今回の旅程にシアトルを組み込んだのは、本場のベースボースの試合を観たいということもあったが、それ以上に、ここは我が父祖の地でもあるからだ。
私の父方の祖父は九州・佐賀の農家の生まれで、大正年間に米国西海岸に出稼ぎ移民として移住した。たどりついたのは、シアトル周辺、厳密にいうとシアトル南方のタコマ市だった。ここは日系移民がとりわけ多かった地域。そこで最初はクリーニング屋などを営みながら、その後は農園を経営していたという。我が父はその次男坊としてシアトルで生まれた。
「神戸港に着いた日は雪が降っていた。兄弟らは驚喜して、" Oh, snow, snow! " と英語で叫んだ」
幼いときから何度も聞かされていた父の日本帰国時の思い出だ。祖父母の米国移住への決意がどの程度だったか知らないが、子供たちの教育は日本で受けさせたいと、昭和に入ると3人の兄弟を一斉に船で帰国させた。その後、日米戦争の暗雲が漂い始めると、祖父母もまた日本に戻ることになる。もし一家が米国に骨を埋めるべく当地に残っていれば、日米開戦とともに強制収容所へ収監され、兵役年齢に達していた息子らは日系米軍兵士として最前線に送られたかもしれない。
もちろんそうなれば、私はいまのようなカタチではこの世には生まれていない。そして現実には、父は米軍兵士としてでなく、日本帝国陸軍兵士として大陸に渡ることになるのだが。
「父ちゃんはシアトル生まれ」
というのは、だから、私が幼少の頃から聞いていたわが家の来歴の重要なエピソードであり、その響きには少しばかりハイカラな雰囲気があって、友だちによく自慢したものだ。
ただ、それ以上の詳しい事情を私は詮索することはなかった。わざわざタコマまで足を伸ばし、父と祖父母の足跡をたどるというまでの気持ちもなかった。けれども、シアトルという街を一度は訪れてみたいという思いの底には、そうした父の記憶が多少とも影響していたことはたしかなのだ。
シアトルのパイク・プレイス・マーケットには、客との商談が成立すると、威勢のいい掛け声とともに魚をレジのほうにぽーんと投げ渡すパフォーマンスで知られる魚屋がある。その店のそばの、マーケットの天井部分に一幅の切り絵が展示されている。
シアトル在住の画家・曽我部あき氏によるもので、第2次世界大戦前のシアトル周辺の日系人の生活ぶりを描いたものだ。かつてはこのマーケットにも日系人農家がつくった野菜が並べられていたのだという。祖父母のつくった苺も、もしかしたらそこにあったのかもしれない。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
海辺のレストランでhalibutのムニエルを食べた後、halibutってどんな魚かなと、近くの市場に行ったことを思い出しました。パイク・プレイスだったかどうか記憶が定かではないですが・・・
オヒョウですか。パイク・プレイスにもレストランはあるけど、私たちはその先の、やはり港に面した店でランチを摂りました。エビやイカやムール貝、それにトウモロコシやジャガイモなどを蒸したものを、テーブルクロスにざっと開けてむしゃぶりつくという、なんとも剛胆な料理でした。