私の周辺でクチコミで評判が広がっていたので、年末にSとの映画会のお題にした。オフィシャルサイトはこちら 。
韓国・慶尚北道ののどかな農村。老いた農夫は、いまでも牛を使って田んぼを耕している。もう40歳になる老いぼれ牛だ。いまどき、韓国でも耕作牛は珍しいかもしれない。実際、隣家の水田ではトラクターやコンバインが威勢よくエンジン音を鳴らしている。当地でも失われゆく農作業のスタイルなのだ。
老夫婦の表情と会話がいい。老婆は「こんなところに嫁に来るんじゃなかった。厳しい農作業で、もう体はボロボロだよ」とグチを言う。それはまるで老牛の呟きを代弁するかのようでもある。しかし、その奥底には連れ合いへの深い愛情も隠されている。
長年使役した牛がいよいよ余命1年となる。老婆は市場で売ってしまえといい、老爺も一度は売りに往くのだけれど、買い手がつかずというか、処分する決断がつかず、またトボトボとその牛車に乗って村まで帰ってくる。韓国版「ドナドナ」。
その牛がなければ、畑を耕すことができず、一家が暮らしていくこともできなかった。それだけに愛着と信頼がある。そのことは今は都会に出て、年に一度帰省するだけの子供たちにもわかっている。しかし、農夫の牛への思いは格別だ。そうしたたぐいの家畜への感情は、彼らの世代が亡くなれば、おそらく同じ形で蘇ることはないだろう。だからこそ、ドキュメンタリーとして残す価値があった。
農夫は老いぼれ牛の代わりに、子どもをはらんだ若い雌牛を一頭飼い始める。食欲旺盛な若い牛に牛舎を占領されて、恨めしそうにそれを見やる老牛の表情がいい。むろん人間の側の感情移入があるからそう見えるのだが、その瞳はまさに“老愁”を帯びている。こぼれ落ちる涙まで、カメラはしっかりと捉えている。
やがて老牛は農夫に看取られながら寿命を全うする。春めいた季節に老夫婦が丘に登り、牛の墓参をする冒頭のシーンがあらためて思い出される。奇跡のように美しい、人と家畜の関係だ。
銀座のシネパトスで見終わった後、思わず拍手してしまった。人であれ牛であれ、ともにやってくる老い。老いるという過程のなかに、どんな幸せの形を見いだすべきなのか。それを私は映像のなかに求めていたのかもしれない。
2009年に見たドキュメンタリー(そんなには観ていないけど)の中では、ベストワン。50歳以上の夫婦割引でぜひどうぞ。
酔っぱらってしまって、誰とどこで話したのかわからなくなってしまったのだけれど、福山雅治主演の坂本龍馬の時代劇は、見る前に萎えるという話。いや、ちゃんと批評するためには見なければならんのだけれど、そもそもワシは坂本龍馬に感情移入できない。そもそも福山の芝居は素人に毛が生えた程度じゃん。さらに、NHKが年末、異常なまでの番宣体制を敷いていたので、よけいメゲたです。
日清戦争まではよかったけど、後がダメでしたみたいな、ご都合主義史観の司馬遼太郎ドラマも、もういい加減にしてもらいたい。
そうか、だからNHKの受信料払いたくないのよというバーのマダムとの会話だったか。でも、それとこれとは話が別でしょうと、まるでNHK受信料集金人のように、「NHKは市民が支えるメディアなのだ」などと説得バトルの私だったのだなと、いま思い出した。
_ ga [坂本龍馬に感情移入できない人って、肩身狭いよね。 私は、司馬遼太郎が駄目で、当然龍馬も駄目です。 よかった、そう..]
ぷらぷらと千川通り、植物園あたりをお散歩していたら、迷い込んだ白山の住宅地で、「金井直詩料館」という小さな表札を掲げた民家をみつけた。
金井直(かない・ちょく)は1957年にH氏賞をとり、50〜70年代に活動した詩人のようだが、私の記憶にはほとんどなかった。おそらくこの街に何らかの縁があって、ここはその業績を残している施設なのだろう。あいにくその日は詩料館は休みで中に入ることはできなかったが、窓越しに詩篇の一部が読める。
「夏の焦げる匂い」のなかで、詩人は言いようのない「かなしみ」を抱えている。何が悲しいというのだろうか。
おいらは、よく晴れた冬の日の、午後の光線が去りゆくなかを歩いていく。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ Y氏 [そば屋出前?(笑)]