8/31から出かけていた、シアトル、バンクーバーの旅から昨日戻ってきた。バンクーバーに到着後すぐに長距離バスで国境を超え、シアトルに移動。ベイエリアを歩き、マリナーズ・イチローのゲームを観たりした後、高速船でバンクーバー島のヴィクトリアへ上陸、カナダへ再入国。
バンクーバー島では、ダンカン、シュメイナス(Chemanus)、ナナイモと車で北上。ナナイモからは水上飛行機でジョージア海峡をひとっ飛びし、バンクーバー市へと入り、そこから帰国という一週間の旅路。
さまざまな乗物、本場のボールゲーム、都市の明暗、米大陸太平洋岸最大の島といわれるバンクーバー島の自然、アメリカンなファーストフード、TM大同窓生たちとの交流、そして日系移住者のカナダでの暮らしぶりに触れる旅。ふつうのパッケージツアーや個人旅行ではなかなか得られないものばかり。いやあ、面白かった。
カメラはおニューの「オリンパス・ペン E-P1」を携えて。随時、フォトレポートなどしていきたいが、とりあえず帰国のご報告。
8/31昼バンクーバー空港到着。空港出口にバスターミナル。日本から予約していた QuickShuttle社のシアトル行き長距離バスに乗車。ハイウェイを1時間ほど走ると、もう米国との国境だ。
乗客は全員いったんバスを降り、パスポート・コントロールを通る。日本人の場合は査証免除協定があるものの、陸路越境時には6ドルが徴収されるということを知らずに、慌てる。入国申告書類もバス内で渡されたのとは違って、検問所内に備え付けのグリーンの紙に書き直すよういわれる。
手数料を徴収されたのは我々2名だけだったので、最初は同行のST君と「6ドルって微妙だよなあ、あいつらのランチ代に化けちゃうんじゃねえか」などとブツブツ文句を言っておった。
シアトルのホテルはダウンタウンの北にある Best Western Executive。 QuickShuttle のバス停の目の前だという理由で選んだ。そこから徒歩10分ほどのところに、シアトルのランドマークタワー Space Needle がある。
午後6時を回っているがまだ陽は高い。気温は20℃ぐらいか。さわやかな秋晴れである。荷を解くなり早速歩き始めるが、出発前2週間ばかりの慌ただしさにかまけ、ガイドブックをちゃんと読んでなかったので、以下の旅路は、ほとんどがカナダ留学経験があり、シアトル再訪のST君のお導きである。
シアトルは「レンガ造りの建物のすぐ向こうに近代技術の粋を集めた高層ビルが建ち」と、ガイドブックに書いてある。1889年に大火でいったん壊滅したため、本格的な市域開発は100年ほどの歴史しかないが、その1世紀分が重層的に保存され、調和しているのが街の魅力だ。火災後は下水処理の問題もあって、道路をいちだん高くして街を再建した。今は古い1階部分、現在は地下となっている空間をめぐるアンダーグラウンドツアーもあるという。
ST君はそれに参加したかったようだが……。シアトルが初めての私は「地下を見てもねえ」と地上を歩くことを主張し、結局それにつき合ってもらうことになった。[以下、セーフコスタジアム編などへつづく]今回の旅程にシアトルを組み込んだのは、本場のベースボースの試合を観たいということもあったが、それ以上に、ここは我が父祖の地でもあるからだ。
私の父方の祖父は九州・佐賀の農家の生まれで、大正年間に米国西海岸に出稼ぎ移民として移住した。たどりついたのは、シアトル周辺、厳密にいうとシアトル南方のタコマ市だった。ここは日系移民がとりわけ多かった地域。そこで最初はクリーニング屋などを営みながら、その後は農園を経営していたという。我が父はその次男坊としてシアトルで生まれた。
「神戸港に着いた日は雪が降っていた。兄弟らは驚喜して、" Oh, snow, snow! " と英語で叫んだ」
幼いときから何度も聞かされていた父の日本帰国時の思い出だ。祖父母の米国移住への決意がどの程度だったか知らないが、子供たちの教育は日本で受けさせたいと、昭和に入ると3人の兄弟を一斉に船で帰国させた。その後、日米戦争の暗雲が漂い始めると、祖父母もまた日本に戻ることになる。もし一家が米国に骨を埋めるべく当地に残っていれば、日米開戦とともに強制収容所へ収監され、兵役年齢に達していた息子らは日系米軍兵士として最前線に送られたかもしれない。
もちろんそうなれば、私はいまのようなカタチではこの世には生まれていない。そして現実には、父は米軍兵士としてでなく、日本帝国陸軍兵士として大陸に渡ることになるのだが。
「父ちゃんはシアトル生まれ」
というのは、だから、私が幼少の頃から聞いていたわが家の来歴の重要なエピソードであり、その響きには少しばかりハイカラな雰囲気があって、友だちによく自慢したものだ。
ただ、それ以上の詳しい事情を私は詮索することはなかった。わざわざタコマまで足を伸ばし、父と祖父母の足跡をたどるというまでの気持ちもなかった。けれども、シアトルという街を一度は訪れてみたいという思いの底には、そうした父の記憶が多少とも影響していたことはたしかなのだ。
シアトルのパイク・プレイス・マーケットには、客との商談が成立すると、威勢のいい掛け声とともに魚をレジのほうにぽーんと投げ渡すパフォーマンスで知られる魚屋がある。その店のそばの、マーケットの天井部分に一幅の切り絵が展示されている。
シアトル在住の画家・曽我部あき氏によるもので、第2次世界大戦前のシアトル周辺の日系人の生活ぶりを描いたものだ。かつてはこのマーケットにも日系人農家がつくった野菜が並べられていたのだという。祖父母のつくった苺も、もしかしたらそこにあったのかもしれない。
シアトル2日目(9/1)はセーフコ・フィールドで地元マリナーズ対LAエンジェルスの野球観戦である。
昼間、ベイエリアや、シアトル発祥の地といわれるパイオニアスクエアあたりをぷらぷらした後、結局、徒歩で球場に向かった。ふつうはバスを使うのだろうが、球場はダウンタウンの中心部からそう離れてはいない。結局、試合後もホテルまで30分ほど歩いて帰ってきた。
セーフコフィールドの手前に、アメフト・チーム「シアトル・シーホークス」の本拠地クウェスト・フィールドがある。球場の外郭にユーモラスな表情の巨大なオブジェが並んでいたので、パシャリ。こういう遊び心は、アメリカならではだ。
クウェスト・フィールドの隣が、セーフコ・フィールドだ。巨大な垂れ幕からみてもわかるように、イチローはチーム随一の人気者である。
17:30の開場まで時間があったので、正門が見えるバーで軽くビールなどを。平日の夕方だが、けっこう人がいる。そろそろ時間だと席を立とうとして、愛想のよいウエイトレスに「Check, please!」とお願いするのだが、なかなか伝票を持ってきてくれない。その替わりなぜか「鶏の照り焼き」のような料理を持ってくる。check が chicken に化けた一幕である。
文句を言ったらシナを作って困ったふうな顔をするので、「いいよ、テイクアウトするから」と言ってしまった。「これ、もしかして間違ったフリじゃねえか」とST君とあとあと疑心暗鬼になるのであるが……。
ともあれ、気分を直して正門とは反対側の Will Call の窓口へ。Will Call は「チケット会場ピックアップ」のこと。日本からTicket MasterのWebサイトで予約していたチケットをここで受け取るのだ。メールで受け取った注文票とクレジットカードを提示すればよい。パスポートが必要という情報もあったが、今回は不要だった。
ticketmaster.com では座席ブロックを指定できるので、イチローがよく見えるようにと、ライト側の低い席を指定していた。チケット代金は手数料込みで2人分96.74US$。東京ドームの同じ位置の席とほぼ同じぐらい料金だと思われる。
ただ、こちらはフィールドと観客席の位置が圧倒的に近い。一体感がある。これには驚いた。手を伸ばせばゴロも拾えそうだ。実際、選手のファールフライをキャッチしようと、大人も子どももグラブ持参の人が多い。
この日の午後は曇り空、ときおり雨がぱらつく悪天候だったが、試合開始が近づくと雨は止み、雲もしだいに晴れてきた。球場を覆う巨大な天蓋がゆっくりと動きだし、うっすらとあかね色の空がフィールドの上に広がってきた。日本でのテレビ中継でもおなじみの「ボッー」という警笛の音(港への引き込み線を通る貨物鉄道が鳴らしているようだ)も聞こえてきた。
招待客を招いての始球式やら、客に内野ベースを走らせるゲームやら、プレイボール前の雰囲気を盛り上げる工夫が上手い。私は、イチローファンというわけでもなく、ましてやマリナーズファンというわけでも実はないのだが、それでも次第に気分が盛り上がってきた。この日は、イチローの試合出場が怪我で危ぶまれていた。実際、試合開始前の練習には彼は登場していなかったように思う。ところが、スタメンのアナウンスで「イチロー!」のコールがあるではないか。よくよくみれば、51番の背番号が見える。9日ぶりのスタメン復帰である。「これで、なんとか元が取れましたね」とST君。
イチローはこの日もシュアなバッティングを見せて、2安打。ただ、プレイの様子はきわめて淡々としたもの。まるでトヨタ生産方式のような、ムリ・ムラ・ムダを省いたシンプルな動き。このあたりが大リーグで長持ちする秘訣なんだろうな。
試合は継投をうまくつなげた投手戦。シアトルが最小得点差で勝利。ホームラン・シーンはなかったが、ホームゲームを手堅く納めて、ファンは満足そうだった。日本のようなカネ、タイコの派手な応援はないが(私はこれが嫌いだ)、たんたんと楽しむ風情がいい。何はともあれ、アメリカの大衆文化の成熟した一面に触れた一日だった。
散歩、飲み、映画、読書に明け暮れた。
小熊英二『1968』上巻を終え、下巻を200ページほど進む。面白い。
膨大な資料を見事なまでに整理した(けっして内容がないというわけではない)本で、あの時代を生き生きと再現する。1968年を知らない、生まれてもいなかったような人が、もし何らかの関心であの時代の若者の運動の実態を知ろうとするなら、入門書としても使えるだろう。入門書にしてはあまりにも高価で、分厚いけれども。
引用された資料のなかにはいくつか知人のものも含まれる。なかでも、AM氏の引用が下巻になると増えてくる。
私は70年の高校入学で、そこでのドンパチ以降、まあそういう圏域で呼吸していた時代が10年近くあったから、かつての自分(の一部)と向き合わされる思いがする。それは必ずしも甘美な感覚とはいえない。その頃と比べて知的好奇心では衰えたとは思わないが、知的誠実さ、関心と行動の一致という意味ではどうだろう。
若気の至りに赤面する前に、老醜をさらけだしつつある自分に恥じ入りたくなる。
全部読み終えてから、あらためて感想を述べたい。
映画は渋谷のユーロスペースで『台湾人生』をSと。DVDは原田眞人監督の『クライマーズ・ハイ』がよかった。それにつられて、後れ馳せながら横山秀夫の原作小説も読む。映画は原作との異同が少々あるものの、基本は原作に忠実で、小説の臨場感を巧みに写し取っている。
小説については、かつて友人の一人が「ドキュメンタリータッチの新聞記者小説と見るか、家族愛をからめたビジネス小説と見るか」と言っていたが、その両方を満たす傑作。ただ、今のところこれが作者の最高作というのが世評だろうか。
ふと、あの日航機に乗務して亡くなったスチュワーデス(当時はフライト・アテンダントなどという言い方はしなかった)の一人と、生前、一緒に飲んだことがあることを思い出した。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ キース [お、また洋行ですか。 羨ましい。 私もそろそろセミリタイヤを目指しているんですが、 これが、なかなか、ねぇ。。..]
_ NOZOMI [今度は美男子も撮影してきてくださいましたか? また「美女ばかり紀行」だったりして・・・・ マリナーズの試合、..]