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ひろぽん小石川日乗

心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば

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「ひろぽんの南イタリア旅行記」はこちら。

2010-04-16 (Fri)

[book] 真砂中央図書館

文京区立の図書館は昼間もbk1(TRC)に完全業務委託しているようだ。

先ほど、真砂中央図書館に本を返しに行って、ついでに帚木蓬生の小説(この前の飲み会で話題に)を借りようとしたら、「予約の本が届いています」とのこと。先日、Webからオーダーしておいたカンボジア内戦の記録『息子よ、生き延びよ』(連合出版)が目黒図書館経由で届いていた。オーダーから約1週間ほど。うむ、これはなかなか使える。TRCがというのではなく、都内の図書館システムがという意味だが。

元来、手元に本を長期確保しておかないと、しかも煙草を吸いながら傍線を引っ張らないと本を読めないタチだったので、これまで区立図書館の利用は敬遠していたのだが、なんでもかんでも本を購入する財力がなくなり、図書館の有効活用を考え始めた。

そんな矢先にWebから予約申請や貸出状況の確認ができるシステム——文京区立図書館のIT図書館システム図書館検索サイト・カーリル の便利さを確認し、使い始めているというわけ。最寄りの真砂図書館まで徒歩10分ほどだから、軽い散歩にちょうどいい。富坂を上って図書館まで行き、帰りは炭団坂の階段を降りて、本郷菊坂界隈の風情を味わう楽しみもある。

文京の図書館は意外と蔵書率が高いので驚いている。小説やさほど重要ではない人文書はこれからは図書館で借りよう。返却期限の存在が、読書意欲を高める効果もあるかもしれない。

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ jajamaru [ むむ、そんなに便利なことになっていたのですか! 真砂図書館は、はるか昔の大学時代「カレーの歴史」を調べる際に利用し..]

_ NOZOMI [図書館、便利ですよ。 私は荒川区と北区の図書館を大いに活用してます。 けっこう学術書もあるんですよ。 近くにあ..]

_ ひろぽん [文京区だけじゃないのかもしれないけれど、区立の図書館みんなが同じ本を揃えるというより、それぞれに得意ジャンルを設けて..]


2010-02-09 (Tue)

[movie][book] パリとアメリカ人

 この前、ディカプリオとウィンスレットの『レボリューショナリー・ロード』(2008年)という映画を観ていたら、戦後アメリカ経済の黄金期と都市ホワイトカラーの大量発生、そして彼らを吸収した、郊外に広がる新興住宅の様子がよく描かれていた。戦後ベビーブーマーたちの親の世代の原像だ。

 一見、絵に描いたように幸福なアメリカン・ウェイ・オブ・ライフなのだけれど、その裏には、鬱屈と虚無も忍び寄っている。

 ウィンスレット扮する妻は、「パリで人生をやり直したい」と唐突な夢を描く。亭主もそれに巻き込まれて、えらい迷惑という話なんだけれども、妻にパリへの憧れを搔きたてたのは、亭主が欧州戦線への出征時に撮った、エッフェル塔を背景にした一枚の写真なのだ。戦争がもたらしたアメリ庶民のヨーロッパ体験。それが「ここではないどこかへ」という幻想のエンジンを回転させる。

 アメリカ人にとってのパリは、日本人と同様に、やはり憧れの都であり、一部の人にとっては、大衆社会における疎外を解消してくれる実存の都なのだろう(いや、だった、というべきか)。

 パリに眩惑されるアメリカ人というのも、昔からよく描かれたテーマで、ロマン・ポランスキーの『フランティック』(88年)なんかもその一つ。文字通り『巴里のアメリカ人』(51年)はガーシュウィンの楽曲に触発されてできた楽しい映画だけれども、ここでのアメリカ人はパリに熱病のように浮かれている。

『レボリューショナリー・ロード』の妻が夢見るパリ生活も、まったくの熱病で、少しも現実味がない。家を売る準備をし、荷物の梱包まで始めてしまうのだけれど、パリでは当面の仕事のアテさえないのだ。パリは、ヨーロッパに実在する街というより、空漠な心の闇の中に生まれる一つの幻視体験のようでもある。そこで忘れてならない映画が、ヴェンダーズの『パリ、テキサス』(84年)だろう。テキサス州にある小さな田舎街パリは、崩壊した家族の夢の潰える先、そして再生の象徴でもあった。

 ところで、これまでテキサス州パリなどという地名は、脚本家サム・シェパードの想像の産物かと思っていたら、実際に存在するらしい。向井万起男さんの『謎の1セント硬貨──真実は細部に宿る in USA』(2009年、講談社)というエッセイ集で教えてもらった。

 テキサス州のパリには、エッフェル塔のレプリカもあって、天辺に巨大なテンガロンハットがかぶされているという。親切にもこの本には、テンガロンハットをかぶった妻の、アストロノーツ・向井千秋さんが、そのテキサスのエッフェル塔の前で撮った記念写真まで添えられている。笑っちゃうけど、その(笑)を大まじめに追求するのが、エッセイスト・向井万起男の真骨頂なのだ。

 ついでながら、パリという街はテネシー州にもあるらしい。アメリカ人は国内に海外の地名をもじった街があり、そこにはまるで記念写真の書き割りのためだけのような象徴的建造物まであることを、「移民の国アメリカの文化多様性」と誇っているのだとか。たぶんその「誇り」は、デイズニーの「国際色豊かな」テーマパークにも受け継がれていて、その幾分かは、田舎町にオランダ村とかドイツ村を忽然と出現させる日本人のビジネス感覚にも影響している。


2009-12-08 (Tue)

[book] 年末読書

のための購入または購入予定本リスト。

中村文則著『掏摸』/河出書房新社

伸井太一著 『ニセドイツ 1 東ドイツ製工業品 共産趣味インターナショナル』/社会評論社

伸井太一著『ニセドイツ 2 東ドイツ製工業品 共産趣味インターナショナル』/社会評論社

平野克己著『アフリカ問題 開発と援助の世界史』/日本評論社

『地べたで再発見!『東京』の凸凹地図』東京地図研究社著/技術評論社

『60歳からの青春18きっぷ』芦原伸著/新潮新書

『脳科学の真実——脳研究者は何を考えているか』坂井克之著/河出ブックス

『美術で読み解く旧約聖書の真実』 秦 剛平著/ちくま学芸文庫

——以上は購入予定。

『冬の兵士 イラク・アフガン帰還米兵が語る戦場の真実』反戦イラク帰還兵の会著/岩波書店

『アメリカン・テロル 内なる敵と恐怖の連鎖』下河辺美知子編著/成蹊大学アジア太平洋研究センター叢書/彩流社

『「地球の歩き方」の歩き方』山口さやか・山口誠著/新潮社

『新世界透明標本』冨田伊織著/小学館

『特攻と日本人の戦争 許されざる作戦の実相と遺訓』西川吉光著/芙蓉書房出版

——以上は購入済み。

しかし、相変わらず四方八方、とり散らかっている私の関心。


2009-12-02 (Wed)

[book] ナショナルジオグラフィック

毎年、一つの雑誌を年間購読することにしている。雑誌のテイストとか編集方針とかは、少なくとも1年通して読まないとわからないから。

2009年は新潮社の「芸術新潮」だった。知り合いにこの雑誌の編集者がいたこともあるのだが、どうも私の「芸術的」関心とは少しズレていたみたい。結局、あんまり読まなかった。

ちなみに、2008年は岩波の「世界」。これも編集長は学生時代の知り合い。ほとんどガラパゴス化しながらも、個人的には残って欲しい雑誌なので、ある意味カンパのつもりだった。3年おきぐらいに、おお、まだ残っているのかと気づいて、定期購読している感じ。

2010年はどうしようかなと考えて、「ナショジ」に決定。深い意味はないのだけれど、グラフィック誌なのに小型版で、日本のメディアとは微妙に違う、その視角に期待できるかもと思ったものだから。

併せて、すんごい地味だけど「神奈川大学評論」ってのも、定期購読することにした。

[book] あゆみブックス小石川店の贔屓本

小熊英二の『1968』上下本。近所の書店、あゆみブックスでは発売直後から新刊書コーナーに平積みで並んだ。5カ月も経つというのに、相変わらず平積み。新聞書評の切り抜きがPOP替わりに立ててある。

道路に面したディスプレイにも、新刊の入れ替えで他の図書がころころと変わるのに、これだけは一角を占めつづけている。もちろん、歴史・ノンフィクションのコーナーにも写真のように表紙を表にして...。ちなみにその左は小熊の『<民主>と<愛国>』。右隣は連合赤軍事件の関連図書だ。

専門書がないわけではないが、スペースの過半はコミックス、文庫、雑誌に占められている、いっけんふつうの中型書店なのだが、この『1968』への贔屓というか、気合いの入れようはなんだろう。上下巻総額14000円なにがしの本が、そう飛ぶように売れるわけでもあるまいに。団塊世代の店長でもいるのだろうか。それともチェーン本部の方針なのろうか。

それはともあれ、8月から枕辺のナイトキャップがわりにしずしずと読み続けているこの大著。壮大な「歴史絵巻」をひもとくような面白さがあるのだが、下巻の連合赤軍の章に入る段になって、一時ストップしたままだ。事件の悲惨な性格からして、そこに入る前に呼吸を整える必要があったから。そうこうするうちに、別の本が闖入してきてしまった。ただ、あと一息ではあるので、年内には通読できるはず。 画像の説明

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ E.T. [そういえば朝日新聞にこんな記事が載っていました。 http://book.asahi.com/clip/TKY20..]

_ ひろぽん [おお、そうですか。「賛辞を集める一方、当事者から事実関係などをめぐる批判も..」私が知りうる範囲でもいくつかの間違い..]


2009-12-01 (Tue)

[movie][book] 師走入り

映画や本のことなど、とりあえず記録まで。


『レッド・ダスト』(イギリス/南ア 2004年/劇場未公開/WoWoW)

アパルトヘイト撤廃後の南アの話。先日観た『マンデラの名もなき看守』の後日談ともいえる。

赤い砂塵の舞う土地をトレーラーで回る「真実と和解委員会」の巡回法廷。そこに迎えられた南ア出身で、現在はニューヨークで仕事をする若い弁護士の役をヒラリー・スワンクが演じている。法廷で明らかにされる弾圧と裏切りの事実。白人と黒人の根深い対立と、それを超えていこうとする努力。まさに「真実と和解委員会」のキャンペーン映画のようであるのだが、ともあれ、そういうことがあったんだということを知る上では得がたい作品。(★★★☆☆)


『バトル・イン・シアトル』(アメリカ/カナダ/ドイツ 2007年/これも劇場未公開/DVD)

WTO反対運動の現状は日本ではあまり話題にならないが、先日もジュネーブのデモで33人が逮捕されるという事態が生じた。これは一時、シアトルを非常事態宣言下においた1999年のWTO反対活動の実話に基づく。

主人公らは非暴力反対運動を貫こうとするが、運動の宿命として暴力を行使する人々も出てくる。ただ、彼らがなぜWTOに反対するのかの論理が映画のなかではうまく表現されていない。個人的恨みではないかと誤解させる恐れもある。役者は、レイ・リオッタとシャーリーズ・セロンしか知らないが、後者はいわば脇役。セロンが反WTOの闘士として登場するわけではなかった(期待してたんだけれど)。

映画としての面白みはイマイチだが、これもまた、世界の出来事を知るうえでは重要な作品かと思う。(★★1/2☆☆)

ちょっと欲しいかなと思う本。

『太宰治選集』太宰治生誕百年記念出版—全3巻(柏艪舎)

読者の年代別にお薦めの短編を編んでいる。若いときに読んだものも、年老いて読めばまた別の味わいということで、巻をまたいで重複収録される作品がいくつかあるというのだが、全巻揃いで買っちゃう人にはムダがあるということか。版元は札幌の小さな出版社らしい。

『希望学』全4巻(東大出版会)

釜石市における地域研究も含まれているというので、ちょっと関心が...

「週刊読書人」「図書新聞」のバックナンバー、読まずにいるのがずいぶんたまってしまった。ちゃんと読み出すと、必要以上に本が欲しくなるし、困ったものなのだけれど。


2009-11-30 (Mon)

[book] 植草甚一の時代性あるいは反時代性

昨日、近所をぐるぐる散歩しながら津野 海太郎著 『したくないことはしない──植草甚一の青春』(新潮社)を読了。

J・J氏こと植草甚一について私は決して熱心な読者ではなかったが、70年代サブカルチャーのカリスマの一人だったことはよく覚えている。

ただ、個人的にいろんな意味で切羽詰まっていた学生時代のこと、「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」などという心とおカネの余裕はなく、彼の散文をちらちらと読むことはあったものの、植草ワールドに深く浸ったという経験がない。一昨年、世田谷文学館で回顧展が開かれていたことも知っていたが、見逃してしまった。それでも、あの爺さん、どういう人だったんだろう。なんであんな変な人があの時代に脚光を集めたのだろう、という関心は持続していた。

本書は70年代の若者からカリスマ的な人気を集めた植草甚一を世に送り出した一人である、晶文社の名編集者・津野海太郎による評伝だ。

津野は植草と時代を伴走した人なのだが、評伝を書くにあたっては個人的な回想は極力控え、絶妙の距離感を維持しながら、ときには自問自答を繰り返しつつ、ゆっくりとその人物像に迫っていく。津野の軽やかな文体には、もしかすると植草の影響があるのだろうか。その味わいも本書の特色の一つとなっている。惜しむらくは、この本が経営危機の最中にある晶文社から出ずに、新潮社から出ざるをえなかったことだ。

描かれるのは、日本橋の没落した木綿問屋の道楽息子だった植草が、大正期モダニズムや、左傾化と同義でもあったアバンギャルド芸術の風を浴びながら、大震災と戦争をくぐりぬけ、戦後の鬱屈した中年期を経て、そして70年代、突然のように脚光を浴びるまでの時代だ。

江戸川乱歩をも驚愕させた海外ミステリーに関する博覧強記、ミステリーにとどまらない膨大な海外小説や映画あるいはモダンジャズについての知識、しかもそれらを決して体系的にまとめることはなく、雑学のコラージュのように展開する手法はなぜ生まれたのか。

津野は、たんに植草個人や植草家に関する調査にとどまらず、彼がその周辺にいて、建築、演劇、映画、文学などの分野でさまざまな影響を受けた人物──たとえば村山知義、今和次郎、飯島正、徳永康元、淀川長治らとの知的交流の様子を、都市モダニズム文化の青春群像として描き出す。キーワードは、植草が抱えもっていたのではないかと推測される、山の手文化や帝大アカデミズムに対する、ある種のコンプレックスだ。

植草の本業ともいえる、映画、ジャズ、海外小説批評とて、けっしてその専門集団のなかでは主流とはいえなかった。それは植草の独自性でもあるが、同時に彼の鬱屈の原因でもあったと、津野は分析する。

しかし、永遠の非主流派であった植草の教養が、時代と交差する一瞬が70年代に訪れる。最後の大爆発をする老星の光芒が、都市化と大衆消費文化の70年代に火の粉のように降りかかる。高度成長期の日本で、遊歩する都市の楽しみを見失いつつあった当時の若者によって、植草は「見いだされた」。たまたまその時代は、これまでメインカルチャーの影に隠れていた、映画、ジャズ、ミステリー、街歩き、ショッピングなどのサブカルチャーが、あらためて発見された時期でもあった。いわば、植草は変わらないけれど、時代が変わったのだ。津野によれば突然に当てられたスポットライトのなかで、植草は永年のコンプレックスから解き放たれ、悠々と一人「老年の祭り」を演じていたのではないかというのだ。

都市の「散歩者」としての永井荷風や、同じ日本橋の没落商家の息子としての谷崎潤一郎との文化史的な比較も面白い。そうすることで、本書は植草の時代性ないしは反時代性を浮き彫りにすることに成功している。画像の説明

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ Circus [徳永康元は意外です。そうだったんですか…。私は彼のエッセイが大好きです。]

_ ひろぽん [戦前、神田にあったシネマパレスという映画館で共に「うら若い活動狂」として顔合わせしていたらしいです。私は田村隆一がハ..]


2009-11-11 (Wed)

[media] 群集心理

昨夜は「メディアスクラム」とはこういうものかと、あらためて実感。

駅のホームでカメラを掲げて突進するフォワード。他社のタックルを果敢に引きはがす。怒号は警察官のものか。女性の悲鳴さえ聞こえる。何が彼らをそこまでさせるのか。浅野健一氏によればこういうのは「メディアフレンジー」と呼ぶのが正しいそうではあるが……。

一方、テレビ中継画面の後ろでVサインではしゃぐガキどもも、あれは宮崎勤事件のころからだろうか、常態化してきた。行徳署前なぞ、ジャージはおって、サンダルつっかけてきたような近所の連中がわらわらと。まあ、容疑者が新幹線と車で、どんどんこちらに向かっているのをテレビで全国中継されれば、「いっちょ見てくっか」「テレビにでも映ってくるか」ってことにもなるんだろうが……。

事件に熱狂する人々と、それを深夜のテレビで見ている私も含めて、群衆心理というものがある。羞恥という感覚が一瞬消えるとき。

[book] 数学者の伝記

Twitterでひょんなことから、数学者の伝記の面白さを教えてもらう。
  • ポール・ホフマン著『放浪の天才数学者エルデシュ』草思社
  • 山下純一著『グロタンディーク 数学を超えて』日本評論社
  • ロバート・カニーゲル著『無限の天才—夭逝の数学者・ラマヌジャン』工作舎
  • マーシャ・ガッセン著 『完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』文藝春秋(ペレルマンの伝記)
  • 簡単にさわりに触れるのなら、
  • 藤原正彦著『天才の栄光と挫折—数学者列伝』文春文庫
  • あたりだろうか。
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    _ 長官 [異説 数学者列伝 ちくま学芸文庫 がおすすめです。]

    _ 長官 [リーマン予想・天才たちの闘い http://www.nhk.or.jp/special/onair/091115.h..]

    _ ひろぽん [おお、ありがとうございます。]


    2009-09-10 (Thu)

    [book] 河出ブックス

    河出書房新社から10月に「河出ブックス」 という選書シリーズが出るようだ。

    とりあえず、

    ・『教養としての日本宗教事件史』島田裕巳著

    ・『日本の植民地建築──帝国に築かれたネットワーク』西澤泰彦著

    の2著をチェック。


    2009-08-13 (Thu)

    [book] 『Y氏の終わり』

    いや、ボクはたんに引用しただけだからね。他意はないからね。
    本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

    _ まだ終わっていないY氏 [RSSに反映されないから見逃す所だった。この辺り他意を感じるなぁ (^^)]


    2009-08-08 (Sat)

    [book] メイキング・オブ・ガンダム

    知り合いの写真家・山口規子さんが集英社からこんな本を出した。

    『Real-G 1/1 scale GUNDAM Photographs』 。お台場に出現した等身大ガンダムの建設過程を、今年の3月から7月にかけて撮影した、メイキング写真集だ。

    ノリちゃんは、以前にも日比谷の「ペニンシュラ東京」の建設からオープンまでのメイキング写真集を出したことがある。建設現場の作業者の一人ひとりの表情までくっきりと写しだし、なかなか面白い写真集だった。たぶん今回もガンダムそのものというより、そこにかかわる人々のドラマをとらえているのだと思う。

    一般書店のほか、お台場の潮風公園のテント売店でも売っているという。見かけたらぜひ手にとってみてちょうだい。

    画像の説明
    本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

    _ Y氏 [もっと早く言ってくれていれば潮風公園で手にとったのにねぇ]

    _ 長官 [ここもtDiaryのバージョンを2.3.3にしましたので、おかしなところがあればお知らせください。]


    2009-07-29 (Wed)

    [book] 海堂尊『チーム・バチスタの栄光』など

    著者にインタビューする必要があって、あわてて読む。「このミス」追っかけではないもので、世評の高さは承知しつつも、手を出さなかった作家。キャラクターの設定やプロットの構成力が緻密で、複層的な物語を重ね合わせるエンタテインメント力にいまさらながら驚く。医療ミステリを前面に出し、賞狙いを意識したかのような「バチスタ」のほうがストレートで読みやすいが、背景にある医療問題をより鋭く提示しているのは『ルージュ』のほうだろう。

    著者本人は、茶目っ気のある笑顔が印象的な童顔の人で、頭の良さは窺わせつつも、それを誇示することがなく、インタビュアーのやや無理筋のテーマ設定にも、旺盛なサービス精神で応えてくれた。そもそも文学畑でも医療畑でもない少部数の媒体に、あの金額の謝礼で、90分間取材に応じてくれるというだけでも、ありがたい。

    これからもそうなのかはわからないが、「読んでいただいて、楽しんでいただいて、少しだけ医療の危機に関心をもっていただくだけで嬉しい」という謙虚な姿勢に溢れていた。

    本職は救命救急医ほどではないにしても、忙しいには違いない先進医療現場の病理専門医。短期間にあれだけの量を書けることにまず驚くのだが、作家としての資質や才能以上に、読者を得ることの悦楽にハマってしまったということもあるのではないか。

    インタビューが終わると、取材スタッフが全員、体の中の「臓器」の模式図を書かされる。宝島社から秋に出る子ども向けの本の関連なのだが、「意外とみんな自分の体の中のことを知らないものなんだよね」と。医学の基礎知識を低学年から教えることが、医療への社会的関心の基盤を形成し、それが結果的に医療の危機を救うことになるというのが、どうやら持論らしい。

    ついでに、『バチスタ』の映画も見たが、これは平凡。竹内結子のぼぉーとした演技は、主人公のキャラクター設定によるものだとしても、最後までわざとらしい。この人、恋愛もの以外はまだまだだなあ。

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    _ Kusa [珍しくここにあるのは 皆読みました]


    2009-07-20 (Mon)

    [book] 小熊英二『1968[上]─若者たちの反乱とその背景』(新曜社)

    小熊英二の新刊『1968』。さきほどAYUMIブックスで上巻が平積みになっているのを見た。上巻だけで1008ページ。1410グラムあるという。『<民主>と<愛国>』よりも重そうだ。購入を躊躇させるのはこの重量だけでなく、税込み7,140円也というお値段も。ちょっとカネの算段をつけねば。

    ただ小熊さんの本は学者にしては珍しく読みやすいので、興に乗れば一気にいけるかも。夏休みの課題図書にでもしよう。

    ところで「1968年」をモチーフに全共闘運動を総括したのは、絓秀実が先だが、当然ながらリベラル・デモクラチストの小熊は立場を異にする。

    本論や結論で述べるように、筆者は「あの時代」の叛乱を、一過性の風俗現象とはみなしていない。だが、一部の論者が主張するような「世界革命」だったともみなしていない。結論からいえば、高度成長を経て日本が先進国化しつつあったとき、現在の若者の問題とされている不登校、自傷行為、摂食障害、空虚感、閉塞感といった「現代的」な「生きづらさ」のいわば端緒が出現し、若者たちがその匂いをかぎとり反応した現象であったと考えている。そしてこれを検証することの意義は、不安定雇用の若者たちから運動がおきつつある現在、ないとはいえまい。

    この見方に異議をさしはさむものではないが、重要なのはディティールだ。まずは読んでからね。

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    _ kunio@muon [鈴木英生の『新左翼とロスジェネ』も似たような捉え方をしてましたね。僕はどうもピンとこない感じが残りましたけども。 生..]

    _ yu [自分の実感として(自分だけの実感かもしれませんが)そのようにとらえている者であります。ただ、現代において何故ここまで..]


    2009-06-30 (Tue)

    [book] 昨日買った本

    久しぶりに近所で本を買った。最近、読書脳がかなりナマっているので、ここらで気合いを入れ直して……。
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    _  [かたい・賢い人の読む本って凄い! 読んで!半七捕物帖とはワケ違います。]

    _ ひろぽん [別に賢くないけど、小説よりはこの手が好きなんだよね。]


    2009-03-23 (Mon)

    [life] 京都大学時間雇用職員組合

    年収130万円の大学非常勤職員。仕事内容はよくわからないんだが、これじゃ食えないよなあ。大学という階級社会の底辺労働者? ビラじゃなくて「挑戦状」というのがすごい。youtubeでストライキの状況を報告。年収1700万円の理事と差し違える覚悟を語る言葉は、切実に生きていて、それでいて、なんかとっても楽しそうだ。なんたって労組名が Union Extasy だものな。プレカリアート的闘争文化というべきか。グッと来ます。

    [book] 『東京煮込み横丁評判記』坂崎重盛(光文社)

    オレもこういう本を読むようになったんだなと、ある意味、年齢を実感する読書体験。しかし、面白いですよ>とりわけ、B級グルメと、昼酒、昼湯が好きなご同輩。

    「もつ煮込み」という料理の特性についてももちろん語られているのだが、それ以上に「もつ煮込みが美味い居酒屋がある街は面白い」というのが、著者のスタンスというか、審美の基準なのである。画像の説明

    浅草橋、阿佐ヶ谷、小岩、新橋地下街、立石、浅草、赤羽、北千住、森下・門仲、銀座、上野、神楽坂、三ノ輪、日本堤、八広、鐘ヶ淵、曳舟、町屋、大井町……。いやあ、こんなにも東京にはいい居酒屋があるんだなあ。私は列挙される町や店をほとんど知らないのだが、先日、KT氏に引率されて行った浅草ホッピー通りや、今度行く予定の葛飾・立石にも触れられていて、なおさら興味深い。著者の坂崎重盛氏はアルフィーの坂崎幸之助の叔父さんだという話は、日曜日のNHK「週刊ブックレビュー」で知ったこと。

    読み終える途中から、猛烈にもつ煮込みを食いたくなった。ホッピーを飲みたくなった。というわけで、北風の中、小石川の「遠州屋」と、いつもの「一文」をハシゴ。遠州屋は実は小石川に来て、初めての訪問だったのだが。

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    _ Y氏 [ずばり「廃人への道」(笑)]


    2009-02-04 (Wed)

    [book] 『濃縮四方田』

    今週は小石川でシコシコ原稿書きモード。週末は極寒の函館ツアーなんでそれまでにすべて終わらせる。来週は東海地区に出張が何件か入るけれど、どうなんだろう、売文稼業の仕事の行く先はあんまり芳しくないかも。不況風が忍び寄る気配。こういうときは生活水準を下げて、引きこもり生活に入るしかないだろう。幸い、読むべき本や映画は無数にたまっている。

    昼にAYUMI Booksをぶらついていたら、また四方田犬彦の新刊。今度は何かと思ったら、『濃縮四方田』だとか。著作が100冊を突破したそうで、その旺盛な執筆欲は慶賀の至りではあるけれども。「売文渡世30年の四方田犬彦がその秘密を自ら明かす!」とある。つまりは過去の自著解説みたいなのか。しかし、生きているうちにそういうことやるかね。というか、四方田さん、まだこれからでしょうに。一種のファンブックと考えて買っておくべきだろうが、3990円はちょい高いと躊躇する。

    その前に、ワタシ的には「労働と貧困」「資本主義の展開」「南イタリアの歴史」あたりへの関心を継続すること。


    2008-12-24 (Wed)

    [book] インド本

    12月10日の日記で予告しておいた本のうち、『アメリカの毒を食らう人たち』はイマイチ本であった。軍の基地から漏出する有害物質被害などを現場に寄り添ってレポートしているのだが、翻訳が悪いんだろうか、告発調のキィーキィーしたトーンがどうも馴染めなかった。変にキリスト教臭いところも鼻につく。この手の話は、もう少し冷静に実証的に分析してもらわないと。

    『オオカミ少女はいなかった──心理学の神話をめぐる冒険』は面白かった。オオカミ少女も、サブリミナル実験も、みんなほんとのことだと思っていたもんなあ。時制をもたないホピ族の言語とか、カルロス・カスタネダの記述も事実だと思っていた。たんにトンデモ系心理学の批判だけでなく、データ捏造や非倫理的な実験を重ねた心理学者のエピソードを通した人間臭い科学史論議にもなっている。科学と非科学の危うい狭間は、ある種の人には魅力的な圏域なのだろうと思う。

    知人のK氏が日経BPで編集した『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(村上宣寛著)などもある意味、類書といえる。挟み込まれていた新曜社のチラシを眺めていたら、『〈盗作〉の文学史』(栗原裕一郎著)というのが6月に出ていて、ちょっと興味が惹かれる。三浦雅士が毎日新聞で好意的な書評をしていた。

    12月の読書はその後、なぜか『〈満洲〉の歴史』に向かったのだが、なんとか大東亜共栄圏の領域内に踏みとどまり、『中村屋のボース──インド独立運動と近代日本のアジア主義』(中島岳志著、白水社)に転じた。2005年度の大佛次郎論壇賞。その頃買っておいてはいたのだが、しばらく埃をかぶっていた。画像の説明画像の説明画像の説明画像の説明 中村屋に「カリー」を伝えた人に、ラース・ビハーリー・ボースという人がいて、それはチャンドラ・ボースとは別人物で、しかし、両ボースは共にインド独立運動家であって……というあたりは知っていたが、この本は中村屋のほうのボースさんの評伝である。ちなみに中村屋とは、私が学生時代、笹塚のパン工場で夜警のバイトをしていたという縁がある。どうでもいいことだが。

    インドにおける冒険活劇ばりのテロ活動や、追っ手をふりまいて転々とする亡命生活のエピソードは、まさに血湧き肉躍る。著者は、かつてボースが英国人の支配者に向かって爆弾を投げつけた(本人が投げたわけではないが)デリーの街頭に足を運んだり、ボースをかくまった頭山満邸周辺(現在のアメリカ大使館あたり)を実定し、ボースの逃走経路を実際に走ってみながら、この本を書いたという。ノンフィクション作家顔負けの現場主義だ。

    しかし、もちろんこれはたんなる亡命革命家の冒険譚ではない。当時、ボースを庇護した日本のアジア主義者の無思想ぶりをあぶり出す一方で、大東亜共栄圏構想の裏にある帝国主義性を批判したボースの思想形成過程を膨大な資料で明らかにする。同じアジア主義でも、日本人のそれとボースのそれは同床異夢のごとく、当初は大きな開きがあったのだ。結局は、インド独立革命という大義のために、大東亜共栄圏構想に便乗し、日本軍の手も借りようとするボースだが、独立達成を見ることなく、生涯を終えた。アジアのナショナリズムのありようについて、さまざまな示唆を受けることができる本だ。

    その刺激が、本棚の奥で埃をかぶっていたもう一冊の本を呼び起こすことになる。小熊英二の『インド日記──牛とコンピュータの国から』(新曜社)。2000年ごろ国際交流基金で訪印したときの日記。まだ途中だがこれが結構面白い。ヒンドゥー・ナショナリズムやグローバリズムについて、現地の人々としつこく対話しながら、考えをまとめていく。小熊はけっして活動家ではないが、フィールドワークの足取りが、読んでいて心地よい。

    というわけで、私の関心も、中島や小熊に引かれるようにして、灼熱のインド亜大陸へと南下する。この正月休みは、アマルティア・センのインド論『議論好きなインド人──対話と異端の歴史が紡ぐ多文化世界』(明石書店)、そのセンが激賞したといわれる、エドワード・ルースの『インド厄介な経済大国』(日経BP社)を読むことになるだろう。この二つ、版元は違うのだが、なぜか、本の厚みや表紙のデザインがよく似ている。


    2008-12-18 (Thu)

    [life][book] 満州など

    師走という感じが全くしない。木枯らしピューピュー、うーサブーという感じがないからかな。先週はわりとヒマしていたが、今週は長時間の電話取材やら原稿書きやらで、けっこう忙しい。昨日も朝5時起きでカキカキ。昼過ぎに一本仕上げたら急に力が抜けて、ランチに1年ぶりぐらいの近所のうなぎ屋で鰻重の上を食って、それからなぜか午後は、講談社現代新書『〈満洲〉の歴史』(小林英夫著)などを読んでいた。こういう脈絡のない読書とか、途中で気を抜いてしまう時間の使い方とか、というのが、良くも悪くも私の性格なんである。画像の説明

    『満洲』本は私が知っている・聞いたことがある話と、そうでない話が半々。当然、張作霖爆殺のコミンテルン陰謀説など「とんでも系」の話は一行たりとも引用されていない。満州植民地経営の、計画だけは立派だが、その足をひっぱる戦争政策のハチャメチャという感じが、よく描写されている。植民地農業政策としての満蒙開拓移民も結局失敗に終わり、農業生産は上がらなかった。私の叔母という人も、この愚策に翻弄されて命を失った一人である。

    さて本日は朝から奈良出張。シャープの女性技術者取材。


    2008-12-11 (Thu)

    [book] 師岡カリーマ・エルサムニー著『イスラームから考える』(白水社)

     これは、今年の8月に読んだ本なのだが、メモを書き留めていたのに、ブログにアップするのを忘れていた。

     著者の存在はNHKテレビでときおり放送されるアラビア語会話の番組で知っていた。エジプト・日本ハーフの可愛らしい女性だ。「かじる」というまでにもいかない、ほんの一端にすぎないが、私はその番組を通してアラビア文字やアラビア語の発音の摩訶不思議な美しさを知ることができた。

    画像の説明  そうした著者への親しみと美しいイスラームの壁面装飾(トプカピ宮殿博物館にあるものだという)をあしらった表紙に惹かれてこの本を手に取った。イスラーム装飾といえば、今年の春のマレーシア旅行の際に、クアラルンプールのイスラーム美術館の門柱で垣間見たそれが忘れられない。時間がなくて内部を観覧することはできなかったのだが、あそこにはもう一度行ってみたいなあ。

     本の話に戻る。女性らしい繊細さと聡明さに溢れた知的な文章だ。著者は、現在は日本国籍だが、父がエジプト人ということでかつてはエジプト国籍を持っていたこともある。宗教はイスラーム教。アラビア語と日本語を共に母語とする多元的な文化やナショナリティの中で育ったが、いまそれらを超えた何かを求めようとしているように思える。通俗にいえばコスモポリタニティー志向ということになるだろうが、それはもちろん自分が育ち、かつ、あえて求めて勉強した複数の文化を否定することではない。

     著者は小学校の数年間と中学以降の教育をエジプトで受けた。そこでは授業の一環として、イスラーム教の子弟にはイスラーム教の宗教教育と、すべての生徒への愛国教育が行われるという。しかし「愛国心を育成すること」と題されたエッセイで、著者はこう言う。
    もちろん、古代エジプト文明が偉大なのは疑う余地がない。しかしだからと言って、それを誇る権利が、たとえば私にあるとは思えない。なぜなら私自身はそれにまったく貢献していないからだ。祖先が子孫を誇るのはまあ妥当だが、子孫が祖先を誇るのはどうも図々しくないか。第一、祖先の偉業を誇り続けるのであれば、祖先の罪も恥じ入り続けなければならないという計算になって、あまり愉快な話ではない(P.160)
     全くその通りだ。祖先の偉業は誇る一方で、その罪責は否定するという都合のよいナショナリズムが幅を効かせている暑苦しい状況のなかで、この言葉は清涼な風のように響く。
    私が世間で愛国心とされるものにアレルギー反応を起こすのは、仮に私が愛情の対象として「祖国」というものを限定したとき、そこから誰かが排除されるだけではなく、だれかが限定する「愛する祖国」からは私が排除されているからだ(P.163)
     愛情の多くは多かれ少なかれ排他性をもつものだが、わけても国を愛する愛国心は、排他性を高めがちだ。その狭さを著者は嫌うのである。

     イスラーム教やイスラーム文化の初心者である私にとっては、いくつも蒙を啓かされることが多かった。たとえば、イスラーム圏の女性の服装に、髪と首を隠すベール・長袖・長いスカートからなる「ヒジャーブ」と呼ばれるものがある。
    サウジアラビアやイランなど、女性のヒジャーブが義務付けられている国は別だが、エジプトのように選択の自由が個人に残されている国では、ほとんどの女性が自ら進んでヒジャーブを着用しているのであり、「ヒジャーブを社会進出の妨げにはさせまい」という意志を抱いて頑張っている女性もたくさんいるのである。だから、ヒジャーブを女性抑圧の象徴と見ることはまったく正しくない(「ベールがなんだっていうの」P.74)
    むしろ多くの女性は、ヒジャーブを抑圧ではなく、解放の近道だと考えている。日本でも欧米でも、働く女性はいまだに差別や性的嫌がらせ(セクハラ)に悩まされているが、そのように偏見やセクハラがはびこる職場において、ベールをまとうことによってはじめて、男性と対等に渡り合えると彼女たちは言うのだ(P.75)
     先日のマレーシア旅行でも、まさにこのヒジャーブのファッションとしての美しさを感じたことがあった私には、これは興味深い指摘だった。

    イスラーム教とイスラーム原理主義を区別できない(とりわけ9.11以降の)欧米、日本のメディアや一般の理解に対して、著者はあえてムハンマド(マホメット)の指針(ハディース)を引くことで、その理解の浅薄さ、誤解を批判している。ムハンマドはこう語ったというのだ。
    私は人間だ。あなたがたの信仰に関わることで私が何かを命じたならば従いなさい。しかし、あなたがたの俗世に関わることで私が何かを命じたならば、従わなくてもよい。あなたがたの俗世のことは、あなたがたの方がよく知っている(P.108)
     歌舞音曲や女性就労の禁止を教義的に正当化する、タリバーンのような原理主義は、本来のイスラーム教からはかけ離れたものであり、まさに「原理を無視する原理主義」だというのだ。まさに、へえっ、そうなんだという感じである。

     他にもイスラーム初期の詩人たちがいかに恋愛詩に夢中になっていたかという話(「青年よ、恋をせよ!」)も、イスラーム知らずの人への誤解を解くには、最適の文章だろう。

     言語論、音韻論、翻訳論としても重要な指摘がいくつかされている。

     たとえば、イスラーム教の聖典「コーラン」は、実際に読み聴きしたときのその音律の美しさも重要なのであって、字面だけを翻訳しても十分その魅力が伝わらないのだという。かつて詩人ゲーテは朗読されたコーランを耳にして「イスラムの真髄を感じた」と日記に記したというから、音楽家や詩人の耳を通せば、文化的背景を超えた全的な理解が可能なのかもしれない。(P.140)

     アラビア文学の日本語への翻訳に触れて、著者はこうも言う。

    「言語、あるいは語彙というものを、頭の中にあるタンスと考えるとしよう。……母語のタンスがある程度できあがってから外国語を学習すると、人はそれぞれの引き出しに、同じ意味の単語を入れていく。だから、たとえば language という単語の引き出しにを開けたら、その中にはすでに「言語」もしまってあるわけ」。ところが「母語が二つあるということは、そのタンスも二つあるということになり、それらは互いにほとんど無関係のところで作り上げられたから、language と「言語」にそれぞれ引き出しがあり、別々のタンスにしまってあって、二つは必ずしもつながっていない」
    というパラドックスがあるというのだ(P.136)。

     だから二重言語のネイティブだから翻訳も簡単だと思うのは、俗論に過ぎないという。このあたりは、母語と学習した言語の二つで創作活動を行おうとする作家たち(たとえば多和田葉子や、それこそ最近芥川賞を受賞した楊逸や、リービ英雄)との比較文学的視点をからませるとより面白いことになるかもしれない。

     巻末には著者が尊敬してやまないという酒井啓子(東京外大)との対談を収録。そのなかで著者は「日本人でもあり、一見してイスラーム教徒とわかるわけではないから、イスラーム教徒であるということによって実害が及ぶようなことはない。実害は受けずに、差別されるグループの一員として世界を見つめたり、考えたりすることができるというのは、一種の幸運です」と、とりわけ9.11以降の自分の立場性を語っている。


    2008-12-10 (Wed)

    [book] 師走前半の読書

    12月に入ってから初更新。この間、何をしていたかというと、仕事ちょぼちょぼ、早めの忘年会関係を3つ、ちらほら読書といったところ。

    本はアメリカの政治経済・グローバリズム関係。仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想─リベラリズムの冒険』(NHKブックス)、ポール・クルーグマン『格差はつくられた──保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略』(早川書房)、スーザン・ジョージ『アメリカは、キリスト教原理主義・新保守主義に、いかに乗っ取られたのか?』(作品社)、サーシャ・アイゼンバーグ『スシエコノミー』(日本経済新聞出版社)あたり。

    クルーグマンはノーベル賞を取ったので、最近マスメディアにもよく露出している。ニューディール政策以降、米国における中産階級の形成が政策的に導かれたこと、そのことによってそれ以前の格差が是正されたこと、しかし、オイルショック以降は、これまた政策的に中流の解体が促され、格差が拡大されたことなどを分析する。人種問題という特殊要因が向こうにはあるが、基本構造は日本の戦後社会の形成やバブル崩壊後の事情ともよく似ている。この人もアメリカの大企業のCEOの高額報酬に怒っている。米民主党政権への期待を隠すこともない。

    スーザン・ジョージのアメリカ政治分析は、姿勢こそよりリベラルでかつ戦闘的だが、クルーグマンの問題意識と重なるものだ。ただ、オバマが登場してもすぐにアメリカ政治が変わるとはいえないという。なぜなら新自由主義のヘゲモニーは、隅々まで浸透しており、バイブル・ベルトの有言無言の圧力もけっして過小評価できないからだ。新自由主義=市場原理主義のイデオロギーを振りまくために奔走するイデオローグ、シンクタンクや財団、ロビイストの顔写真付きリストは参考になる。日本にも似たような人や団体がたくさんあるだろう。

    仲正の『集中講義』は、ネオコンに行き着く、あるいはそれを鬼子として胚胎したアメリカのリベラリズム哲学の系譜を解説。このあたり全然知らない領域だったが、前2著とのバックグラウンドとして関連づけて読むと、意外と面白かった。

    『スシエコノミー』は、「寿司」という食品・料理の世界化過程を訪ねたルポ。我々日本人には当たり前の常識もあるが、当たり前ではない異様な発展型の描写は面白い。しかしよく取材しているよなあ。日本人のマグロ食い過ぎへの批判は弱くて少々物足りなかったが、社会文化史の一つの読み物としては堪能した。

    この後の読書はどっちへ行くかな。アメリカ関連では、最近買った本ではロレッタ・シュワルツ=ノーベル『アメリカの毒を食らう人たち─自閉症、先天異常、乳癌がなぜ急増しているのか』(東洋経済新報社)というのが待っている。それとも、頭を休めて楽しく読めそうということで、鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった─心理学の神話をめぐる冒険』(新曜社)あたりに飛ぶか。


    2008-11-19 (Wed)

    [book] 国際金融危機解説本

    久しぶりの更新です。

    最近は国際金融危機の推移に興味があり、かつよくわからないことだらけなので、経済関係に重点を入れて読書メニューを組んでいる。サブプライムローン危機の背景と発生のメカニズムについては、岩波書店「世界」12月号の伊藤光晴論文「世界金融危機から同時不況へ──サブプライム・ローンの軌跡──」というのが抜群にわかりやすかった。なるほど、こうなっていたのか。それにしても81歳の老学者の、現状分析にかける情熱の衰えを知らぬ様子には驚かされる。

    同じ「世界」の短期連載をまとめた岩波ブックレットの金子勝&A・デウィットの『世界金融危機』は、伊藤論文に比べるとやや難しいが、「影の銀行システム」について大要をつかむには好適かもしれない。小泉&竹中政権がもたらした「罪」の部分について、とりわけ激越な批判を行っている。たしかに、竹中平蔵がこの期に及んで、しゃーしゃーとテレビに出ているのは、なんかおかしいと私も思う。なんらかの反省の弁があって然るべきだろう。

    文春新書『強欲資本主義──ウォール街の自爆』(神谷秀樹)というのも読んでみた。日本は強欲な金融資本主義にまみれず、昔ながらのものづくりをベースにした産業資本主義の強化に進むべきで、金融機関というのはそれを支える縁の下の力持ちに徹すべしという筆者の提案には、私も同感するが、こういう真っ当な議論がこの10年というもの、ほとんど真剣に顧みられなかったのはなぜだろう。

    そもそも、アメリカ発の金融危機を現代資本主義の根本的危機ととらえるか、未曾有ではあるけれど、調整・再生可能な局面としてとらえるかは、筆者らのとる理論的立場=イデオロギーを反映するものだ。このあたりが、玉石混淆だから、本の選び方にはけっこう苦労する。ジョージ・ソロス、ポール・クルーグマン、ジョセフ・E. スティグリッツなどの著作が、私の次の読書メニューにあがっているが、さてどうなることやら。

    日経、週刊ダイヤモンド、週刊東洋経済はこの間、よく読むようになった。いくつか勉強になることがある。

    [life] 小石川にナポリピザ店

    「青いナポリ」。今度の日曜日にオープンだとか。今朝方後楽園駅までクーポン券付きのチラシを受け取った。ピザはけっして好物ではないのだが、一度は試してみねければ。広いテラス席があるというのだが、ちょっと寒そう。

    2008-08-30 (Sat)

    [book] 『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』

    最近のノンフィクションでは『磯崎新の「都庁」 戦後日本最大のコンペ』(平松剛著・文藝春秋)が抜群に面白かった。建築ノンフィクションというジャンルは十分成立するかもしれない。丹下健三をこんなにコケにしていいのかというぐらいの皮肉とユーモアの効いた物言い。建築設計事務所(アトリエ事務所ではあるが)の仕事の風景や公共建築のコンペをめぐるさまざまな駆け引きも、淡々と描かれる。何より文章が面白い。著者の大宅壮一賞受賞作『光の教会』も躊躇なく購入した。 画像の説明

    2008-08-07 (Thu)

    [book] 大辞典、大図鑑

    体内の水分がすべて蒸発しそうな夏の午後の太陽。きょうは確実に3月のマラッカより暑いや。歩いているだけで汗はかくが、意外とベトつく湿気はなく、ここまで暑いとむしろ爽快になる。濃く、短い人の影。白いパラソルに、透き通った肌の女たち。そしてヘタレた犬ども。写真を撮りに出かけたくなるなあ。

    それはともあれ、今の私にとってのより大きな関心は、実は iPhone 3G などよりも、分厚い事典なのだ。最近、物欲が、ビット世界からよりアトミックなほうへ、あるいは質量の手触りのほうへと回帰しているのだろうか。
    なかでもこの『世界映画大事典』は切実に欲しいなあ。本来は図書館などで利用すべきものだろうが、図書館に通う習慣がない身としては、ぜひとも手元に置いておきたい一冊。三省堂からも『日本映画作品事典(仮題)』というもっと分厚い本の刊行が予定されているという。
    先日も、そのビジュアルの秀逸さに惹かれて、『戦争の世界史 大図鑑』なる本を買ってしまった。ロッキングチェアに収まって、パイプかなんかふかしながら、この手の本のページをめくるというのが、子ども時代に想像した理想の中高年像だった。いまその年齢に達し、なんとか本は買えるようになったが、しかしそんな時間的ゆとりはない。せめていつかのために、この手の本を確保しておきたい。


    2008-07-08 (Tue)

    [book] 地球はホントに危ないか

    G8サミットということで、環境本が書店の書棚を賑わしている。「地球温暖化対策はこれからの人類のモラル」みたいな言い方をされると、ついモラルの根拠を問いたくなるのは私だけではあるまい。そういう懐疑意識はいくつもの「地球温暖化懐疑本」を生み出している。日本における議論が簡便にまとまっていると思われたので『暴走する「地球温暖化」論 』(池田清彦ら/新潮社)を購入。パラパラとめくる。科学的実証の問題以上に、「科学的実証がない」という論者らの論法に興味。
    もちろん、こうした懐疑論に対する反批判本も出ている。この後は、『環境危機はつくり話か──ダイオキシン・環境ホルモン、温暖化の真実』あたりを読んでみようか。
    今週号の「週刊東洋経済」も「経済で読む「温暖化」の真相・地球はホントに危ないか」を特集。温暖化懐疑論というわけではないが、排出権取引などを中心にその実現可能性に疑義をはさむ内容。これもまだパラパラめくっただけだけれど……。


    2008-01-24 (Thu)

    [book] 鶴見良行『マラッカ物語』

    Amazon の古本屋に注文しておいた『マラッカ物語』が届く。鶴見良行の1981年(初版)の著作。今はみすず書房の著作集に収められているが、あの著作集はちょっと高くてねえ、ということで古本を求めた。鶴見の本はいくつか読んでいるが、これは未読だった。3月のマレーシア(KLとマラッカを予定)旅行の準備の一環。時事通信社刊

    序章にちょっと目を通すと、いきなりタイのクラ地峡に運河を引くという話から始まる。マラッカ海峡のバイパス確保のために計画された70年代の国際プロジェクト。一時は工事に水爆を使うということで反対運動が起こり、その経緯は私にもうっすら記憶があるものだったが、たぶん今はもうその計画は消えている。

    住民を立ち退かせて水爆で穴を掘るというのは、たしかに乱暴極まりないが、資本主義のコスト論だけから言えば、今後もありえない話ではない。そういうことに、日本の商社がカネを出し、御用の科学者や技術者が動員された歴史がある。

    鶴見の視点は、むろん立ち退かされる住民の側、運河工事で破壊されるだろう伝統的社会に向けられている。そこで、マラッカ海峡の社会史をフィールドワークしてきちんと調べてみたくなったというのだ。

    つまんねえ仕事をいそいそと片付けて、週末はこの本にどっぷり浸かりたいなあ。マラッカ関連でいえば、金子光晴と沢木耕太郎も再読しておくべきか。

    本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

    _ アミーゴ渡部 [マレーシアに行くのなら鳥インフルエンザに気をつけてくださいね。気をつけてもなるときはなるのですが。N95マスク持参で..]

    _ ひろぽん [H5N1亜型に関してはマレーシアでの感染事例はなかったような。ま、周辺では発生してますけどね。]


    2008-01-11 (Fri)

    [book] 佐々木譲『警官の血』

    昨日。午前中の取材は編集の勘違いでアポが取れていなかった。来週に延期。現場まで行って、うーむと唸りながら帰宅。

    仕事はたまっていたのだが、『警官の血』を読み始めたら止まらなくなって、上下巻778ページを一気に読了。谷中あたりが舞台というのがいい。さすが作者の土地勘のあるところ。昭和30年代の古い地名を地図で確認しながら、読み進む。戦後期の世相や警察組織の様子なども、よく調べていることがうかがえる。谷中の五重塔のことは知らなかった。今度、主人公が歩いた道をたどりながら、散歩でもしてみよう。画像の説明

    二代目の警察官は地域交番の駐在を志しながら、左翼過激派への潜入捜査を命じられる。警察のスパイ。ワタシの政治信条的にはムムムとなるところだが、PTSDを発症するまでに至った潜入捜査官の苦渋がかいま見えて、それはそれで権力の下で働く人間の葛藤はよく描かれている。事実関係を掴んだことはないが、たしかに学生運動や労働運動への公安の潜入捜査は行われ、それなりに実績を挙げてはいたのだろう。

    三代目は、最初の配属が上司の腐敗を暴く内偵捜査。なんでまた。このあたりは、ハリウッドの警官映画を観るかのようなタッチだ。実際、こういうことってあるのかなあと訝しく思いつつも、面白く読めた。代を経るごとに、警官の血も濃くなるのか、ふてぶてしさを増すラストがいい。

    佐々木氏の小説は初めて(ノンフィクションで、キューバ革命のカストロを描いたものは読んだことがある)だが、なかなかグッと来る作風ではある。高村薫が直木賞を取っているのだから、この人が取ってもおかしくはない。


    2007-11-26 (Mon)

    [life][book][movie] 連休

    連休中にやったこと。映画『君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956』。半世紀前のハンガリー動乱のことを歴史として勉強するにはいいが、ジャンヌ・ダルクのように勇ましい反ソ革命の闘士とオリンピック選手との恋の描き方は、ドラマとしては類型的すぎるかな。公式サイトにコスタ・ガブラスの『ミュージックボックス』についての記述があるが、これって公開年とか監督名とか、間違っているんじゃないかな。

    本は桐野夏生の『グロテスク』。論じられるべき意欲作だとは思うが、オレの琴線には触れなかった。桐野の「娼婦論」を読まされているようで……。で、桐野はそれを説明し尽くしたかというと、最後は自分自身も混乱しているようで……。

    後は散歩と酒飲み。

    本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

    _ ひろぽん [映画スタッフのプロフィールに間違いを発見した件。配給元のシネカノンにメールしておいた。今は訂正されている。]


    2007-11-20 (Tue)

    [book] 『先生とわたし』『超人高山宏のつくりかた』

     四方田犬彦という人の関心と知識の学際的な広がりにはいつも驚かされている。その著作リストを見ただけでも、文芸批評あり映画論あり、ブルース・リーと腐女子マンガを論じるかと思えば、古今東西の文学を引用しながら、パレスチナ映画と韓国映画を比較し、イタリア語、韓国語を解するらしく、たんにブッキシュな人かと思いきや、ソウル、パレスチナ、モロッコ、セルビアを歩き……で、この人なにが専門? と思うのは当然だ。

     私はそのうち、海外体験と映画に関するエッセイ、それから、名著の誉れ高い『月島物語』、高校時代・大学時代を回想したエッセイのいくつかを読んだにすぎないが……。そう、最近では岩波書店のPR誌「図書」に連載している、「日本の書物への感謝」にも時々目を通している。たんなる古典解題ではなく、著者と古典との出会い、古典のもつ世界性を楽しく語ったエッセイだ。かつて、しょうもないテーマで一度だけ、30分ほどインタビューしたことがあるが、学者然とした偉ぶりは微塵も感じさせず、気さくな人柄を感じた。

     その文章は学者にしては、華麗だ。分かりやすいかといえば、少々首を傾げるところもあるが、近年の物書きとしては、かなり上手いほうの部類に属する。ときにペダンチックに知識をひけらかす癖があるが、学者なんだからそれは当然。専門に関しての圧倒的な学識、周辺事物に関しての幅広い教養、そしてそれらを統合・再構成するアクロバティックな文章力がなくてなんの学者か。

     その知的好奇心の広がりがどのように生まれたかは、たとえば高校時代を回想した『ハイスクール1968』における読書と映画鑑賞の量と幅の広さを見てもその一端が窺われる。我が身の高校時代の読書なんぞ、鼻くそほどにも及ばない。

    画像の説明

     今年、新潮社から出た『先生とわたし』は、『ハイスクール1968』のいわば後編に当たる東大時代の話。紛争後の瓦礫の下で展開されたゼミで、四方田は由良君美(ゆら・きみよし)という一人の英文学者と出会う。早熟で知的好奇心に溢れた青年が、学者としての道を決意するに至るまでの青春記であり、卓抜な由良君美評伝であり、そして人文系の学問における知の継承のされ方、つまり秀逸な師弟論あるいは現代大学論にもなっている。専攻を問わず、大学で飯を食う人には必見の書と言えるかもしれないよ。

     由良君美という人については、いっさい読んだことはないが、英文学の世界ではそれなりに知られた人らしい。そもそも『先生とわたし』に描かれる由良ゼミの様子──たとえば、ドストエフスキーの『白痴』のナスターシャ・フィリッポヴナ、フィッツジェラルドの『冬の夢』のジュディから、マレーネ・ディートリッヒ主演のフィルム『嘆きの天使』のローマまでを例に掲げて講じる「宿命の女」論、と言われましても、まったくチンプンカンプンである。面白いのか面白くないのかもわからない。

     しかし、由良の汲めども尽くせぬ知の泉と、精緻を極めた文学の伽藍、そしてその風体が醸し出すスタイリッシュなオーラに触れながら、若者たちが刺激され、なにがしかモノを考えるようになる様子は、興味深い。四方田の比較文学や映画史研究の方法論の基礎は、この由良ゼミで学んだものがベースになっていることは、本人が認めるところだ。その人の一生を形作るほどの知的興奮というのを、私は学生時代もその後ももついぞ体験することがなかった。師と呼べる人をもった人こそ、幸いなるかな。

     由良君美は1990年に61歳の若さで亡くなったが、晩年は酒に溺れ、大学でも奇行が目立ったという。四方田を含め優れた研究者を育てたが、弟子たちとの関係はけっして安定していたわけではない。四方田があるとき著作を師に送ると、はがきに一言「すべてデタラメ」と書いてだけよこしたというエピソードからもその不幸な一面が窺える。

     師弟の関係というのは、どの分野でもつねに幸福とは限らない。いや、むしろ愛と憎しみ、支配と被支配、競争と嫉妬、恭順と裏切りという人間ドラマの宝庫であると言ってもよい。とりわけ、文学なんぞをやろうとするインテリの場合は、その錯綜の人間ドラマはより陰湿であり、滑稽でもあるだろう。

     そのような師弟ドラマとして読むのであれば、エリオットもアラン・ポーも、欧米文学の知識など一かけらもなくても、この本は面白い。そのようにしてこの本を堪能しながら、同時に、われわれは、世間的にはなんの役にも立たないと思われている文学研究というものが、しかしときには命賭けるほどの厳しい営為であり、ある種の人々には無上の喜びを与え、そしてその知の饗宴こそが、人間を人間足らしめる一要素であることを、あらためて知ることになる。

     同じ由良門下に高山宏という人がいて、この人は四方田犬彦の少し先輩に当たる人だが、こちらも、マニエリスム再評価の先鋭として有名な人らしい。『先生とわたし』の後に続けて『超人高山宏のつくりかた』(NTT出版)を読んだが、この順番がよかった。2つの本は由良君美からの影響をそれぞれに語るという点で照応しあう。

    むろん、それ以上にこの本は、自らを「学魔」(悪魔的なまでに学問に淫蕩する学者というぐらいの意味か)と呼ぶ奇怪な知識人の自己顕示の本だ。インテリが自己顕示しないでなんのインテリぞと、私は四方田本を読んだときと似たような感想を抱くのだが、その自己顕示欲はどろどろと悪魔的であり、意外と品のいい四方田なぞ足下にも及ばない。画像の説明

     マニエリスムとか視覚文化論とか、本の内容の100分の1も私には理解できないが、しかし、ここまで来ると嫌みがないというぐらいの唯我独尊的自慢話は爽快だ。膨大な知識量だけでなく、自分の顔相や、いかに女にモてたかという話まで自慢するものだから、モてない東大学者・小谷野敦が嫌みたらしく重箱の隅つつき的な間違い探しをするのもわからないではないが……。

     澁澤龍彦、種村季弘、山口昌男、荒俣宏、松岡正剛、田中優子らとの交友の中から、相互に領域を超えて刺激しあう知的遊戯の楽しさも、なかば伝わってくる。私はいずれも断片しかかじったことのない人たちだが、それでも、当時の正統的な文学、歴史学、文化人類学から見れば「異端」と呼ばれた人たちが、次第に主流として認識されるにいたった、80年代から90年代にかけての文化状況を彷彿とさせて、この点も興味深い。ただし、高山宏の戯作調の文章は、初めて読むとびっくりするな。悪文だけれど読ませるという文章の一つの典型かもしれない。

    本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

    _ アミーゴ渡部 [ボクはひろぽんさんの解説に圧倒されましたが(^^; ご紹介いただいた「ハイスクール1968」読みました。 これも圧倒..]


    2007-11-19 (Mon)

    [life][book] 知の蕩尽

    晴れ間を見つけて池袋まで往復したり、本郷〜根津〜上野桜木町界隈を散歩したり、中年散歩者と化す日々ではある。東大本郷にてほんとは多忙なんだけれどさ。

    散歩しながら四方田犬彦『先生とわたし』、高山宏『超人高山宏のつくりかた』を読む。共に由良君美門下生の、学問的成功へと至る、まあ、自慢話ではあるが、共に「魔」の領域に達するほどの知性ゆえ、話は絶妙に面白い。日曜夜には、外資系投資銀行に就職を決めたという東大大学院生の話を聞く。それもまた可。人類の知識がこういう無駄なところで蕩尽されるのも楽しからずや、だな。


    2007-09-26 (Wed)

    [movie] 『雪に願うこと』根岸吉太郎監督(2005)

    東京で起業した会社を潰し、女房とも別れ、逃げるように実家のある北海道に帰ってきた男(伊勢谷友介)。兄(佐藤浩市)はばんえい競馬の調教師。弟とは13年ぶりの再会だ。最近ずっと勝てない女性騎手(吹石一恵)、兄を世話しながらも結婚に踏み切れない女(小泉今日子)、廃馬寸前の競走馬「うんりゅう」らとの交流をからめながら、男が立ち直っていくストーリー。画像の説明

    根岸監督の作品を観るのはもしかしたら『ウホッホ探検隊』(1986年)以来かも。正統派的な撮り方で、演出のきめ細かい監督という印象があるが、意外と寡作だ。今年は竹内結子主演の『サイドカーに犬』が公開されたが、単館上映だったためかあまり評判を聞かない。

    帯広の雪、馬の息、競馬場の土から立ち上る湯気など、黒と白のコントラストを基調とした端整な映像が美しい。Y・Nさんの日記に出てきたタウシュベツ橋梁が雪に映えて美しいたたずまいを見せる。綿密に計算されたシーンを丹念に積み重ね、静かに語りかける映画づくりは好感がもてるが、いまどきの映画に比べると少々「古典的」味わいといえるかもしれない。雪玉を屋根の上に上げて馬の無事を願うシーンは、タイトルの由来でもあるが、二度使うだろうなと思ったら、その通りになった。

    俳優陣は健闘。伊勢谷の甘えてふて腐れた口調はちょっと気になるが、これもダメ男の再生の物語ゆえの演出か。佐藤、山崎努らベテランに引き立てられ、演技にはなっている。伊勢谷の元同僚を演じる小澤征悦が意外といい。吹石も女性騎手役を体当たりで好演。

    ちなみに、北海道遺産にも指定されるばんえい競馬は、協賛する自治体の財政難でいまや風前の灯火。今年度はなぜかソフトバンク・グループが支援していることは、先月のソフトバンク取材で知った。(DVD、☆☆☆★)

    [book] きょう買った本

    先日のNHK-BS「週刊ブックレビュー」などを参考に、ポピュラーサイエンス系の本などを購入。bk1にて。

    ・吉田太郎著『世界がキューバ医療を手本にするわけ』築地書館

    ・福岡伸一著『生物と無生物のあいだ』 (講談社現代新書 1891)講談社

    ・西成活裕著『渋滞学』 (新潮選書) 新潮社

    ・ギャヴィン・プレイター=ピニー著『「雲」の楽しみ方』河出書房新社

    ・三澤慶洋著『図解でわかる飛行機のすべて ─飛行のメカニズムから航法・離着陸まで』日本実業出版社

    ・竹田いさみ他編『オーストラリア入門 第2版』東京大学出版会

    最後の二つは入荷待ち。

    それからディリー・バックアップ用の外付HDDの容量がいっぱいになったので、秋葉館の通販で500GBのHDD(FireWire400/Seagate製)を購入。明日到着予定。

    本日の晩飯は、近所の「イーノ・イーノ」。イタリア産のフレッシュ・ポルチーニのソティと、北海道産牡蠣のパスタ。ポルチーニの香りに酔い、カキは厚岸じゃなくて別の産地で名前忘れたけど、そのふっくらとした食感にクラっとなる。この店の素材と料理のレベルは年を追うごとによくなっているような気がする。


    2007-05-30 (Wed)

    [book] 古本の値段が1円

    行きつけのネット書店(bk1)に辻原登の芥川賞受賞作『村の名前』(文春文庫)の在庫がなかったので、単行本のほうをAmazonの古本マーケットで探したんだけれど、価格はなんと「1円」でありました。配送・手数料がその340倍もする。リアル古本屋を探す手間を考えたら、341円は安いと思って注文したんだけれど、なんだかなあ。

    いまどき稀覯本以外の古本ってのは、ほとんど紙の重さ程度の値段しかしないのね。手数料を分け合って、Amazon もお店もそれなりに利益は出るわけだけれど。


    2007-05-18 (Fri)

    [IT] Journlerを使う

    Mac上のメモ管理に、先日から Journler というソフトウェアを使い出した。テキスト、Webアーカイブ、画像、PDF、ファイルリンクなどを一括して管理。カテゴリー、タグ、およびフォルダ、スマートフォルダで整理する。Webエンジンを組み込んでいるため、独自にWebブラウザもできる。

    ブログへの投稿機能もあるが、現在は、LiveJournal 系にしか投稿できていない。類似のツールとしては、MacJournal(これまで使ってきている)、Yojimbo(試してみた)などがあるが、Journler はドネーションウェアという点でもオトク。それにしても、Journler はなんと発音したらいいのか。勝手に「ジャンラ」と呼んでいるんだけれど。

    [book] bk1のブリーダープログラム終了へ

    知らなんだ。今年の7月から終了だって。3月に来たお知らせメールを見逃していた。

    まさに「ブリーダープログラムを主に『ご自身のご購入に対してのポイントバック』としてご利用いただいておりましたお客様」である私は困ってしまう。

    7月以降は、ビッターズとかの外部アフリエイトプログラムを利用するんだと。その場合でも、自分の購入に対してはポイントがつくし、ポイント率も4%と増えるんではあるが、まずはビッターズに登録して、書籍リンク専用のブログを作って、そこから購入するという面倒な手続きを取らないといけないようだ。うーむ。


    2007-04-18 (Wed)

    [book] 最近買った本

    他に書くべきほどのこともないので、最近買った本リスト。画像の説明画像の説明

    1〜3は多和田本。最近作はみんな買っている。5〜7は写真集。最近、ぼぉーと写真集を眺めるのが好きになった。偶然だがいずれも<東京>を撮っている。10は帝政ロシア時代からあったといわれるソ連収容所の研究書。ピュリツァー賞受賞。13は岩波の叢書。いちおう揃えようかと思っているのだが……。


    2007-01-03 (Wed)

    [book] 正月読んだ本

    大晦日に帰省、3日に戻る。じっくりと本を読めた。

    『フィデル・カストロ後のキューバ カストロ兄弟の確執と<ラウル政権>の戦略』(ブライアン・ラテル著/作品社)は元CIAのキューバ専任分析官によるカストロ体制分析。ラテンアメリカに対して公然・非公然と暴力的に干渉し続ける自分(CIA)の足下は放っておいて、カストロの少年期からの粗暴な性格をあげつらうのはいかがと思うが、通常のカストロ伝記には見られないネガティブなエピソードがふんだんに盛られている。

    カストロのラジオ演説を遠くワシントンで傍受しながらその心理を分析するというプロファイラーとしての自慢話もいくつか。冷戦とは、ある意味で高度な心理分析戦でもあり、スパイ戦争であったことにあらためて気づかされる。

    弟ラウルと兄フィデルの関係については、「フィデルの死がラウルを浄化するのだろう」として、フィデルの軛から放たれた後のラウルに期待する。同様にラウル体制の側もまた、ブッシュ後のアメリカの変化に期待していることは明らかなわけで、その駆け引きの妙が今後、ラテンアメリカ政治に占める重要性は高まるはずだ。

    ■キューバについてはアメリカとの政治的対決ばかりが強調されるが、実体経済はどうなっているのか。キューバ革命は経済的には成功したのか、失敗したのか。その問いにいくぶんかは答えてくれるのが『現代キューバ経済史 90年代経済改革の光と影』(新藤通弘著/大村書店)。ソ連崩壊後、経済システムの変革へと進むキューバ経済を1999年の時点で分析した。

    著者は基本的にキューバ革命を支持する立場ではあるものの、ハバナ現地での調査も含むそのマクロ、ミクロの実証的分析から浮かび上がるのは、この国の税制や財政、賃金政策や農業政策が信じられないほどいい加減だったということ。社会主義的無策といえばそれまでだが、それにしても、賃金労働者から一切所得税を取らないというのは、ちょっとまずいのでは……。そういうツケが回って、「外資天国」ともいわれる極端な外資導入策へとブレていく過程がよくわかる。

    アメリカの経済封鎖は、キューバ経済に甚大なマイナスを与えたが、99年時点での経済困難は、より根源的なキューバ経済の構造から生じたものというのが筆者の見方。今後は「市場化テスト」に耐えながら進める大胆な構造変革を通してしてしか、キューバ革命を守る道はないという。

    ■先日、旅行の件で相談したキューバ旅行専門代理店のS氏は、少年時代をハバナで過ごしたという。同国のマグロ延縄漁を指導するために赴任した父親に付いていったのだ。まだ国籍不明機が領空を侵犯してサトウキビ畑に爆弾を落としていたころ。ゲバラをテレビで観たこともあるといっていた。これはこれで得がたい体験だ。

    ■資本主義圏に生まれた子供が、社会主義圏で送った小学校生活。そこでの濃密な体験を、30年後の東欧社会主義の崩壊と共に描くのが米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)。つとに名作の誉れ高いノンフィクションだ。プラハのソビエト学校という、社会主義圏のなかでも特殊な地帯。そこで出会った個性的な友人や教師たち。それにしても、そのエピソードをよくここまで子細に記憶しているものよと驚く。人並み外れた記憶力、観察力と省察力を基礎に、人間と社会に対する透徹した感受性が生まれる。アーニャたちのことをけっして忘れなかったという点で、著者は彼女たちとはまた別の意味で動乱の時代を生き、自らを鍛えたのだ。かつての級友を思いやる心情は、通俗な反共イデオロギーの嘘臭さを逆に暴く。

    ■異国の街で自分とは何者かを問うのは、多和田葉子もまた同じかもしれない。初めてこの人の小説を読むが、『容疑者の夜行列車』(青土社)は、たんに異国や一人旅という状況が、アイデンティティのゆらぎを醸し出すということ以上に、より抽象度の高い、世界内存在としての人間の不安を扱っているように思える。

    章立ては「パリへ」「アムステルダムへ」と明確に目的地を指し示すのだが、主人公はけっしてそこへ行き着くことはない。それはねじれる夢の階段をいつまでも行きつ、戻りつする旅だ。コンパートメントの中の、エキセントリックで身勝手な見知らぬ同乗者たちも興味深いが、その奇妙な物語に魅せられたように、主人公は絵の中の一部になり、作者からつねに「あなた」と呼ばれる存在だ。ボンベイ行きの列車で爪切りと引き替えに「永遠の乗車券」を譲られたばかりに、「あなたは、描かれる対象として、二人称で列車に乗り続けるしかなくなってしまった」。その旅を「あなた」はけっして嫌がってはいない様子。不安はつねに愉楽のようでさえあるのだ。

    ■正月3が日で読むものがなくなってしまったので、帰京の列車では駅のコンビニで買った文庫本、村上春樹『アフターダーク』(講談社文庫)に読みふける。こちらは3人称の小説ではあるが、多和田作品との偶然の共通点もある。「見る」視点と「見られる対象」との関係にことのほか自覚的なのだ。作者が意識的に仕掛けるのは、鳥のような目で俯瞰し、マクロレンズのように対象に迫りながらも、それ以上は関与しないカメラのような視点。その配下に、日の暮れて以降の夜のとばりの下で、連奏する人間模様が描かれる。少しだけ『クラッシュ』という映画の監督の視点を思い出したりした。


    2006-12-21 (Thu)

    [book] bk1のセール

    bk1が12/28まで1万円以上の書籍購入に、bk1ポイント1000点バックなどのキャンペーンをやっている。つまりは新刊が1割引になる年末セールだ。今月は欲しい本が無数にあり、総額数万円に及ぶのだが、ここはひとつ小賢しく、1回のオーダーが約1万円になるよう小分けして注文。もちろん、何回注文しても、期間内ならそのつど1000点のポイントがつく。

    主に反グローバリズム(『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』スティグリッツ著・徳間書店など。それにしてもすごいタイトル!)、ポスト・コロニアリズム(『ポスト〈東アジア〉』孫 歌編・作品社など)に、社会コミュニケーション分析本(『モバイルコミュニケーション』山崎敬一編・大修館書店など)、それと米原万里の本、経済予測関連本(『日本経済の明日を読む 2007』東洋経済新報社)なんかも交えて。あ、そうだ。キューバ本では『フィデル・カストロ後のキューバ』(ブライアン・ラテル著・作品社)というのもあった。CIA分析官はカストロ後のキューバ情勢をどう見ているのか、関心がある。

    さて、このうち何冊を読めるだろう。2割読めればいいほうか。たとえすぐには読めなくても買ってしまう。買っておけばなんとかなる(なにが?)と信じている。


    2006-12-05 (Tue)

    [book] キューバ本

    来年早々のキューバ行に備えていくつか関連本を蒐集。キューバといったら、私の場合やはりまずはカストロでありチェ・ゲバラである。ヘミングウェイや葉巻やラム酒、あるいは音楽や野球やバレーボールへの関心は副次的だ。キューバ革命については、学生時代に一通り「学習」した記憶があるが、反帝反植民地闘争の旗手としての理想は認めるものの、革命後の社会実験が結局ソ連型社会主義を踏襲したということで、それ以上の興味がわかなかった。画像の説明画像の説明画像の説明

    あらためて、後藤政子・樋口聡の『キューバを知るための52章』で最新(といっても2002年前後)の状況をおさらい。さらに佐々木譲の『冒険者カストロ』や、三好徹の『チェ・ゲバラ伝』で、2人の革命家の足跡とキューバ革命が世界にもたらした意味について考えてみる。

    佐々木の本は三好の本が底本になっているのだろうか。あるいは両者に共通するネタ本があるのか。紹介されるエピソードがよく似ている。ただ、佐々木著の中にある、カストロのハバナ大学時代の活動についての話は、私にとっては目新しいものだった。1950年代の反バチスタ独裁闘争といってもさまざまな潮流があり、互いに激しい“内ゲバ"を展開、しかもそれは、ピストルをぶっぱなすような派手な抗争だったというのには、あらためて驚く。ラテン気質といってしまえばそれまでだが……。

    キューバ革命はもはや過去のものなのだろうか。もちろんソ連型経済政策の大失敗は、たとえ米による経済封鎖やソ連の崩壊がなかったとしても、ある種、必然ではあったのだろう。だが、それになんとか耐え、サトウキビモノカルチャーから脱しえなかった過去の政策の誤りを批判的に乗り越えることで、キューバはいま有機農法や循環型社会の構築という点で先進的な位置にある──というのが吉田太郎の浩瀚な現場レポート『1000万人が反グローバリズムで自給・自立できるわけ─スローライフ大国キューバ・リポート』の骨子である。580ページもの大著なのでまだ半分しか読み切れていないのだが、農林行政の専門家としての科学的・実際的な視点が一貫しており、グローバリズムとエコロジーというテーマを考えるうえでも、勉強になる本だ。

    アメリカン・グローバリズムの展開と9.11以降の反テロ戦争は、いまラテンアメリカの政治にも深刻な影響を与えている。それはむしろ米国主導の統合に対するアンチとしての、新しい政治潮流を生み出した。かつて“アメリカ帝国主義の裏庭"と呼ばれたキューバの向こうにはいま、ベネズエラ、ブラジル、ボリビアなどに反米政権が誕生している。廣瀬純の『闘争の最小回路─南米の政治空間に学ぶ変革のレッスン』は、そうした「進歩的政権」と、それを生み出しつつも、単純にはそれに吸収されない広がりを見せるラテンアメリカ民衆の政治闘争の現状を分析している。画像の説明画像の説明

    もちろんそこに、かつてのカストロやゲバラの国境を超えた革命の理想を見いだすことも可能だが、それだけならたんなる古いロマンチシズムの再生に過ぎない。廣瀬はむしろこの本のなかで、劇場の観客のように対岸の火事としてそれを見るのではなく、自らもまたその舞台に上がることを読者に呼びかける。

    むろん、アンデスを超えてラテンアメリカの新しい革命に馳せ参じよというわけではない。闘うべき敵は、絶えざる階層化・分断化の攻撃のなかで、人々がほとんど何も言挙げできない、日本のいまここにあるグローバリズムの現状だ。まだ30歳すぎたばかりの若い著者。分析の手法はむろん手垢にまみれた古典的マルクス主義でも毛沢東主義でもない。ネグリとハートのマルティチュード概念がたびたび援用されるが、著者の語り口は学者の書斎の能書きのようには聞こえず、そのアジテーションは新しい政治センスの登場さえ予感させる。

    さて、むろん私とてキューバの音楽や映画にも関心がないわけではない。まだ見ぬカリブの島へのイメージは、私の場合、ヴェンダースの映画『ブエナ☆ビスタ☆ソシアル☆クラブ』の風景だ。そこへ行ったら、可能な限り、その雰囲気に浸りたい。そのための準備は、むしろ本ではなく、もっとCDを聞きながら、ということになるだろう。


    2006-11-09 (Thu)

    [book] 『ベルリン陥落1945』

    先週後半から少し暇になったので、読みさしになっていたアントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落1945』(白水社)に取り組み、先ほど読了。画像の説明

    戦史ノンフィクションものはめったに読まないのだが、夏に行ったベルリンという都市が、60年前にはどのような状態であったのかという興味から手にとってみた。ベルリン攻防戦は、東ドイツ国家の成立を含むドイツの戦後過程、そして東西冷戦の原点に当たるものだからだ。

    これがむちゃくちゃ面白い。面白いというと顰蹙を買うかもしれないが、ソ連軍の進攻とナチおよびドイツ国防軍の抵抗を軸に、刻々と変わる戦況を、兵士や市民の手紙も含む膨大な資料と証言から再構成するその筆致は見事というしかない。1926年生まれでロシア語やポーランド語も解するという訳者・川上 洸氏の、当時の軍事用語を駆使した的確な翻訳ともあいまって、上質のノンフィクションに仕上がっているというのが第一の感想だ。

    私が知らなかった重要事実について、いくつもの精緻な記載がある。たとえば、ソ連赤軍が行った略奪や婦女子への戦時性暴力の実態。ベルリン市内に限ってみても、「レイプされた10万の女性のうち、その結果死亡した人が1万前後、その多くは自殺だった」という記録が引用されている。ソ連兵は、ナチの収容所に囚われていた女囚や、隠れていたドイツ共産党員の娘や妻をも陵辱したという記載はショックである。

    本書の原書が2002年にロンドンで刊行されたとき、当時の駐英ロシア大使が抗議文を新聞に発表したほど、その記述はセンセーショナルで、その凄絶さは、こうした性暴力は戦争には常につきものという、生半可な「了解」を超えるものだ。

    もちろんソ連兵を暴行と略奪に駆り立てた背景には、ドイツの対ソ戦の過程で行われた占領地における徹底した暴力への、当然の報復という面があった。つまり、象徴的にいうなら、ベルリンはスターリングラードの記憶と切り離せないものだった。こうした報復の連鎖の禍々しさは、ベルリン市民の一人がSバーン列車内で聞いた、ドイツ復員兵のアジテーションに象徴される。

    「この戦争には勝たねばならん。勇気をなくしてはならんのだ。もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ」

    ナチは占領地を略奪し、多くのソ連市民を「奴隷」としてドイツに拉致した。だからこそ、その報復として、ベルリンが崩壊すれば女性は全員がレイプされ、男性は全員がシベリアの強制収容所に連行されると、ナチは宣伝していた。そして一部はその通りになった。

    戦争は、憎悪の連鎖であり、報復の鏡である。相手に与えた暴力と恐怖は、そのまま自分にも跳ね返るのが常だ。そして、その復讐のチェーンは、いまなお、世界各地で繰り返されている。

    他にも、ヒトラーとスターリンの戦争指導力の実態、互いの宣伝戦や謀略、斃れゆく兵士の膨大な数と一つひとつのエピソード、敵前逃亡や裏切りを摘発するナチ憲兵や人狼部隊、同様にソ連側のNKVD(内部人民委員部)やスメルシュの暗躍など、相互の描写のなかから浮かび上がるのは、戦争一般がもつ悲惨さと同時に、ナチズムとスターリニズムの相似の表情である。


    2006-10-12 (Thu)

    [book] 昨日届いた本

    書くべきことはあるんだが、時間がなくて、差し障りがあるので、今日はM.T.氏を真似て昨日 bk1 から届いた本のリストのみ。

    いずれも岩波本。ブレッソンの写真は何度も見ているが、あらためて代表作を並べると、それぞれのひとの人生に対する潔さあるいは切なさが伝わってくる。それを際だたせているのが、写真のチカラだ。

    本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

    _ 長官 [私もクマムシ本読みました。ナマコガイドブックがとても面白いのでお読みください。http://booklog.jp/a..]

    _ ひろぽん [ナマコについては、アジア海洋民族の貿易という観点から詳しく調べた人に鶴見良行(故人)という人がいて、私の愛読書の一つ..]

    _ 長官 [昔の中国の人は海に潜ることはしなかったので海鼠や鮑は日本から輸入していた、とかの話でしょうか。ナマコガイドブックは生..]


    2006-06-23 (Fri)

    [football][book] サッカー本

    サッカー本はそれなりに読むが、ロナウジーニョのパスの秘訣、中田がロッカールームで怒った理由、トッティの彼女はスーパーモデルなんてのは、あんまり関心がない。ましてや「ジーコの戦術は企業経営にも活かせるか」(無理だろうけど)なんていう手合いのサッカー便乗本は願い下げだ。

    それよりも、なんというか、サッカーをもうちょっと違う視点から、たとえば政治・経済・文化の観点から位置づけて語るというのが好き。もちろん、ピッチでの90分のボールと足の動きは、それ自体は政治ではないし、戦争でもないし、ましてや経済でもないけれど、サッカーというスポーツを人類の営みの一つとしてメタにとらえれば、そこに色濃くあらわれる政治・経済・文化の影を意識しないわけにはいかない。

    そういう意味でこれまで読んだサッカー本のなかで最大の賛辞を贈りたいのは、サイモン・クーパーの『サッカーの敵』(白水社)だ。画像の説明

    2002年W杯に合わせて翻訳が出た本だけれど、サッカーをナショナリズムや宗教やマフィアビジネスに利用しようとしている世界の腹黒い輩の実態を、ひょうひょうとしたタッチの取材で暴露し、サッカーというスポーツの「純粋性」をそこから救おうとしている。

    実際、救えるかどうかはわからないけれども、現代サッカーがそのような「サッカーの敵」に取り囲まれながら息も絶え絶えになっているという事実を知るのは、けっして無駄なことではない。

    2006年W杯を当て込んだサッカー本ラッシュのなかでも、サイモン・クーパーの問題意識を踏まえたような本がいくつか出ているのは喜ばしい。たとえば、『W杯ビジネス30年戦争』(田崎健太/新潮社)、『サッカーが世界を解明する』(フランクリン・フォア/白水社)は面白そう。未読だが購入済みだ。画像の説明画像の説明

    いま読みかけの、『サッカーという名の神様』(近藤篤/NHK出版)は、サッカー本のなかで私が好きなもう一つのタイプに属する本だ。これまで挙げた、サッカーの光と闇のどろどろみたいなお話じゃなくて、もうちょっとのんびりとしている。

    トリニダード・トバゴのスタジアムでスティールドラムが打ち鳴らされる様子とか、南海の楽園、モルディブにサッカーを見に行った話とか、ちょっと気の利いたサイドストーリーを集めたエッセイ集。著者は写真家であり、本文にはさまれるモノクロ写真がいいアクセントになっているが、なかでもひいきチームのゴールに歓喜するアルゼンチンのスタジアムを取った一枚はすごい。

    小高い山ほどもあるスタンドに鈴なりに群がる観衆のエンスージアズム(熱狂)は、全体としてみれば、巨大な津波のようでもあるが、細部をみれば、まるで人類が喜ぶときに見せるありとあらゆる表情をコレクションした細密画のようだ。どんな宗教やセックスやお金も、これほど多様な喜び方を人類に提供することはできなかったかもしれない、と思うぐらい。画像の説明

    「ブラジルはなぜ強いのか、その秘密を探ってきてくれ」と雑誌編集者に依頼されて、著者がブラジルの人々に聞き回る話が面白い。

    「ブラジルでは、サッカー選手が地面からどんどん生えてくる。ロビーニョみたいな選手を1本刈り終えるころには、もうその周りでロビーニョが3本ぐらい芽を出し始めている」

    という、現地のサッカー指導者の答えには腹を抱えて笑った。

    そんな特殊な腐葉土が堆積する国とは、これから先三百年経っても勝てっこない。

    サッカーという窓から見渡すと、世界はまた違った様相に見える。常識でこね固めた世界観が、あっさりフェイントをかけられて覆ってしまう。いわばサッカーによって世界が「異化」される瞬間というか。私が野球をではなく、サッカーを好きなのも、それがあるからかもしれない。

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    _ aja [『バルサとレアル』もオススメしてくださいませ。W杯ものではないけど。]


    2006-02-27 (Mon)

    [book] きょう買った本

    午後の仕事の帰りがけ、AyumiBooks をウロウロ。講談社から、なんかサッカークラブの名前のような思想誌が発刊されたというので探したがなかった。「RATIO」でありますね。仕方がないから久しぶりに「本の雑誌」を買う(笑)。

    密かに敬愛する中島義道センセイの新刊『私の嫌いな10の人びと』(新潮社)、北田暁大他『カルチュラル・ポリティクス1960/70』(せりか書房)なども。恥ずかし本『嫌韓流 反日妄言撃退マニュアル』(晋遊舎)、今さらながらのベストセラー、東野圭吾『容疑者xの献身』(文藝春秋)なんかをこっそり紛れ込ませて……。

    Ayumi では5000円以上お買い上げで、近所のカフェ・ベローチェの飲み物券をくれる。書店と喫茶店の異業種コラボはいいことなんじゃないだろうか。bk1 のブリーダーポイントバックのほうがまだオトクなんだけれど、たまにはリアル書店も覗かないとね。

    しかし、しばらくの間は、まともに本も読めない状態が続くんだろう。オレの下手な文章とヤワな思考を世の中にまき散らすより、うまい文章と緻密な思考の人びとの本を読みながら、そこに耽溺していたい今日このごろ。


    2006-01-24 (Tue)

    [book] 本日買った雑誌

    あまり寝られないまま朝から原稿書き。昼寝2時間後、打合わせ。夜は飲み会の予定だったが、3人が風邪で順延。夕飯は小石川「わたべ」で鰻。どうにも眠くて宵寝。起きたら、ホリエモンが堀江容疑者に変わっていた。

    Ayumi Books 内をふらりと散歩。雑誌バックナンバー、ムックなどをいくつか購入。

  • 「季刊前夜 6号」特集:第三世界という経験
  • 「AERA DESIGN」特集:ニッポンのデザイナー100人
  • 「AERA 2006.1.30」特集:狙われたホリエモン
  • 「BRUTUS 2005.12.1」特集:どうにも映画好きなもので……。
  • 「散歩の達人 2005.10月号」特集:神保町回游
  • 「Coyote 2006.1月号」特集:旅行者の記憶─上野物見遊山
  • [football] 参加国協会分チケット外れ

    先の日記に書いた、FIFA割り当ての参加国協会分チケット申込み。日本戦、全部外れでした(:_;)。これでまた一歩、ドイツが遠くなる。
    本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

    _ ぜっぴ [追加発売だそうで。 http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlas..]


    2006-01-16 (Mon)

    [football] FIFA3次販売

    2006W杯のチケット申込み。FIFAサイトの3次販売が本日締切なのであわててエントリー。最初7種類のチケットを応募すると、「すでに同じゲームを同一人名でエントリーしているものがある」との not accepted (不受理)の通知メール。どのゲームが該当しているのかは示されない。もしかして、ドイツのMが同伴者に指定してくれたはずの試合と偶然かち合ったためかもしれない。あれれと思って、試しに別の1試合を申し込むと、こちらは問題なく受理される。

    ところが続けて、残り6試合申し込もうとすると、すべて不受理のメールが返ってくる。そうか、メール、パスポート、カードなどを同一とする1人からは、1回しか申し込めないのか。あちゃ、ミスった。

    まあ、ここに来ての当選確率は低く、気休め程度のエントリーなので、これでもいいか。それにしても、コンピュータ処理のFIFAのメールのレスポンスの速いこと。

    JFA割り当ての参加国協会分チケット、日本戦3試合も今日から受け付け。こちらもダメモトで各試合を申し込む。当たんねぇだろうなあ。なにせ、今年の年賀状のお年玉は、印刷が余った分の、つまり出し損ねた分のうち、ようやく1枚が4等(切手シート)に当たっただけだもの。

    [book] 最近注文した本

    読了した本となるとちょっとキビしいので、多くは注文した本リスト。これでも最近の関心の一端が伺えるか、と。
  • 『ネオリベ現代生活批判序説』白石嘉治・大野英士編(新評論)

    現在読書中。ネオリベ=新自由主義を思想と生活から撃つ、久しぶりのラディカル本。きょうびの大学改革=独法化もロクなもんじゃねぇと教えてくれる。むろん書名は、アンリ・ルフェーブル『日常生活批判序説』由来。

  • 『〈野宿者襲撃〉論』生田 武志著(人文書院)
  • 『フリーターにとって「自由」とは何か』杉田 俊介著(人文書院)
  • 『ケータイ研究の最前線』日本記号学会編(慶應大出版会)。これは田中求之氏の本棚で教えてもらった本。
  • [cynicism] 退廃する精神

    自民党の武部勤幹事長は十五日、大阪市内で開かれた同党衆院議員の会合であいさつし、耐震強度偽装などを例に「日本は精神的に非常に退廃してしまったと言って過言ではない。教育を見直さなければならず、教育基本法改正も今国会でと思っている」と述べ……

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060116-00000004-san-pol

    家族ぐるみでヒューザーを弁護した元国土庁長官の伊藤公介のような自民党議員も、戦後教育の精神的退廃の現れですかね。

    2005-12-05 (Mon)

    [book] 台湾論

    小林よしのりはマンガも人柄も思想も下品なので、本を買ってまで読まないことにしているのだが、台湾旅行の準備で読み始めた『“小林よしのり『台湾論』”を超えて―台湾への新しい視座』(東アジア文史哲ネットワーク編)は面白い。

    よしりん的誤解・曲解・こじつけは、何も彼固有の問題ではなく、アジア植民地問題を本質的に超えることができないでいる日本人総体の貧しい視座のあらわれということがわかる。

    実証的な歴史学の立場からすれば、小林の本はほとんどデマゴギーのオンパレードに近いもののようだ。ただ、そこで切って捨てるだけでなく、よしりん的問題提起を批判的に受け止めつつ、狭隘な自尊史観に変わる新しい台湾論を提示しようとする、ポスト・コロニアリズムやカルチャー・スタディの若手の学究たちの作業は、刺激的で学ぶところが多い。

    本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

    _ まよ [台湾。そうだ、台湾行かれるんでしたね。良いなぁ〜〜〜。 でも沖縄から船でとか書いてらっしゃいましたよね、以前。 どん..]


    2005-11-22 (Tue)

    [book] 映画本2冊

    著者サイン入りの四方田犬彦『ブルース・リー──李小龍の栄光と孤独』を読了。カンフー(著者によればクンフーと発音すべしとのこと)のポストモダン的なかつ哲学的な継承者たらんと志しつつも、香港という植民地との距離の取り方を探しあぐね、死後は世界の抵抗的ナショナリズムを鼓舞する表象として神格化されたブルース・リー。一カンフー・スターの演技を、ここまで深読みすべきか、ちょっと戸惑うところだが、映画分析手法の一例としてなかなか面白かった。実はこの人のまとまった映画論を読むのは初めて。これまでは旅のエッセイとかが多かったから。文中、「メケメケな」とか、「コレオグラフィー」という単語が註釈抜きに出てきて面食らう。後者は「振り付け」と解せるが、前者については「メケメケな演技」とか言われて、はて、どう解釈すればいいのか。

    映画論の流れで引き続き、川村湊の『アリラン坂のシネマ通り──韓国映画史を歩く』へと進む。著者の『海を渡った日本語──植民地の「国語」の時間』は、戦中、南洋諸島で日本語を教えた中島敦らの仕事に触れながら、植民地支配の過程における日本語教育の問題をえぐる大変優れた言語帝国主義論だった。こちらはそれとうってかわって、やや軽い筆致、どっちかというと趣味的なタッチで韓国映画の系譜をたどる(ま、映画が本業の人じゃないんでね)。

    四方田も川村もほぼ同年代で、共に韓国の大学で教えたことがあり、かつその地で映画を観まくったという共通する経験がある。対談でもさせると、さぞかし面白い話が聞けそうだ。


    2005-08-07 (Sun)

    [book] 高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)

    靖国問題について、私には、戦前の仏教やキリスト教は靖国とどう対峙したのか。戦後直後に靖国神社廃止論というものはあったのか。──という2つの疑問があり、本書を手に取った。

    本書第三章「宗教の問題」で、著者は前者の設問に答えている。

    ここで主に紹介されるのは、浄土真宗大谷派の行動だが、靖国神社に反対するどころか、積極的に迎合してこれを支えていることがわかる。「阿弥陀法の信仰は皇法の中に包摂される」つまり真宗の教義は、天皇に帰一する大政翼賛の体制の中に含まれ、そこから逸脱するものではないという「戦時教学」がその論理になっている。

    こうした包摂を可能にする教学の論理は、戦時中のキリスト教団も同じだった。戦中の日本基督教団のリーダーは、植民地朝鮮で神社参拝の強要に抵抗して弾圧を受けている朝鮮のキリスト者を説得し、「転向」を促す役目も担っていたという。

    そのような論理を立てなければ、信仰の自由を保てなかったという、戦時中の抑圧体制があったのだろう。ただ、それだけではなく、戦前の靖国神社は「非宗教というカモフラージュ」を擬装しながら、国家的祭祀を執り行う「神社非宗教」というカラクリをもっており、その前に、他の宗教は抵抗することができなかったという事情が大きいと、著者は指摘している。他宗教と靖国のかかわりについては、公明党=創価学会の今後の態度を占ううえでも興味深い。

    後者の靖国廃止論の戦後的系譜についてだが、石橋湛山の話が「おわりに」で紹介されている。その後、自民党の総裁にして総理大臣になった湛山が1945年10月に書いた文章である。「大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇敬し、其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や」と問うて、「否」と答え、靖国廃止論を述べている。

    最近本書を批判した長谷川三千子は「敗戦意識にこりかたまった湛山など、放っておけばよろしい」(雑誌「正論」2005.9)とこのくだりを無視するが、戦後の保守本流の政治家のなかには、戦後の外交政策の見通しのなかで、明確に靖国廃止を語った人がいたことは、記憶にとどめておきたい。

    靖国は鎮魂や追悼の神社ではなく、国家のために喜んで死に行く人々を「顕彰」し、そうした人々を再生産するための戦争神社であり、その性格は戦後も一貫して変わらなかった。太平洋戦争はもとより、日清・日露戦争など明治維新以降の、富国強兵と植民地侵略の歴史をそのまま肯定する思想に裏打ちされている。その性格のままに、首相が首相の立場で参拝することは、これは中国、韓国に言われるまでもなく、戦後憲法下の日本人としては、「論理的に」許されない。たとえA級戦犯を分祀したり、無宗教の国家墓地を建設したところで、戦死者を顕彰するという思想の本質が変わらない限り、問題は繰り返されるだろうというのが、本書の基本的立場だ。

    むろん、大東亜戦争は正義の闘いであり、日本の植民地主義は間違っていなかったという信念の持ち主には、そのこと自体は痛くも痒くもない指摘だろう。実際、靖国首相参拝支持派のなかにも、首相が靖国神社で「不戦の誓い」など述べること自体が、ごまかしだという人もいるくらいである。「私たちは、英霊のみなさんと同様、これからも国家のための戦争します。だから安心してください」と呼びかけるのが筋というものだ、と。

    しかし、世の中はこのような靖国の本質を「正しく」理解し、それを確信する人ばかりではない。なんとなく「国のために戦った人を慰霊するのは当然だ」と考えているような人、「A級戦犯を分祀すれば問題ないんじゃないか」と思っているような人も多い。そういう人々にとってこそ、本書は一読に値する。高橋が展開する精緻で誠実な議論の前に、一度は靖国問題を自分の問題としてあらためて考えてみる必要にかられるはずだ。その議論のための素材とフレームワークを提供してくれる本だと思う。


    2005-06-23 (Thu)

    [life] 同窓会

    高校時代の仲間の同窓会、品川のインターシティで。特に出世した人もなく、特に零落した人もなく。

    [book] コロニアリズム

    先の同窓会でもちらりと話題に上っていた四方田犬彦の『われらが<他者>なる韓国』(平凡社ライブラリ)を昨晩読了。パクチョンヒ独裁が倒れた80年代初期に書かれた文章がほとんどだが、その頃の左派に主流の植民地主義への贖罪感、あるいは週刊誌メディアに溢れつつあった大衆文化ブームの浮かれたメガネ(キーセン観光を含む)でその地を見る視点からは離れ、よりリアルに韓国の文化状況を活写しようとする。なかでも韓日にまたがって数奇な生涯をたどった詩人・金素雲へのオマージュがいい。画像の説明

    最後に収められた「人はいかにして在日になるか」という文章は、日本文化の渦中にいながらにして、「わたしこそが日本であると確信し明言しきった瞬間に、足もとの台座をすっともっていかれそうな気がする」四方田の立ち位置を示すものだろう。その不安と緊張こそが、彼の文章を澄み切らせる。そこが少しだけ、関川夏央とは異なる。「在日」とはここでは「在日・日本人」の謂いであるのだ。

    四方田に触発された格好で、あらためて近代日本の植民地主義を勉強しようと思った。いまや、思想界はポストコロニアリズムの時代で、いやそのポスコロさえ遅れているとかいわれている時代にあって、実証主義的な歴史観の立場から書かれたコロニアリズムの実際をあらためて学ぶことは、けっして意義ないことではない。岩波の叢書『近代日本と植民地』を何冊か注文。


    2005-03-15 (Tue)

    [movie] 『大統領の理髪師』@bunkamura ル・シネマ

    13日はSとの定例の映画会。韓国軍事政権下に、朴大統領の理髪師になった男の一家の物語。『殺人の追憶』であらためて注目したソン・ガンホ主演。国家権力へのたくまざる批評精神、したたかな庶民のユーモアなどうまく描かれている。陰惨になる部分をあえてユーモラスに処理する画法は、一種の余裕と取るべきか、それとも娯楽作品にするための必定なのか。Sは「菊」は日帝の象徴だというのだが、それは気づかなかった。

    監督のイム・チャンサンという人はまだ若いんだねぇ。若い人にも歴史意識があり、映画への信頼があり、民衆に寄り添う視点があることが、はっきりみえる映画ではある。(☆☆☆1/2 {☆5つで満点})

    映画を見終わった後、大久保のコリアン・タウンで焼肉して韓流に浸る。韓流グッズの店がいくつかできていて、あらためて驚く。ただ「鐘路本家」という店はあんまり美味くない。

    [movie] 『四人の食卓』DVD

    さらなる韓国映画への興味で、その晩、借りてくる。新感覚サイコホラーという触れ込みで、たしかにホラーなんだけれども、それ以上に、高層マンション群に代表される都市近郊における孤独と不安を形象化した作品とみるべきだろう。その意味では日本の近年のホラー映画と情景や背景は共通する部分が少なくない。そういう現代風景の地のなかに、シャーマン的な土俗的要素をもった人物が紋様として浮き彫りになる、まだらなアジア的近代。高いところから墜落するシーンが3度あり、その墜死への監督のこだわりは何なんだろう。ただ、高層マンションから落ちてくる墜死者と一瞬目があってしまうというエピソードは、どこか別の映画で観たことがあるような。(☆☆☆1/2)

    [book] 「ユリイカ Vol.33-No.13 韓国映画の新時代」

    ルシネマで売っていたので購入。2001年の号で、昨今のいわゆる韓流ブームに乗ったわけではないが、逆に同誌の先見性を感じる特集。外国映画の参入をあえて阻み、自国の映画人を育てるという国の映画政策についても若干の解説。突如として『シュリ』や『JSA』それ以降のヒットがあったわけではなく、それに至る韓国映画の源流や軌跡がある程度たどれるものになっている。

    韓流とはいうが、昨日の韓国KBS放送(NHK-BS放映)では、今年明けてからは日←→韓の観光客が減少気味。竹島(独島)問題や現韓国政権の対日賠償見直し発言などが影響していると報じている。だが、表層的なブームなどは去った方がいい。そういうものとは別に、朝鮮半島へのまっとうな関心は持続してきたのだし、これからも持続すべきなのだから。


    2005-03-09 (Wed)

    [life] 休養日

    8日は勝手に一日完全休養宣言をして、6時半起床。ハードディスクにたまっているリーガの録画を1本消化してから、久方ぶりに小説など読む。昼過ぎに外出して、本郷まで歩き、喫茶店で本を読み続ける。コートを脱がせる温かい日射し。夕方から池袋で映画を観て8時過ぎに帰宅。

    そのままだったら平穏無事な一日だったのだが、映画鑑賞中に電話などあった模様。帰宅後、原稿の一部直しをそそくさと。パブリシティ記事じゃないんだからさ、まったく。とブータレつつ、それを終えてせいせいと就寝。えっ、10時半に寝ちゃったよ。まるで年金生活者の老後の一日ではある。

    [movie] 『ボーン・スプレマシー』@池袋HUMAXシネマズ

    前作『ボーン・アイデンティティ』が面白かったんで、その続編。はぐれ系アクションヒーローもの。記憶喪失、秘密部隊、偶然の女、インド・ゴアからナポリ、ベルリン、モスクワまで至るワールドワイド性、そしてお決まりの激しいカーチェイスなどなどアクションムービーの王道はちゃんと押さえている。

    ただヒットの最大要因はマット・デイモンの抑制の効いた演技と、エージェントたちとの死闘アクションだろう。前作見てないといまいち入り込めないかもしれないけれど、シリーズものってのは本来そうでしょ。前作よりやや劣るがそこそこ楽しめる。で、2作目の興行収入次第では第3作「いよいよボーンの出生の秘密が明らかに!」があるとみた。

    それにしても、EU統合の時代に米CIAがなんでヨーロッパでこんなに暗躍しているのか。しかも、各国警察組織との連繋がなんでこんなにうまくいくのか。それはともあれ、仮想敵を失った国家スパイ組織は、汚職まみれで自壊していくという話。敵は内部にありだわな。(5点満点で☆☆☆)

    [book] 『明日の記憶』『枯葉の中の青い炎』

    共に初めて読む著者の作品。『明日の記憶』(荻原浩)は、若年性アルツハイマーにかかった、50歳の広告代理店部長の話。ほぼ著者自身の年齢でもあり、私の年齢でもある。私自身、昔から物忘れがひどい人だから、まったく他人事ではない。最初は「それってよくあるよねえ」という感じで読み進むが、主人公の病状はだんだん深刻になっていく。

    昨日も散歩に出かけていて、もしもあるとき、その街並みの風景が、一瞬記憶から抜けてしまったらと想像したら、背筋が凍り付くようだった。記憶の死滅こそ、人間の本質的な死なのだ。逆に思い出の豊かさこそ、人間の生きた証なのだという本書のメッセージは、いまさらながら同意。記憶に茫漠としたベールがかかっていくさまや、自我の崩壊へのおそれの心理描写はうまい。ドラマ・映画化にも十分耐えられると思うが、逆にいうと、それだけ通俗性が高いということでもある(誉め言葉じゃないよ)。

    『枯葉の中の青い炎』(辻原登)は、不思議な読後感をもたらす短編集。最初の2編は神秘なラピスラズリの石がつなぐ連作なのかと思ったが、なんかハチャメチャなストーリー展開で、ちょっとついていけなかった。しかしストーリーの破調と物語想像力の渦巻きは、おそらくこの作家の持ち味なのであろう。ザーサイとキンギョがシンクロする「ザーサイの甕」のお話など、けっこう笑える。表題作は、スタルヒン伝説に依拠しながら、もうひとつの伝説(フォークロア)をそれこそ魔法のように紡ぎ出す。南洋の島で民話を採集した中島敦の話は事実だが、そうしたノンフィクションと端からデタラメの虚構を、複雑にからみあわせながら、読者を物語のシャングリラへと誘い込む。…という狙いはよくわかるが、すっかりそこで酩酊してしまわなかった私は、感性が鈍っているのであろうか。

    [life] 偶然

    9日は午後から打合わせで八丁堀へ。帰路、小腹がすいたので、ときおり顔を出す御茶ノ水の立ち食い寿司屋へ寄ろうと途中下車、店の前で夕方の開業にはまだ早いことに気づく。そのとき携帯に電話があって、某誌で急遽、カード・スキミングの話を書くことに。編集者が「柳田邦男のスキミングの本、読んでませんよね」という。『キャッシュカードがあぶない』(文藝春秋)のことか。目の前にたまたま丸善書店あり。なら明日の打合わせまでに読んでおこうと立ち寄ると、平台に『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』なる本。アメリカ文化史は昨年のマイブーム。ふと手にとると高校・大学の先輩、MK教授が編者ではないの。嬉しくなってつい購入。偶然の巡り合わせってほど大げさなものではないにしても、丸の内線車中で小腹が空かなければ、先輩の本を買うのはもっとずっと後になっていたことだろう、というお話。


    2005-02-17 (Thu)

    [book] ポルトガルの世界

    市之瀬敦著『海の見える言葉 ポルトガル語の世界』(現代書館) 『ポルトガルの世界─海洋帝国の夢のゆくえ』(社会評論社)

    本気でポルトガル語を勉強しようというわけではないのだが、旅行予定のポルトガルという<場所>についてのお勉強の一環で読んでいる。

    ポルトガル語は、ポルトガル、ブラジルだけでなく、アフリカの旧植民地、さらに東ティモールの公用語でもある。インドのゴアでも一部話されていたらしい。マカオも旧植民地で、たしかに私の取材経験でもマカオ政府の役人にはポルトガル語を話す人もおり、公的な文書もそれで書かれていたが、街で通用するのは広東語でしかなかった。

    前者の本は、筆者がポルトガル語圏アフリカ文学やクレオール語の専門家だけに、通俗的なポルトガル語論とは視点が異なっており、「カステラの由来」みたいな話を期待すると裏切られる。しかもときおり専門に耽るきらいがあり、必ずしも読みやすいとはいえない。それでも、たとえば東ティモールという新しい国家が独立にあたってどのような言語政策を用いるべきかで、深刻な議論を重ねたという話は興味深い。当時の支配者インドネシアの言葉でも、商用的にグローバルな英語でもなく、現地語と旧宗主国の言葉ポルトガル語を二重公用語として採用せざるを得なかったというのは、近代植民地主義がもたらした一つのアイロニーだろうか。

    それはともあれ「ポルトガルっていまもあるんですか」という人がいるらしいぐらい、歴史の教科書で学ぶ大航海時代と現在のギャップの激しい国ではある。でもユーラシア大陸の端っこに位置していて、海洋に出るしか生き延びる道がなかったからこそ、新大陸をしゃにむに「発見」しなければならなかったのだと言われればさもありなんではある。この大西洋主義と、なおかつヨーロッパに留まろうとする欧州主義が、近代ポルトガルをかたちづくった2つの政治思潮であったと筆者は、後者の本の中で分析している。ポルトガルをサラザールの独裁と古い帝国主義のくびきから解き放った1974年の「4月25日革命」は私もおぼろげながら記憶しているが、しかしはや30年経ち、その革命精神はポルトガル国内でも「歴史化」「形骸化」されてしまっているという指摘もされている。

    熱烈なベンフィカ・ファンでもある筆者(『ポルトガル・サッカー物語』という著書もある)がときおり差し挟む、サッカー論は面白い。前著では「ポルトガル・サッカーA〜Z」という章まで割いている。それによれば、ポルトガル語で書かれたあるサッカーの本には「日本」という項目もあるが、それはサッカーの起源の一つとしての「蹴鞠」について触れた箇所であるという。ほんとかいな。 ちなみにブラジルのサッカー用語には「日本人がいるチーム」を意味する「equipe com japones」という言葉があるらしいが、それは「全選手がまったく同じようなプレーをするチーム」という意味なんだって。市之瀬氏も「かなりの偏見」だと憤慨しているが、でも、そういわれるとまだまだそうかな、という気がしないでもない。


    2005-01-28 (Fri)

    [book] 『ネットと戦争』

    昼をはさんで原宿で取材。夕方、取材のアポ取りとリライト原稿を一本。一段落したので、読みさしの岩波新書、青山南の『ネットと戦争──9.11からのアメリカ文化』を読了。ネットで文学する話。雑学的に面白かった。集英社のすばる文学カフェの連載「ロスト・オン・ザ・ネット」からのピックアップ。ここはブックマークしておこう。

    本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

    _ kyo [青山さんの英語系のエッセイは結構好きです。 訳書の「優雅な生活が最高の復讐である」も面白かったので 今度新書も読んで..]

    _ seih [これ読みました。面白かったですね。アメリカン雑学のジャンルで青山南は昔から薄〜く追っかけてます。ここで紹介しているサ..]


    2005-01-17 (Mon)

    [book] 最近注文した本

    bk1にきょう注文した本リスト。NHKの「週刊ブックレビュー」とか日曜の日経新聞の書評などに刺激されつつ。

    ・『僕の叔父さん網野善彦(集英社新書 0269)』(中沢新一著)・『進化しすぎた脳 中高生と語る〈大脳生理学〉の最前線』(池谷裕二著)・『明日の記憶』(荻原浩著)・『スモールワールド・ネットワーク』(ダンカン・ワッツ著)

    以下は春以降に予定しているポルトガル旅行のモチベーションを高めるための仕掛けのつもり。

    ・『アソーレス、孤独の群島』(杉田淳著) ・『海の見える言葉ポルトガル語の世界』(市之瀬敦著)・『ポルトガルの世界』(同)・『サッカーのエスノグラフィーへ』(同編)・『ポルトガル〈小さな街物語〉』 (丹田 いづみ著)

    [cynicism] 抱擁力

    「高塚ホークスタウン前社長、起訴事実認める」。ホークスタウン名でよかったよなあ。経営再建でこの人を社長に呼んで、ヤバイと思ってすぐにクビにした、経済誌D社。ワシは取引もあるからあんまり悪いこと言えないけど、経済誌としての先見の明がなかったことだけはたしかだね。 この人の著書に『抱擁力-なぜあの人には「初対面のキス」を許すのか』(高塚猛/中谷彰宏著)ってのがあるんだってさ。これは笑える。なぜ許すのかって、そりゃ社長だからいやだといえないんだもの。
    本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

    _ Zephyros [中沢新一も親戚ネタで1冊書くようになったとは。ま,網野さんぐらいだと売れるんでしょうけど。]


    2004-12-27 (Mon)

    [movie] 『殺人の追憶』(☆☆☆☆/最高点☆5つ)

    80年代後半の韓国。軍事独裁と警察署における拷問が日常化していた時期、ソウルという都市をひとつの起点にした近代化の波の外縁部に起きた猟奇殺人。セメント工場の黒ずくめの労働者たち、雨の日のラジオのDJ、韓国版学校の怪談、ソウルからやってきた刑事、アメリカに検体を送るDNA鑑定などの新しい意匠を織り交ぜながら、牧歌的な農村の暗い影のような部分が、よく描かれている。事件の猟奇性を孤立させるのではなく、それを韓国社会の変貌とからめて描いた手法は見事。ときおりディビッド・フィンチャーの『セブン』を彷彿とさせるのは、雨の日のシーンが多いからだろうが、しかし全体のトーンはさほど暗くはない。拷問シーン一つとっても、ユーモラスだ。ただ、俳優たちの笑いが苦悩に変わる瞬間、つまりは観客の哄笑が沈黙に変わる瞬間の、底深い演技力は秀逸だ。

    [movie] 『コーカサスの虜』(☆☆☆)

    原案になったトルストイの同名小説は読んでいないが、舞台は荒涼とした岩山と、イスラムの習俗が残るチェチェンである。しかし、チェチェン紛争の現実をリアルに描いているかというと、どうもそうではないらしい。そもそも、ロシア軍に捉えられた自分の息子と捕虜の交換交渉を、当の息子の親父が直接やるというのは、ちょっとあり得ない想定ではあるが、「報復するな」というテーゼの一つの寓話として観ればいいのだ。しかし、どうせ寓話として描くのなら、もう少し奇想天外性があってもよかった。全体としては凡庸さをぬぐえないが、しかし、映像の美しさ、少女の可愛らしさや兵士の純朴さに免じて、☆☆☆。

    [book] 『農から見た日本 ある農民作家の遺書』

    山下惣一の名は知っていたが、著作を読むのは初めて。農民的な語り口調で、彼が体験した戦後日本の農村の、解体と再生の物語を語っている。

    アメリカの農作物輸出の片棒を担いで急速な農村解体を政策として進めた果てに、安全な食を失い、結局何を食べたらいいのかわからなくなった日本と日本人の哀れさ。この国では「国民に果たす農業の役割ばかりが強調され、国民が農業に何ができるかなど、たったの一度たりとも議論されたことはない」のだ。BSE、産地偽装などの問題が出るたびに、ざまあみろと叫ぶ筆者の気持ちはよくわかる。「日本農業とやらが滅びたって百姓は困りゃあはしません。どんな時代になっても…自分と家族が食べる分だけは作り続けるわけですからな。人さまの分をやめるだけですわい」という開き直りが、彼の舌鋒を鋭くさせる。

    農業は本来循環型の地域完結型産業であって、国際競争や国際貿易あるいは経済構造改革などとはなじまない、とする筆者の立場。この論点は重要だが、もう少し精緻に考える必要はあると思う。


    この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。