勝負に負けたからといって、他国の選手のふるまいや採点方法にグダグダと文句をつけるのを、昔の日本人は「恥」と感じたものだ。「恥じらい」の美徳はどこへ行ったのか。
むろん、私は今回のバンクーバーをテレビで見ながら、雪上・氷上スポーツの美しさを単純に堪能したくちだ。かつて北国の近代戦における兵士の訓練メニューであったバイアスロンさえ、スポーツとしての昇華を経ることでこんなにも美しくなる。
こうした立ち姿の美しさでは、残念ながらモンゴロイドよりは、コーカサス人種に軍配が上がるのである。
どこか北の国からそこに辿り着いて、街に一歩出れば、「陥落街」とも呼べそうな、まったくもって大衆的で怪しげで楽しげな一帯が広がっているわけで、つい彷徨いこんで記憶を失ってしまうのがいつもの悪い癖だ。心が湿っているときは適度な乾燥を、ざわついているときは少しばかりの湿り気を与えてくれる、そんな駅の情景である。我が心の日本百景。その一つに数えたい。
_ kazutana [「大衆的で怪しげで楽しげな一帯」がいいですねぇ。時々降りちゃいます。]
父親が亡くなった。
この2年ほど特別養護老人ホームに入居していたが、先々週老人性肺炎で入院。しばらく小康状態を保っていたものの、本日未明に病状が急変した。
大正10年(1921)、佐賀出身で農業労働者として米国に在住していた両親のもと、シアトル近郊タコマに生まれる。幼少時に帰国。旧制久留米工業専門学校(現・九大工学部)卒。兵役では「北支」戦線に従軍。戦後は化学メーカー工場勤務のサラリーマン。ボイラーなどプラント関連の機械技師だった。享年88歳。
子どもにとっては、あえていうが、「凡庸な」父親だった。厳しくしつけられたり、𠮟咤されたりしたことが一度も記憶にない。かといって、尊敬の念をつねに抱いていた存在でもない。
私は文系の人間だが、その資質や素養の多くは母親譲りで、父親からはその方面での影響は全くといっていいほどない。ただそれでも、いま仕事上で接する技術者という職業への親しみは、父の油にまみれた作業着の記憶から来ているのかもしれない。
凡庸ではあったが、サラリーマンとしてのグチ一つ言うことなく、黙々と一家を支えてくれた、私にとってはかけがえのない父親ではあった。
寿命ではある。いずれこの日の来ることは覚悟していた。とはいうものの、肉親の死を経験するのは実は初めてで、正直うろたえている。
本日早朝からの山梨出張は代役がいないのでやるしかないが、火曜日以降の仕事はすべてキャンセルせざるをえない。少なくとも今週いっぱいは実家にいることになると思う。
というわけで、このブログをご覧になっているお仕事関係の方へ。しばらく忌引きを取らせていただきます。よろしくお願い申し上げます。
亡父の葬儀も無事に終わり、本日東京に戻ってきました。
母の心労が心配でしたが、ひとつ屋根の下で元気に生活していて、突然に逝ってしまったというわけではなく、この1年半ほど父は特養施設に入居していて、いわば「別居」状態だったわけで、さらにボケも進行していて、具合の悪いときには妻や子を認識できないこともあったりして、まあ、そういう距離感が生まれていたのがかえってよかったのか、落ち着いて事に対処することができたようです。
結局、亡くなる瞬間を見守っていたのは母と病院関係者だけでした。モニターの心拍波形が途絶えるのを見ながら、ああ、自分もいずれはこういうふうに死んでいくのかと、母は客観的に思ったそうです。気丈というのか、なんというのか(笑)。
お悔やみのお言葉をいただたみなさまへ、あらためて感謝申し上げます。
_ jajamaru [心からお悔やみ申し上げます。そしてお疲れ様でした。自分の老親を思い、切実な気持で日記を拝読してました。(でもまだあま..]
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ bacci [それでも、スピードスケート女子団体追い抜き戦はスゴ~ク悔しかった。。。隣のイナに「日本に1っこくらい金を取らせてくれ..]
_ ひろぽん [彼女の足がもう2センチ長かったら...>スピードスケート女子団体追い抜き戦]