友人ETお薦めの『チェイサー』はたしかに力作。猟奇殺人を扱った映画は無数にあるが、この十数年ではベスト10に入るかも。ワタシ的にはベストワンはデヴィッド・フィンチャーの『セブン』かな。古いのでは当然ヒッチコックなどが挙がるけれど。(DVD/★★★★☆)
未明の眠りも、短い昼寝もいずれも浅かった。浅い眠りでは夢をよくみる。夢をみるから浅いのかもしれないが。
未明には、小学校時代の同級生の女の子「ヒロコちゃん」を追いかけていた。彼女はよく私の夢に登場する。同じ社宅住まいで、幼稚園も一緒で、小一のときは二人とも「鍵当番」というのに任命されて、朝いちばんで手をつないで登校した。ま、幼友達だったのだけれど、中学に入るときに東京に転校して行ってしまった。いまごろどうしているんだろう。
昼の夢の画題は、ゴルフ場での醜態。コースに出るつもりがないのにゴルフ場までついてきて、でもコンペかなんかに参加せざるを得なくて、ウェアとかクラブとかボールを慌てて探すはめになる話。そこには、私のゴルフに対するコンプレックスが凝縮されている。うん、意外とわかりやすいな。
テレビ録画の映画鑑賞。粛々と消化中。WoWoWやNHK-BSではときおり見逃していた名画に出会えるので、録画は止められない。ただ日記に記録しておかないと何を観たのか、すぐ忘れてしまう(笑)。
■ビレ・アウグスト監督『マンデラの名もなき看守』(2008年フランス/ドイツ/ベルギー/南アフリカ)
27年間獄中にあったネルソン・マンデラに、長く看守として接触することで、ヒューマンな意味で触発される男の話。あらすじを聞くだけで予期できる全体のストーリー、その意味ではベタな社会派ドラマなのだが、役者のクオリティが高いので十分見応えがある。
南アのアパルトヘイトというのは知っているようで知らないわけで、その一端が描写されており、啓発的価値は高い。アフリカ民族会議(ANC)の綱領的文書が南ア政府の手によって発禁扱いとされ、公安警察の許可がなければ閲覧できなかったというのは初めて知った。
それまで微温的だった刑務所の処遇をより厳格に運用すべく着任した新任刑務所長の演説内容は、とても近代社会とは思えないほどの、あらわな人種差別のオンパレードだ。しかも彼は「おまえら看守は、軍人にも警官にもなれなかったハンパものだ」といい、差別の下層転化、つまり虐げられたものがより下層の人を抑圧することで、立身を図るプロセスを助長しようとする。
これはアパルトヘイトの実態と、マンデラの気高き精神性だけでなく、いつの世にもある下層官僚の鬱屈をとらえた映画ともいえる。
マンデラが最後に移送された刑務所は、刑務所というよりは文字通りの別荘みたいな快適なところで、懲役ではなく幽閉ともいうべき状態だったようだ。これもまたアパルトヘイトへの国際的圧力の成果なのだろう。
しかしそれを喚起したのは、ANCの長期にわたる、殺人・爆破を含む反アパルトヘイト闘争だ。「数々の請願は無視された。我々はもはや暴力で立ち向かうしかない」とマンデラは言うのだが、反人種差別の闘いにおいて、テロリズムはどのように許容されるのか、という点についても、もう少し突っ込んだ解釈があってもよかったと思う。
看守の妻役のダイアン・クルーガーは相変わらず美しい。アパルトヘイトは神様の思し召しと信じ、夫の立身出世だけを願っていた凡庸な妻さえも、夫を通してマンデラの声を聞き、しだいに感化されていく。この人、芝居うまくなったね。(WoWoW/★★★★☆)
■ポール・ハギス監督『告発のとき』(2008年アメリカ)
原題の「In the Valley of Elah(エラの谷にて)」は旧約聖書にあるゴリアテとダビデが戦った谷のことだという。キリスト教圏ではピンと来る題名なのだろうが、日本人には馴染みが薄い。だからといって、この邦題はなんとかならなかったものか。私なぞどこかで観た映画だとばかり思って、すっかり見逃していたもの。
軍隊内犯罪をミステリー仕立てで解き明かす映画ってのは意外と多く、一つのジャンルをなすほどだ。古くはピーター・オトゥール主演の名作『将軍たちの夜』、この15年ぐらいの間にもジョン・トラボルタの『将軍の娘/エリザベス・キャンベル』とか、トム・クルーズの『ア・フュー・グッドメン』など、印象に残る映画がいくつかある。日本では自衛隊内の椿事は映画化されない/できないけれど、向こうでは軍隊内人間模様といえば、格好の映画の題材なのだ。
しかも先のテキサス州フォートフット陸軍基地での乱射事件のように、大統領の外交日程を左右させるほどの驚くべき事件が起こる国柄だから、こうした映画もまたリアリティをもつのだろう。
ミステリーとしての仕立ては60点ぐらいで、そんなには面白くない。そもそも、これはミステリー・サスペンスとして観る映画じゃないだろう。イラク戦争に対する疑問を、ストレートにぶつけた反戦映画。そうみれば、かなりの秀作である。
一人のイラク帰還兵が基地のそばで無惨に切り刻まれ、焼き殺される。当初は麻薬取引にからむ犯罪と目されるが、父と現地警察の女性刑事が執拗に調べるうちに、その真実が明らかになる。
息子とその戦友たち、真面目で礼儀正しい青年らの顔からは想像もつかない、精神の荒廃がやがて浮かび上がる。戦地で「犬を殺す」ように現地住民を殺戮した記憶は、そのまま帰還後も引き継がれ、ちょっとした喧嘩でも、虫けらを殺すようにナイフをふるうことになってしまった。「共に砲弾の下をくぐり抜けた戦友たちは、けっしてウソをつかない」という、父のベトナム戦争時代の経験と確信は、ものの見事に裏切られる。
戦地からの息子の訴えを paternal (父性的)な態度で聞き流してしまった父。かつてアメリカの正義を素直に信じることができた patriotic な父の戦争と、大義を失った息子の戦争。二つの星条旗掲揚のシーンの対比。最初の星条旗は父のプライドの象徴だが、ラストの星条旗はその失墜を意味する。あまりにもわかりやすいところが、あえて言えば映画の難点。それにしてもあまたある「アメリカの戦争」映画で逆さまの星条旗というのはおそらく前代未聞。アメリカでの興行成績は最悪だったというが、それもそのはずだ。トミー・リー・ジョーンズは覚悟の出演だったに違いない。
息子の携帯電話に残された動画が謎解きの重要な手掛かりになるのだが、その映像を入手する過程がいかにもご都合主義的なところを除けば、もう少し高得点をつけたいところだ。(WoWoW/★★★1/2☆)
最近日がな一日、テレビ映画しか観ていないような感じですが……そんなことはないんだけどね。
『自由へのトンネル』(劇場未公開/イタリア/ハンガリー/イギリス合作/WoWoW/★★★☆☆)
1961年、西ベルリンに住むイタリアからの留学生らが、壁のため西側に戻れなくなった同級生らを救うべく、東西ベルリンを結ぶ地下トンネルを掘ったという実話に基づく。そのトンネルの模型のようなものを、かつて壁があった時代に訪れたベルリンの壁博物館で見たような記憶がある。
日本語吹き替えが興ざめだったが、まあ、並み程度のスリルとサスペンスはある。第三国のパスポートをもつ人の往来が結構自由だったり、大型トラックを東側に運び入れることができたり、当初は警備の抜け穴というものはあったのだな。
以前観た『トンネル』(2001年)のほうが人物描写、撮影、ドラマとしての重厚感はいずれも上回る。壁崩壊20周年ということで、お蔵入りしていたフィルムを復活させたという感じ。
『アメリカを売った男』(2008年日本公開/アメリカ/WoWoW/★★★☆☆)
20年以上にわたってアメリカの国家機密をソ連やロシアに売り渡していた実在のFBI捜査官のスパイ事件を映画化。原題の Breach は「背任」というぐらいの意味か。渋面のクリス・クーパーはスパイ・サスペンスには必須の脇役だが、今回は主演。ライアン・フィリップはナイーブな訓練捜査官、ローラ・リニーは仕事と結婚したような独身女性エージェント役で、それぞれが芸風のツボにはまった演技をしていて、そういう意味では最適の配役、かつそれゆえ無難な映画。
最初は曖昧な理由しか告げられないまま上司の背任捜査を命じられる若い訓練捜査官が、上司の奇矯ではあるけれど魅力的な人柄にしだいに惹かれていく過程はよく描かれている。ただ、ラストのエレベーターで出会うシーンはなくもなが、だろう。
スパイの動機は、金以上に、一種の名誉欲、ひそやかな自己顕示欲だったのだろうか。ふと、佐々木譲の『警官の血』(下巻)のストーリーと対比したくなる。
昨夜は「メディアスクラム」とはこういうものかと、あらためて実感。
駅のホームでカメラを掲げて突進するフォワード。他社のタックルを果敢に引きはがす。怒号は警察官のものか。女性の悲鳴さえ聞こえる。何が彼らをそこまでさせるのか。浅野健一氏によればこういうのは「メディアフレンジー」と呼ぶのが正しいそうではあるが……。
一方、テレビ中継画面の後ろでVサインではしゃぐガキどもも、あれは宮崎勤事件のころからだろうか、常態化してきた。行徳署前なぞ、ジャージはおって、サンダルつっかけてきたような近所の連中がわらわらと。まあ、容疑者が新幹線と車で、どんどんこちらに向かっているのをテレビで全国中継されれば、「いっちょ見てくっか」「テレビにでも映ってくるか」ってことにもなるんだろうが……。
事件に熱狂する人々と、それを深夜のテレビで見ている私も含めて、群衆心理というものがある。羞恥という感覚が一瞬消えるとき。
昨日、近所をぐるぐる散歩しながら津野 海太郎著 『したくないことはしない──植草甚一の青春』(新潮社)を読了。
J・J氏こと植草甚一について私は決して熱心な読者ではなかったが、70年代サブカルチャーのカリスマの一人だったことはよく覚えている。
ただ、個人的にいろんな意味で切羽詰まっていた学生時代のこと、「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」などという心とおカネの余裕はなく、彼の散文をちらちらと読むことはあったものの、植草ワールドに深く浸ったという経験がない。一昨年、世田谷文学館で回顧展が開かれていたことも知っていたが、見逃してしまった。それでも、あの爺さん、どういう人だったんだろう。なんであんな変な人があの時代に脚光を集めたのだろう、という関心は持続していた。
本書は70年代の若者からカリスマ的な人気を集めた植草甚一を世に送り出した一人である、晶文社の名編集者・津野海太郎による評伝だ。
津野は植草と時代を伴走した人なのだが、評伝を書くにあたっては個人的な回想は極力控え、絶妙の距離感を維持しながら、ときには自問自答を繰り返しつつ、ゆっくりとその人物像に迫っていく。津野の軽やかな文体には、もしかすると植草の影響があるのだろうか。その味わいも本書の特色の一つとなっている。惜しむらくは、この本が経営危機の最中にある晶文社から出ずに、新潮社から出ざるをえなかったことだ。
描かれるのは、日本橋の没落した木綿問屋の道楽息子だった植草が、大正期モダニズムや、左傾化と同義でもあったアバンギャルド芸術の風を浴びながら、大震災と戦争をくぐりぬけ、戦後の鬱屈した中年期を経て、そして70年代、突然のように脚光を浴びるまでの時代だ。
江戸川乱歩をも驚愕させた海外ミステリーに関する博覧強記、ミステリーにとどまらない膨大な海外小説や映画あるいはモダンジャズについての知識、しかもそれらを決して体系的にまとめることはなく、雑学のコラージュのように展開する手法はなぜ生まれたのか。
津野は、たんに植草個人や植草家に関する調査にとどまらず、彼がその周辺にいて、建築、演劇、映画、文学などの分野でさまざまな影響を受けた人物──たとえば村山知義、今和次郎、飯島正、徳永康元、淀川長治らとの知的交流の様子を、都市モダニズム文化の青春群像として描き出す。キーワードは、植草が抱えもっていたのではないかと推測される、山の手文化や帝大アカデミズムに対する、ある種のコンプレックスだ。
植草の本業ともいえる、映画、ジャズ、海外小説批評とて、けっしてその専門集団のなかでは主流とはいえなかった。それは植草の独自性でもあるが、同時に彼の鬱屈の原因でもあったと、津野は分析する。
しかし、永遠の非主流派であった植草の教養が、時代と交差する一瞬が70年代に訪れる。最後の大爆発をする老星の光芒が、都市化と大衆消費文化の70年代に火の粉のように降りかかる。高度成長期の日本で、遊歩する都市の楽しみを見失いつつあった当時の若者によって、植草は「見いだされた」。たまたまその時代は、これまでメインカルチャーの影に隠れていた、映画、ジャズ、ミステリー、街歩き、ショッピングなどのサブカルチャーが、あらためて発見された時期でもあった。いわば、植草は変わらないけれど、時代が変わったのだ。津野によれば突然に当てられたスポットライトのなかで、植草は永年のコンプレックスから解き放たれ、悠々と一人「老年の祭り」を演じていたのではないかというのだ。
都市の「散歩者」としての永井荷風や、同じ日本橋の没落商家の息子としての谷崎潤一郎との文化史的な比較も面白い。そうすることで、本書は植草の時代性ないしは反時代性を浮き彫りにすることに成功している。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ Y氏 [「日記は別人格」というのが興ざめだったが、まあ、並み程度の文章と構成力はある (^^)]
_ kusa [うまい!]