評点☆☆☆)
福島県南部いわき市出身者限定の話題と思ったていたら、いつの間にか、大ヒット作品になりつつある映画『フラガール』を有楽町のシネ・カノンで観た。
沢木耕太郎が言うまでもなく、「ベタすぎる」ほど「ベタ」なストーリー。ただ、ベタすぎて白ける直前で、観客を魅了する力がこの映画にはある。
ド素人がひょんなきっかけから、スポーツ・芸能の門を叩き、周囲の反対にもめげず、刻苦勉励、努力を重ねて、最後は大団円を迎えるという、いっしゅのスポ根もの映画の典型的作品。
しかし、単純な骨格のストーリーに、昭和40年代という時代性、産業構造改革・リストラという社会性、フラダンスという異邦の芸能の魅力、方言も含めた地方色などを巧みに配し、物語を膨らませている。それらの要素こそが、ヒットの要因かもしれない。なにせ昭和レトロ、フラダンス、ジェイク・シマブクロは現在のブームでもあるし、リストラは形を変え、現代のサラリーマンにとっても切実な問題であるのだから。
それらの要素を盛りこんで、マーケティング的にもかなり成功した映画の部類に入るのではなかろうか。
似たような映画をふと思い出した。閉山する炭鉱と崩壊する地域コミュニティという意味で似たような状況を、イギリスではマーク・ハーマンが『ブラス!』という映画にしている。ただ、『ブラス!』の舞台となったイングランド北部の炭鉱町グリムリーでは長期にわたるストライキが闘われた。崩壊する地域社会の現実も、より深刻に描かれている。
だが、常磐炭鉱ではリストラに対する抵抗は弱く、閉山問題は資本主義的解決で終結した。その「右」的な解決は、三井三池闘争と比較しても明らかだ。『フラガール』はそれを反映してか、全体には明るいトーンが貫かれている。閉山後も続く炭塵被害の問題などはなかったかのように。
それはともあれ、灰色のズリ山と坑道の暗闇、列なす炭住長屋に破れ障子を新聞紙で覆うような生活、こうしたモノトーンの色調に対して、抜けるような秋の空、そして赤や黄色のダンスの衣裳という色彩対比はあざといまでに鮮やかだ。
主演(松雪泰子よりはこっちを主演と呼びたい)の蒼井優のダンスと、笑いながら泣ける演技は率直に評価したい。
土曜日の午後4時の回は満員で入れず。6時40分からの回もほぼ満席。鑑賞後のエレベーターのなかで「昔はお風呂に入りがてらショーをよく観たのよ。懐かしいわ〜。最近は規模もずっと大きくなってね。特に夜の、ファイヤーナイフダンスというのがすごいわよ」てなことを話す、同郷人と思しきおばさまの会話が聞こえた。思わず、「実は私も、小学生の頃、あそこのプールで滑って転びましてね……」とツッコミを入れたくなった。
勝ち点・順位自動計算式(笑)をいちおう組み込んだグループ組み分け表(といっても、2002年のやつのコピペだけど)をExcelで作成して、そろそろお祭りモードを盛り上げる。テレビ、新聞、雑誌の下馬評は全然読んでない(だいたい外れるし)んで、2抜けチームの予想が難しいけれど、ま、だいたいこんなところだろう、なんて◎つけたり△つけたりしながら……。
竹芝のマンションで事故を起こしたシンドラー・エレベータって、世界第2位のシェアなんだってな。日本だと日立、三菱、東芝なんかが優勢だからあまり目立たないけれど。
エレベーターの世界トップシェアはオーティス(Otis)。1853年の創業だ。この Otis に因んで、この前面白い映画を観た。
メグ・ライアン主演の『ニューヨークの恋人』(2002年)。一種のタイムトラベル・ラブロマンスものなんだけれど、タイムホールを抜けて19世紀からやってきた男(ヒュー・ジャックマン)が再び19世紀に戻るとその後、エレベーターを発明したことになっている。つまりは、オーティス・エレベーターの創業者ってことだろう。
Otis の命名には少々伏線があって、ヒューが20世紀のニューヨークで過ごすときに、マンションのドアマンの名前が、Otis 。忠実にドアを開け閉めしてくれるドアマンの名前に因んで、昇降装置をそう名づけたというストーリーだ。本来、エレベーターってのはそうあるべきしろものだからね。
実際のオーティス・エレベーターの歴史は、世界で初めてガバナマシンを取り付けた蒸気エレベーターを発表した米国人エリシャー・オーティスが創業とある。だから映画とは違うんだけれども、イノベーター好きのアメリカ人をニヤリとさせる仕掛けなのかもしれない。
マンションの階下に住むメグの前のボーイフレンドは、PCおたくで、タイムスリップした19世紀男を部屋に匿っているのだが、その言い訳に「NYで開かれるPCの見本市にやってきた友達」ということにしている。字幕では「PC」となっているが、台詞をよく聞くと、「New York Mac Expo 」と言っている。このあたりは、Macオタクがニヤっとするところ。もちろんハリウッド・ムービーの常で、彼らが使っているパソコンは、やっぱり PowerBook だったりする。メグ・ライアンは『ユー・ガット・メール』(1998年)でも PB 使ってたし、個人的にも愛用者なのかもしれない。
オゾン監督作品を観るのは、『スイミング・プール』『ふたりの5つの分かれ路』『まぼろし』についで4本目。
しかしまあ、カトリーヌ・ドヌーブ、ファニー・アルダン、エマニュエル・ベアール…と、なんと妖艶な女優陣。ヴィルジニー・ルドワイヤンは『ザ・ビーチ』でディカプリオに乗り換える女の子役をやったコだな。そうそう、最年少のリュディヴィーヌ・サニエは、その翌年の『スイミング・プール』では、大胆な半裸でシャーロット・ランプリングを翻弄する奔放な娘に成長していた。
雪に閉ざされた館で一家の主であり、夫であり父であり愛人でもある男が殺される。アガサ・クリスティドラマのようなスタート。「犯人はこの中にいる!」てなわけだ。アリバイや動機を問いつめられて、それぞれが語り出す、ウソかマコトか、奇々怪々の内実。でも全然深刻じゃないんだけれど。
映画は一幕の舞台劇のようでいて、フィルムの色彩がまるでハリウッド全盛期のテクニカラーのようでいて、途中で女優達が突然、歌い踊り出すインドムービーのようでいて(ほど大げさではないが)。
典型的な“ハイミス”役のイザベル・ユベールがピアノ弾き語りで、なんとフランソワーズ・アルディの「Message personnel(告白)」を涙ながらに歌い出したときには、私たまげましたよ。歌詞の内容はもう忘れちゃったけど、ああ、なんとも懐かしい、フランソワーズ。
まあ、ストーリー的にはどうってことない映画だけれど、現代フランスの、世代をまがたる女優達の演技の駆け引きが、存分に楽しめる。それを引き出したこの監督、あらためて才能あるわ。(★★★☆/★5つが満点、☆は1/2)
「力道山」を知っているというと年齢がバレる。彼がいまでいえば国民栄誉賞ものの英雄であり、テレビ普及期のキラーコンテンツであった時代を私は知っている。プロレスはプロ野球と二分する人気スポーツだったのだ。
この映画は、日本プロレスの英雄が実は朝鮮半島出身の朝鮮人(史実的には日本に帰化しているので国籍は日本)であったことを手がかりにしつつ、民族差別にさらされながら旧宗主国のプロスポーツ界のトップスターにのしあがる姿を、内縁の妻との夫婦愛をからませながら描いた作品。
力道山はその出自を、生前は親しい友人にもひた隠しにしていたとも言われるが、ソル・ギョング演じる力道山は「朝鮮人をしゃべるヤツにオレの友人はいない」と語りつつも、日本人マネージャーの前で朝鮮語を呟くこともあり、また人目を忍んでとはいえ、焼き肉屋を営む同郷の友人を訪ねるシーンもある。そこでの会話は朝鮮語である。史実と映画の微妙な食い違いはともあれ、こうした被支配民族としての出自と屈折は、この映画の基本テーマである。
……というような教育的理解はともあれ、映画としては「よくできたメロドラマ」という印象。残念ながらそれを越えてはいない。内縁の妻役の中谷美紀はあまりにも美しく描かれすぎ。夫に対する馬鹿丁寧な言葉遣いといい、日本の芸妓に対する製作者の美化作用が強い気がしないでもない。また、タニマチ役の藤竜也も渋すぎる。ここでも日本のヤクザへの美化作用が働く。ソン・ヘソン監督は『仁義なき闘い』シリーズを観ていないのだろうか。
ソル・ギョングの日本語は文法的には正確だが、イントネーションがおかしい。日本語の台詞のときの俳優の表情は硬く、一転して母国語の会話シーンではほんらいこの俳優がもつ深みのある表情になる。これは外国語使用時の違和感や負荷が俳優の中で解消されていないためだろうか。それとも、あえて二つの言語使用シーンの対比を通して、無意識の民族問題を浮き彫りにするという魂胆か。
この映画の最大の素晴らしさは、ソル・ギョングの肉体だ。『レイジング・ブル』におけるロバート・デ・ニーロの肉体改造に匹敵する努力は称賛に値する。私はプロレスには全く詳しくないが、著名なレスラーたちが出演しているらしく、試合のシーンは迫力満点だ。スタントも使っていると思われるが、それを感じさせないほど、ソル・ギョングのプロレスは上手い。
1950〜1960年代の日本を再現する稲垣尚夫の美術は秀逸。稲垣を含め日本のスタッフが大勢参加しているとはいえ、外国人監督が描いた日本の情景という意味では、これまでに観たどの作品よりもよくできている。
その意味で、当時の情景にどっぷりとノスタルジックに思い入れをしたい日本人観客を、この映画は排除するものではない。ただ、かつてあった、そして今もある民族排外主義への反省的意識を、ひとによっては喉に刺さった小骨のように感じることもあるだろう。その痛みをどの程度感じるかは、観る人の屈折度次第である。
3/26新宿テアトルにて。公式サイトはこちら
(評価☆☆☆★/5点満点で3.5)
ようやく映画を観られる日常になった。
■『クラッシュ』(ポール・ハギス監督@シャンテシネ ☆☆☆/☆5つで満点、★は1/2)アカデミー賞授賞式の中継を観ていて、ノミネート作品を全然観ていない(あるいは知らない)のにショックを受けて、あわてて観に行ったのがこれ。
mixi にも書いたけれど、映画の技法的にもテーマ的にも、あまり斬新さってのを感じなかった。LAの庶民の日常を、群像劇として描くというのであれば、ロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』(93年)を思い出さないわけにはいかない。それと比較しちゃ可哀相ではあるけれど、最後まで消化不良感が残る。
ま、アカデミー賞というからびっくりするけれど、ふつうに観ればいい映画かも。音楽はいい。というか、こういう気怠いのは好き。■『ふたりの5つの分かれ路』(フランソワ・オゾン監督@DVD ☆☆☆★)
私としてはふつうあり得ないことだが、サントラCDを先に買っていて、気づいたら映画のロードショーはとうに終わっていて、レンタルDVD化されたんで、ようやく観られたという映画。
ボビー・ソロなど懐かしのイタリア・カンツォーネが挿入されるんで、てっきりイタリア映画かと思っていたら、フレンチだった。30代後半ぐらいの夫婦。離婚届けのシーンから、夫の浮気の告白、妻の出産、結婚、出会いへと5つのシーンを時系列的に遡る形で展開する。男と女の出会いと別れ自体は、百万遍繰り返されるテーマだけれど、その後の二人の道行きがわかっている分だけ、時間を逆行するたびに、人生の一刻一刻の切なさと愛おしさが心に浸みる。 巻き戻して、途中を編集したくなる人生。
原題の『5×2』の邦訳は見事。オゾン監督作品は、シャーロット・ランプリング主演の『スイミング・プール』(04年)も良かったな。今度『まぼろし』(01年)など他の作品も観てみよう。
■『ニュースの天才』(ビリー・レイ監督、トム・クルーズ製作@DVD ☆☆☆)
米国の高級誌の若きスター記者が在任中に書いた多くの記事が、ニュースソースからしてでっち上げだったという事件(実話)をベースにしている。雑誌名や人物名も実名で登場する。
米国の雑誌編集部における校閲体制とか、記事の不確かさを突っ込むライバル誌の編集者と電話会議で議論するところなど、いくつか興味深いシーンも。しかしここまで人を騙せるというのは、すごいストーリー・テラーだったんだな、この記者。雑誌社を解雇後は法科大学院に進み、その後、自分を主人公にした暴露(反省?)小説を書いたというが……。
DVDでは実在の主人公スティーブン・グラス本人が登場して事件を振り返る、短いドキュメンタリーがおまけについている。敗者復活が可能なお国柄ならでは?
_ baci [「Brokeback Mountain」と「Capote」を観ました。どちらも見てソンはありません。アカデミー賞なん..]
どうにも土日の使い方がうまくいかない。結局、ただ寝ている時間のほうが多かった。天気もすぐれず、悔いばかりのみ多かりき暗い日曜日。
それでもDVDで『血と骨』(崔洋一監督/☆☆☆)、『暗い日曜日』(ロルフ・シューベル監督/☆☆☆)を観て、四方田犬彦のイスラエル、パレスチナ、セルビア紀行『見ることの塩』を読み続け、bk1から届いたアボリジニ文化と美術に関する本をチェックする。
映画『血と骨』は衝撃的な大作。同じ原作者の映画化作品『夜を賭けて』(金守珍監督/☆☆)などに比べても、崔洋一の演出はきわめてリアリティがあり、なかでもビート・たけしの不気味な怪物性を引き出した手腕は評価されるべきで、日本への朝鮮人移民の歴史に家庭内ファーザー・コンプレックスを織り交ぜドラマとしての水準も高い。冒頭と終幕、済州島から大阪港に向かう船のシーンに、私はふと、エリア・カザンの『アメリカ アメリカ』を思い出したりした。
ただ、惜しむらくは父・金俊平の暴虐を支える内面を、見ている側がよく捉えきれないところ。捉えきることなど監督にも不可能で、それはそれで放ったまま見せていくという考え方なのかもしれないが……。
『暗い日曜日』は1930年代のハンガリー・ブダペストのレストランを舞台にした愛と復讐の物語と、とりあえずは言っておこう。時代が時代だけにお決まりの、ナチスとユダヤ人迫害問題もからんでいるのだが、それを背景に描かれたニンフォマニアすれすれの女性の物語ともいえる。面白いことは面白いのだが、いまひとつのめり込めず。
ホ・ジノ監督 ☆☆☆★(3.5/5点満点)@日比谷スカラ座
重大な交通事故の知らせで、配偶者の生命の危機と同時にその不倫を知らされた一人の夫と一人の妻。それは「私、何か悪いことをしたのかしら」(ソン・イェジン)というぐらい、平和な日常に訪れた青天の霹靂なのだった。いわば二重の意味で配偶者を失った者同士が、やがて不信と悔悟の泥沼から半身で立ち上がり、復讐と慰めという感情のままに、そして行き場のない焦燥に身を任せるようにして愛を交わす。
あらかじめ欠損を抱えた個として出会い、その欠損を満たすべく倫理を越えて一線を踏み出す、男と女の共同正犯に至る過程が映画の過半を占める。やや冗長な感もなくはないが、映画の説得力を担保するためには必要不可欠な仕儀であったろうと、私は弁護する。その長き前半があってこそ、初めて濡れ場の情感が生きる。
やがて、片側は配偶者を永遠に失い、片側の妻は蘇ることで、不倫の二人の共同正犯=平等関係はバランスを失う。そのアンバランスのなかで、「これから先どのように生きるべきか」は誰も答えを持たない。そもそも、下弦の細い月のように失われた者同士として出会った二人には、満月などは似つかわしくない。欠損を、つまりは新たな出会いによってより深く隈取られるようになった月影を抱えたまま、生きるしかないのであろう。
物語を皮相にみれば、事故はあったものの、本妻は生き残り、愛人もゲットしたヨン様だけが得したような感じもしなくはないが、そういう見方はなんつーか下世話的すぎる。損得論だけいっても、やっぱ妻は死んだほうがこの場合、結果的には都合がいいもの。やはりイェジンよりは、ヨンのほうに、より人生は苛酷だというべきだ。
ちなみに、タイトルの四月の雪とは、解けやすい淡雪というよりは、ここでは季節と人の尋常ならざる邂逅の謂いであると理解した。
書き込む前にネットの批評を読んだ。ネット上で何事か語ろうとするような映画ファンは、おそらくはヨン様ファンではないので、ミーハー風に思われたくなくて、みな言い訳しながら書いているのが笑える。そのなかでは、この評者の分析はそれなりに的確。
上記サイトも言うように、これはヨン様のではなく、ホ・ジノ監督の映画として<玄人風に>観るべし。同監督の恋愛映画手法は成熟の極みにありと思う。台詞の少ない静寂な印象の佳作。まさに映像のバラード=民衆的小叙事詩人の面目躍如だ。
3カ月ほど前から、TSUTAYA の DISCASというDVDレンタルサービスを利用している。ネットで予約するとDVDが郵送されてきて、見終わってポストに投函すると、次の予約作品がまた郵送されてくるという仕組み。近所のレンタル屋ではしょっちゅう貸出中の話題作も比較的楽に借りられるし、マイナー作品もそこそこラインナップされているし、なによりレンタル屋に足を運ぶのも面倒な最近の足腰の弱ったオレには便利かと思って……。
月額固定会費制を選んだので、その月に1本も見なくても会費は徴収されるし、枚数割りにすると割高ではあるのだが、それがかえって映画を観る習慣づけになるのではないか、という思いもあった。
このシステムを利用して最近見た映画から。
■ 「太陽の雫 」(1999年/オーストリア/カナダ/ドイツ/ハンガリー/☆)
■ 「僕の彼女を紹介します」(2004年/韓国/☆☆☆)
■ 「茶の味 」(2003年/日本/☆☆☆)
■ 「ヴェロニカ・ゲリン 特別版」(2003年/アメリカ/☆☆☆)
■ 「グッバイ、レーニン!」(2003年/ドイツ/☆☆☆☆)
■ 「八月のクリスマス」(1998年/韓国/☆☆☆)
■ 「アフガン零年」(2003年/アフガニスタン/日本/アイルランド/☆☆☆)
■ 「ツバル」(1999年/ドイツ/☆☆☆☆)
■ 「ブラディ・サンデー 」(2002年/英・アイルランド/☆☆☆)
■ 「ヴァンダの部屋」(2000年/ポルトガル/ドイツ/フランス/☆)
監督ジャン=ピエール・ジュネ 主演オドレイ・トトゥ(☆☆1/2 最高点☆5つで)
新宿でSと映画会。今月の『ロング・エンゲージメント』は新聞の映画評だけを頼りに選定。第1次世界大戦の塹壕戦をリアルに再現したシーンなど美術は特筆に値する。だが、ストーリーとしてはわりと凡庸な謎解きをくどくど描きすぎ。登場人物が多く関係が複雑なこともあって、いまいちのめり込めない。謎が解けたというカタルシスを得られないまま。あれ、これって謎解き映画じゃないのぉ。「新宿ピカデリー」の一番小さな小屋での上映。スクリーンが小さいうえに背の高い外人さんのせいでよく見えなかったり、外の物音が聞こえたりと、視聴環境が悪かったこともマイナス。
それにしても、オフィシャルサイトのキャストにジョディ・フォスターがクレジットされていないのはなぜだろうか。仏語を流暢に喋る彼女の登場で、観客を驚かせようという魂胆か。ただ、彼女の仏語は、なんか別の映画でも聞いた記憶があるんですけど。これと全体的に似たような雰囲気のフランス映画を少し前に観た記憶があるんだが、そのタイトルを思い出せない。
『イルマーレ』(2000年:イ・ヒョンスン監督 DVD)
『猟奇的な彼女』(2001年:カク・チェヨン監督 DVD)
『春の日は過ぎゆく』(2001年:ホ・ジノ監督 DVD)
韓国テレビドラマは見ていないので、そこで描かれている恋愛というのはどういうものかよく知らないが、映画の方はけっこう面白い。原題の「時越愛」が示すとおり、パラレルワールドとタイムトンネルというSF的小道具を仕掛けにして、交差する2人の恋愛を大人の童話のように描いたのが、『イルマーレ』(☆☆☆)。
イルマーレはイタリア語で「海」の意味であると説明されるが、映画では干潟に建つ現代建築家が立てた住居のことである。この建物はこの映画のためのセットである。そこに続く桟橋や部屋の内部の鋭角な構造が、二人の間に存在する時空の歪みやすれ違いを表象している。その家や、二人が出会いを期する済州島の一本の大きな樹など、印象的な風景がいくつもある。ストーリーをたどるよりも、ただ映像に酔いしれるべきかも。
『イルマーレ』のヒロイン、チョン・ジヒョン(全知賢)は、その翌年は爆発的なヒット作『猟奇的な彼女』でブレークし、2003年には一転して暗いキャラの『4人の食卓』、そして昨年は『僕の彼女を紹介します』(未見)で汎アジア的な人気女優になった。
『猟奇的な彼女』(☆☆☆1/2)に示される、芯の強い、性格のくっきりした女性と、それに気圧されながらもついていく優柔不断な男というのは、現代韓国恋愛映画の基本パターンなのだろうか。後述の『春の日は過ぎゆく』も基本はそうだった。
『猟奇的な〜』はジャンルでいえば軽いドタバタ恋愛コメディだが、役者のキャラがくっきりとしており、かつ演技もうまいので、きっちり芝居を観たという気になれる。99年にパソコン通信に実際に投稿された実録の恋愛話が映画化の発端だというから、日本で言えばさながら『電車男』か。この映画も二人の出会いには駅や電車が登場する。二人の肉体的な交わりが明示的でないところも、電車男? 大学の授業での代返、若者が集う居酒屋、ラブホテルや援助交際など、韓国の現代若者風俗がふんだんに盛りこまれており興味深いが、同時に日本と韓国の都市部というのは、若者の風俗という点ではほとんど変わらないのだなと思う。
ただちょっと意外だったのは、大学生のはずの二人が高校の制服を着て、高校のパーティに潜入するというシーン。大学生にもなってなぜ高校へ、というのが解せない。
ちなみにチョン・ジヒョンは『4人の食卓』(既評 2003年:イ・スヨン監督 ☆☆☆1/2)では一転して、嗜眠症(ナルコプレシー)で精神科に通う人妻を演じる。ナルコプレシーというのは『麻雀放浪記』の作家、故・阿佐田哲也の持病として知っていたが、横断歩道の前で急に倒れてしまうのでは生死にかかわる。ともあれ、これはよく人が倒れたり、墜ちたりする映画である。この女性監督は正立した人間というものに、どこか不信感を感じているのかもしれない。チョン・ジヒョンの女優としての幅の広さが感じられる作品だ。
『春の日は過ぎゆく』(☆☆☆)は、気まぐれな浮気性で、結婚に対してドライかつ臆病な年上の女性に翻弄される若い男の話でもある。というと身も蓋もないところを、松任谷由実も作曲で参加する美しいバラードの主題歌・挿入歌、川のせせらぎや竹林をわたる風の音で覆うことで、リリカルな悲恋物語に仕上げた。女が地方ラジオ局のDJ、男がサウンドエンジニアという現代的な職業であることもあり、基本は都市的モダーンな恋愛映画なのだが、そこに田舎の光景を巧みにからませている。
たんにアンハッピー・エンドに終わるからというだけではなく、男と女の微妙な心理のずれが最後まで残り、見終わった後にどことなく不安な気分が残る。そのあたりを、雑誌ユリイカの特集で韓国の女性映画評論家・金素栄が詳細な分析と共に、全体を「待合室の映画」と評していて、まさに言い得て妙と思った。男と女がすれ違うのは結婚や人生の待合室にてなのだが、女はそこに留まり、男はそこから出て行くという構図だというのだ。
ホ・ジノ監督は『八月のクリスマス』(1998年)が知られているが、まだ観ていない。というようにまだ観ていない映画がたくさんあるのだが、恋愛映画という一つのジャンルだけでも、ただものではない韓国映画のすごみを感じるのである。
13日はSとの定例の映画会。韓国軍事政権下に、朴大統領の理髪師になった男の一家の物語。『殺人の追憶』であらためて注目したソン・ガンホ主演。国家権力へのたくまざる批評精神、したたかな庶民のユーモアなどうまく描かれている。陰惨になる部分をあえてユーモラスに処理する画法は、一種の余裕と取るべきか、それとも娯楽作品にするための必定なのか。Sは「菊」は日帝の象徴だというのだが、それは気づかなかった。
監督のイム・チャンサンという人はまだ若いんだねぇ。若い人にも歴史意識があり、映画への信頼があり、民衆に寄り添う視点があることが、はっきりみえる映画ではある。(☆☆☆1/2 {☆5つで満点})
映画を見終わった後、大久保のコリアン・タウンで焼肉して韓流に浸る。韓流グッズの店がいくつかできていて、あらためて驚く。ただ「鐘路本家」という店はあんまり美味くない。
さらなる韓国映画への興味で、その晩、借りてくる。新感覚サイコホラーという触れ込みで、たしかにホラーなんだけれども、それ以上に、高層マンション群に代表される都市近郊における孤独と不安を形象化した作品とみるべきだろう。その意味では日本の近年のホラー映画と情景や背景は共通する部分が少なくない。そういう現代風景の地のなかに、シャーマン的な土俗的要素をもった人物が紋様として浮き彫りになる、まだらなアジア的近代。高いところから墜落するシーンが3度あり、その墜死への監督のこだわりは何なんだろう。ただ、高層マンションから落ちてくる墜死者と一瞬目があってしまうというエピソードは、どこか別の映画で観たことがあるような。(☆☆☆1/2)
ルシネマで売っていたので購入。2001年の号で、昨今のいわゆる韓流ブームに乗ったわけではないが、逆に同誌の先見性を感じる特集。外国映画の参入をあえて阻み、自国の映画人を育てるという国の映画政策についても若干の解説。突如として『シュリ』や『JSA』それ以降のヒットがあったわけではなく、それに至る韓国映画の源流や軌跡がある程度たどれるものになっている。
韓流とはいうが、昨日の韓国KBS放送(NHK-BS放映)では、今年明けてからは日←→韓の観光客が減少気味。竹島(独島)問題や現韓国政権の対日賠償見直し発言などが影響していると報じている。だが、表層的なブームなどは去った方がいい。そういうものとは別に、朝鮮半島へのまっとうな関心は持続してきたのだし、これからも持続すべきなのだから。
8日は勝手に一日完全休養宣言をして、6時半起床。ハードディスクにたまっているリーガの録画を1本消化してから、久方ぶりに小説など読む。昼過ぎに外出して、本郷まで歩き、喫茶店で本を読み続ける。コートを脱がせる温かい日射し。夕方から池袋で映画を観て8時過ぎに帰宅。
そのままだったら平穏無事な一日だったのだが、映画鑑賞中に電話などあった模様。帰宅後、原稿の一部直しをそそくさと。パブリシティ記事じゃないんだからさ、まったく。とブータレつつ、それを終えてせいせいと就寝。えっ、10時半に寝ちゃったよ。まるで年金生活者の老後の一日ではある。
前作『ボーン・アイデンティティ』が面白かったんで、その続編。はぐれ系アクションヒーローもの。記憶喪失、秘密部隊、偶然の女、インド・ゴアからナポリ、ベルリン、モスクワまで至るワールドワイド性、そしてお決まりの激しいカーチェイスなどなどアクションムービーの王道はちゃんと押さえている。
ただヒットの最大要因はマット・デイモンの抑制の効いた演技と、エージェントたちとの死闘アクションだろう。前作見てないといまいち入り込めないかもしれないけれど、シリーズものってのは本来そうでしょ。前作よりやや劣るがそこそこ楽しめる。で、2作目の興行収入次第では第3作「いよいよボーンの出生の秘密が明らかに!」があるとみた。
それにしても、EU統合の時代に米CIAがなんでヨーロッパでこんなに暗躍しているのか。しかも、各国警察組織との連繋がなんでこんなにうまくいくのか。それはともあれ、仮想敵を失った国家スパイ組織は、汚職まみれで自壊していくという話。敵は内部にありだわな。(5点満点で☆☆☆)
共に初めて読む著者の作品。『明日の記憶』(荻原浩)は、若年性アルツハイマーにかかった、50歳の広告代理店部長の話。ほぼ著者自身の年齢でもあり、私の年齢でもある。私自身、昔から物忘れがひどい人だから、まったく他人事ではない。最初は「それってよくあるよねえ」という感じで読み進むが、主人公の病状はだんだん深刻になっていく。
昨日も散歩に出かけていて、もしもあるとき、その街並みの風景が、一瞬記憶から抜けてしまったらと想像したら、背筋が凍り付くようだった。記憶の死滅こそ、人間の本質的な死なのだ。逆に思い出の豊かさこそ、人間の生きた証なのだという本書のメッセージは、いまさらながら同意。記憶に茫漠としたベールがかかっていくさまや、自我の崩壊へのおそれの心理描写はうまい。ドラマ・映画化にも十分耐えられると思うが、逆にいうと、それだけ通俗性が高いということでもある(誉め言葉じゃないよ)。
『枯葉の中の青い炎』(辻原登)は、不思議な読後感をもたらす短編集。最初の2編は神秘なラピスラズリの石がつなぐ連作なのかと思ったが、なんかハチャメチャなストーリー展開で、ちょっとついていけなかった。しかしストーリーの破調と物語想像力の渦巻きは、おそらくこの作家の持ち味なのであろう。ザーサイとキンギョがシンクロする「ザーサイの甕」のお話など、けっこう笑える。表題作は、スタルヒン伝説に依拠しながら、もうひとつの伝説(フォークロア)をそれこそ魔法のように紡ぎ出す。南洋の島で民話を採集した中島敦の話は事実だが、そうしたノンフィクションと端からデタラメの虚構を、複雑にからみあわせながら、読者を物語のシャングリラへと誘い込む。…という狙いはよくわかるが、すっかりそこで酩酊してしまわなかった私は、感性が鈍っているのであろうか。
9日は午後から打合わせで八丁堀へ。帰路、小腹がすいたので、ときおり顔を出す御茶ノ水の立ち食い寿司屋へ寄ろうと途中下車、店の前で夕方の開業にはまだ早いことに気づく。そのとき携帯に電話があって、某誌で急遽、カード・スキミングの話を書くことに。編集者が「柳田邦男のスキミングの本、読んでませんよね」という。『キャッシュカードがあぶない』(文藝春秋)のことか。目の前にたまたま丸善書店あり。なら明日の打合わせまでに読んでおこうと立ち寄ると、平台に『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』なる本。アメリカ文化史は昨年のマイブーム。ふと手にとると高校・大学の先輩、MK教授が編者ではないの。嬉しくなってつい購入。偶然の巡り合わせってほど大げさなものではないにしても、丸の内線車中で小腹が空かなければ、先輩の本を買うのはもっとずっと後になっていたことだろう、というお話。
若き日のチェ・ゲバラ。24歳。おんぼろバイクで友人と南米を旅したときのロードムービーである。ゲバラは、喘息持ちでシャイで心優しかったのだな。タフで陽気な友人アルベルトとのデコボココンビは、ロードムービーには不可欠のキャラクター設定だ。しばらくは無鉄砲な青春モノである。アルゼンチン・チリ国境を往くときのあの渓谷の絶景はどこだろうとか、観光映画としても楽しめる。
しかし、政権の弾圧を逃げて銅鉱山の苛酷な労働に従事しようとしているチリの共産主義者夫婦との出会いあたりから、それまでは金持ちのボンボン風だったゲバラの表情が引き締まってくる。このあたりの演出はうまい。アマゾン河支流のハンセン病患者の隔離病棟でのボランティアは、医師としての彼の原点になるはずのものだった。しかし、その後、ゲバラは医師にはならず、ラテンアメリカ社会の変革を志向する革命家となる。フィデル・カストロとの出会いが決定的だったのだが、そこは映画には描かれない。革命家誕生の前史。
他の人と同じようでいて、少しだけ違った青春。別れの日、誰も泳ぎ切ったことがないという川を泳いで患者たちに遭いに行くシーンは、爽快だ。ただ、最後の老人のシーンはなくもながであろう。主演のガエル・ガルシア・ベルナルは若いときのアラン・ドロンに似ている。ゲバラの陰影をよく表現しているように思う。(恵比寿ガーデンシネマ/☆☆☆/最高☆5つで)
大田区方面の地理に疎い。京成、京急、東急など入り組んだ路線図もふだん乗りつけないので頭に入らない。昨日も取材で「穴守稲荷」駅9時半待ち合わせ。「青物横丁」と共に京急のユニークな地名として記憶にはあるが、青物の隣ぐらいだろうと思っていたら、羽田空港に近いのね。京急蒲田から空港線に乗り換えた電車がなんちゃら快速で、穴守稲荷をひゅーんと通過し、次の駅はもう空港。戻りの電車にも間一髪間に合わず、あわててタクシーを拾って戻ったら2500円も取られた。
昼食は取材班みんなで京急蒲田途中下車。この街も馴染みがあまりない。アーケードの商店街、庶民的だよな。大連家庭料理の看板を出した中華屋が流行っていたので入るが、量のみ多くて味は塩っぽい。「労働者の味がする」と思った。でも、住むには便利な街かもね。
ちなみに穴守稲荷の取材先はANAの訓練センターがあるビルの中にあった。見学はしなかったが、フライト・シミュレーターとか脱出訓練用のプールもあるとか。「キャビンアテンダントはそのとき水着ですか」と聞いたヤツがいて、一瞬想像が膨らむ。
80年代後半の韓国。軍事独裁と警察署における拷問が日常化していた時期、ソウルという都市をひとつの起点にした近代化の波の外縁部に起きた猟奇殺人。セメント工場の黒ずくめの労働者たち、雨の日のラジオのDJ、韓国版学校の怪談、ソウルからやってきた刑事、アメリカに検体を送るDNA鑑定などの新しい意匠を織り交ぜながら、牧歌的な農村の暗い影のような部分が、よく描かれている。事件の猟奇性を孤立させるのではなく、それを韓国社会の変貌とからめて描いた手法は見事。ときおりディビッド・フィンチャーの『セブン』を彷彿とさせるのは、雨の日のシーンが多いからだろうが、しかし全体のトーンはさほど暗くはない。拷問シーン一つとっても、ユーモラスだ。ただ、俳優たちの笑いが苦悩に変わる瞬間、つまりは観客の哄笑が沈黙に変わる瞬間の、底深い演技力は秀逸だ。
原案になったトルストイの同名小説は読んでいないが、舞台は荒涼とした岩山と、イスラムの習俗が残るチェチェンである。しかし、チェチェン紛争の現実をリアルに描いているかというと、どうもそうではないらしい。そもそも、ロシア軍に捉えられた自分の息子と捕虜の交換交渉を、当の息子の親父が直接やるというのは、ちょっとあり得ない想定ではあるが、「報復するな」というテーゼの一つの寓話として観ればいいのだ。しかし、どうせ寓話として描くのなら、もう少し奇想天外性があってもよかった。全体としては凡庸さをぬぐえないが、しかし、映像の美しさ、少女の可愛らしさや兵士の純朴さに免じて、☆☆☆。
山下惣一の名は知っていたが、著作を読むのは初めて。農民的な語り口調で、彼が体験した戦後日本の農村の、解体と再生の物語を語っている。
アメリカの農作物輸出の片棒を担いで急速な農村解体を政策として進めた果てに、安全な食を失い、結局何を食べたらいいのかわからなくなった日本と日本人の哀れさ。この国では「国民に果たす農業の役割ばかりが強調され、国民が農業に何ができるかなど、たったの一度たりとも議論されたことはない」のだ。BSE、産地偽装などの問題が出るたびに、ざまあみろと叫ぶ筆者の気持ちはよくわかる。「日本農業とやらが滅びたって百姓は困りゃあはしません。どんな時代になっても…自分と家族が食べる分だけは作り続けるわけですからな。人さまの分をやめるだけですわい」という開き直りが、彼の舌鋒を鋭くさせる。
農業は本来循環型の地域完結型産業であって、国際競争や国際貿易あるいは経済構造改革などとはなじまない、とする筆者の立場。この論点は重要だが、もう少し精緻に考える必要はあると思う。
韓国 カン・ウソク監督(DVD ☆☆/最高点☆5つ)
『オールド・ボーイ』の余波を受けた、最近の小さなわが韓流だが、この映画はダメ。なにがダメかずっと考えていたが、結局、北侵のために無人島で訓練されていた訓練兵たちの、それ以前のヤクザな生活が十分描かれていないのだ。唯一説明されるのは主人公(ソル・ギョング)の、共産主義者を父にもったが故に就職できずヤクザになったという履歴のみ。その“前史”の厚みがない分、映画全体が薄っぺらな活劇になってしまっている。最後の自爆シーンでは、名もない一人ひとりがバスの座席に自分の名を刻もうとするのだからこそ、彼らの個々の人生をもっと描き込むべきだった。
それに懲りず、韓国映画『殺人の追憶』(ポン・ジュノ監督)と、なぜか『コーカサスの虜』(セルゲイ・ボドロフ監督)を借りてくる。前者はN嬢推薦。週末にでも観ることにしよう。
韓国/2003年/パク・チャヌク監督 チェ・ミンシク主演@シネマスクエア東急(☆☆☆☆/最高点は☆5つ)
チェ・ミンシクのものすごいパワーに圧倒され、見終わったあとシネスクのふかふかの席からしばし起きあがれなかった。タランティーノが絶賛したのもよくわかる、切ないまでの暴力性と、日本的情緒にも通じる「姉弟」「父娘」物語。しかし、こういうとなんだが、血の濃さが違うわ。こんな映画、最近の日本では撮れないかもなあ。
デンマーク/2003年/ラース・フォン・トリアー監督/ニコール・キッドマン主演/DVD(☆☆☆☆☆)
同監督の『奇跡の海』はへんてこな映画、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はいまいち感情移入できずにいたが、これは傑作。わかりやすさを心がけたせいかもしれない。反米というよりは、反「ブッシュのアメリカ」映画。政治的にはブッシュを支えるキリスト教右派、あるいは再道徳武装派への痛罵であることは明らかだからだ。しかし、それ以上に、これは反「ハリウッド・ムービー」の映画ともいえる。ハリウッド映画の甘いハッピーエンディング、偽善と似非ヒューマニズムで観客に媚びる手法への過激な挑戦だからだ。その闘争心はよし。けっしてコケ脅しではなく、「人間性」への理解は深いと思う。ニコール・キッドマンは『誘う女』に次ぐ快演。ただ、このストーリーこの結末ではアメリカでは商業的に成功しなかっただろうね。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ Y氏 [そば屋出前?(笑)]