まだ風があったからよかったようなものの、今日の東京は、陽射しのきつい夏みたいな一日だった。午後に赤坂あたりへ出没。TBS会館だったあたりがすっかり変わって、オフィスビルになっていた。「赤坂Bizタワー」というのだそうだ。オフィス棟にはアサツーDKとかが入っている。1F、B1にこじゃれたショップや飲食店が集積。TOP'Sのカレーで遅い昼食。なかなか美味。
G8サミットということで、環境本が書店の書棚を賑わしている。「地球温暖化対策はこれからの人類のモラル」みたいな言い方をされると、ついモラルの根拠を問いたくなるのは私だけではあるまい。そういう懐疑意識はいくつもの「地球温暖化懐疑本」を生み出している。日本における議論が簡便にまとまっていると思われたので『暴走する「地球温暖化」論 』(池田清彦ら/新潮社)を購入。パラパラとめくる。科学的実証の問題以上に、「科学的実証がない」という論者らの論法に興味。
もちろん、こうした懐疑論に対する反批判本も出ている。この後は、『環境危機はつくり話か──ダイオキシン・環境ホルモン、温暖化の真実』あたりを読んでみようか。
今週号の「週刊東洋経済」も「経済で読む「温暖化」の真相・地球はホントに危ないか」を特集。温暖化懐疑論というわけではないが、排出権取引などを中心にその実現可能性に疑義をはさむ内容。これもまだパラパラめくっただけだけれど……。
キューバの亡命作家、レイナルド・アレナスの自伝をジュリアン・シュナーベル監督が映画化。ハビエル・バルデムが好演、ジョニー・デップが怪演。革命と反革命、独裁と自由がテーマ。
なぜ、社会主義独裁は、同性愛者を差別し弾圧するのか。むろん、ふつうの資本主義下における市民社会においても、偏見から解き放たれているわけではないし、キリスト教やファシズムの同性愛差別はもっと残酷なものだったが……。いずれにしても、それは社会の生産性にとって同性愛はマイナスであると認定するからであろう。生産力主義の誤謬。
同じジュリアン・シュナーベル監督作品。
レイナルド・アレナスの自由と表現を封じたのが、社会主義独裁の牢獄だとすれば、本作の主人公ジャン・ドミニクのそれを奪うのは、片方の目のまばたき以外に、全く動くことのない植物人間としての肉体だ。その牢獄をここでは「潜水服」に象徴させている。
それでも主人公は自分の意思を、介護者らによるアルファベットの口述をまばたきの回数で指定することで、伝え、単語を綴り、一冊の書物として残すことができた。本人の意志の勝利であると同時に、介護という営みの最も優れた成果でもある。
病棟で意識の戻った主人公の瞳にぼんやりとさし込む光と、その瞬間に縫いつけられる片方のまぶた。それを瞳の主の側から描く映像。ルイス・ブニュエルほどにはシュールでもシンボリックでもないが、それと同じぐらい残酷で、かつ美しい。
映画の美しさは、ジャン・ドミニクの瞳に映る人々、たとえば言語療法士役のマリ=ジョゼ・クローズ(『ミュンヘン』にで素っ裸で殺される女暗殺者の役)のような美女たちによっても醸し出される。こんな誠実で優しい美女たちに囲まれながら死期を迎えることができたのだから、この男は幸せ者といえるのかもしれない。
死期をさとった男の最期。残される家族や、友人、愛人との交流。それだけ取れば、『潜水服〜』と設定は似ていなくもない難病モノ映画であるが、こちらはなんせ原作が秋元康だしなあ。期待していたわけではないが、その通り、あんまりでした。
役所広司の演技は並みのデキだったとしても、今井美樹は完全なミスキャストだろう。その演技に途中ずっとハラハラしていたが、最後にやっぱりぶち壊しだった。とりわけ、病床を訪れる妻と愛人の描き方は、ありえねぇ。涙が流れないわけではないが、せいぜい1.5ミリリットル。
屈託を抱えた素人が、何事かの訓練を重ねて、最後には人生のハレ舞台に立つという、カタルシス映画。『Shall we dance?』とか『ウォーターボーイズ』などの系譜に連なるものだが、二つ目落語家の生活ぶりを丹念に描いていて、それなりに面白かった。
国分太一の劇中の落語は、最後まで下手だとは思うけれど(笑)。むしろ伊東四朗の話芸のうまさが引き立つ。若手の落語をガチンコで聞いてみたくなる。
NHKBShiで昨夜再放送された『シリーズ新的中国人 芸人 毛沢東に似た男』というのがメチャ面白かった。
毛沢東と背丈と額のハゲ具合が似ていて、演説をそっくりの口調でモノマネする芸人が、中国にいる。書もよくし、毛沢東の書体を伝統保存する「毛書体研究所」なる組織の長を名乗っている。あるとき、彼は紅軍の長征の跡をたどりながら、毛沢東由来の観光地で、パフォーマンスを演じる旅に出る。それに同行した中国人若手ドキュメンタリストの作品だ。
芸人は、自分は毛沢東崇拝主義者であって、その思想を人々に伝えるのが使命だと宣うのだが、要は各地で芸を披露し、自分が書いたという「毛書体」の解説書や揮毫したなにがしかの額を、人々に売りつけるのが目的だ。ホテルで着替えた人民服の胸には「主席」と書かれたリボンまでついている。人々の前でポーズを取り、毛沢東のようにタバコを吸い、彼の革命詩を、毛沢東に似た少し甲高い声で吟じてみせる。
現代中国において毛沢東の思想的影響力がいかほどのものかは推して知るべしだが、それでも毛沢東はいまなお人民にとっての「アイコン」である。芸人が各地で出会う人々は、ときに毛沢東を称え、彼を神だといい、彼によって中国は救われたといい、そのポスターを部屋に飾り、彼の生家を訪ねては、写真を撮る。
地方の共産党幹部はもとより、ふつうのオジサンやオバサンや、仏教の坊さんや、四川省のチベット僧までがそういうのだから、これには少々驚く。毛沢東をモノマネする芸人の本性を、金が目的だと見抜き、侮蔑の眼差しを向ける人がいないわけではないが、多くの人は、彼の演説に笑い、一緒に写真に収まってくれとせがむ。
ある中年の女性は、そのモノマネにいたく感心し、若かりし頃、一度だけ車列の中の毛沢東を間近に見て、声を挙げることもなく、ひたすら陶然としたという少女紅衛兵時代の思い出を語る。自分が経営する養鶏所の看板を、芸人に揮毫して欲しいと頼む。
などという会話は、下手な映画の脚本よりも数倍も面白い。書の値段が、人民元ではなく、米ドル建てというのも笑える。
毛沢東の生家のそばで料理屋を営んでいた女性がいた。革命成就後に毛沢東が帰省した折り、一緒に写真に写ったその人は、その写真が新聞に掲載されると全国的に有名になり、その後、「毛家飯店」なるレストラン・チェーンで財を成すようになった。いまや豪勢な館に自分の蝋人形まで置いている。その女性経営者を訪ねて、芸人は握手をする。毛沢東の威光は、人々に富をもたらす。今度は芸人がそれにあやかる番だ。
その一方で、別の隣人はいまなお見るからに貧しい暮らしで、80歳を過ぎた老婆は、曲がった腰で畑仕事をする毎日だ。「ワシも一緒に主席と写真に映りたかったよ」と歯の抜けた口元が悔しそうに笑う。彼女もいま写真に収まる。しかし一緒に写るのは、主席本人ではなく、そのモノマネをする芸人だ。
これも一つの「格差」なのだろうか。
福建省あたりの沿岸部には古くから媽祖の信仰があるが、さながら毛沢東は労働者・農民にとって民間信仰の対象のようでさえある。その信仰は、現世御利益に直結している。現代中国の拝金主義の風潮が、そのアイコンをいまなお輝かせる。
私はキューバのハバナの街で、アイスクリーム屋の客引き用に飾られていたチェ・ゲバラのポスターを見たことがある。ゲバラは死して、アイスクリーム屋を儲けさせる。しかし、革命のアイコンがもたらす現世利益は、ここではキューバの比ではない。革命の皮肉の強烈さもまた、その比ではない。
救われるのは、ドキュメンタリストの冷徹な視点だ。権力にこそ執着したものの、金には無頓着だったといわれる毛沢東。そのモノマネで身すぎ世すぎをする芸人。その芸を笑って楽しむ人々。可笑しくもあり、同じくらいもの悲しくもある、イデオロギーの変わり果てた姿。これもまた、現代中国の諸相の一つであることはたしかなのだ。
体調不良で選考を欠席した芥川賞の受賞作、中国人の楊逸さん(44)の「時が滲む朝」については「一種の風俗小説にすぎない」と批評した。半世紀前は、石原自身がこのように言われていた。
「この小説は、仮に新奇な作品としても、しいて意地悪く云えば、一種の下らぬ通俗小説である。私がもっとも気になるのは、案外に常識家ではないかと思われるこの作者が、読者を意識に入れて、わざとあけすけに、なるべく、新奇な、猟奇的な、淫靡なことを、書き立てているのではないかと思われることである。」(宇野浩二の芥川賞選評)石原はあえて宇野のコメントを意識したのだろうか。それにしても、宇野浩二の本質を見抜く目のすごさよ。
「だが、途上国の食糧危機が深刻化する中、本来は食べ物だった穀物を燃料にして、最高時速300キロ超で走るレースに興じる米国のクルマ社会の姿は、むしろ異様に映るようになってきた」「地球に優しいカーレース」って、そもそも語義矛盾だろう。ついでにこれは、食べ物にも優しくないし、食糧高騰をあざ笑う暴挙ともいえる。どこまでも stupid なアメリカ人。ま、我々もそれに近いことはしてるけどね。
「Appleがある日するかもしれないこと、しないかもしれないことを予想するには、わたしは年を取り過ぎた――ノートPCの新プロセッサへの移行かもしれないし、製品ラインの刷新かもしれないし、まったく新しいものかもしれない」とJupiterResearchの調査ディレクター、マイケル・ガーテンバーグ氏は言う。私は調査ディレクターではないけれど、「予想するには年を取りすぎた」というのは実感としてわかるかも。
テレビ業界各社の収益が悪化している。2008年3月期決算では、大手キー局の経常利益が、軒並み減益となった。業界最大手のフジテレビの経常利益は前年度の460億円から270億円へと約40%も減った。業績悪化の直接的原因は、広告収入の減少である。電通の推計によれば、テレビ広告費の総額は、2005年以降減少傾向が続いている。
MacBookの内蔵 HDD を入れ替え。OS新規インストール、主要データのコピーで無事に復旧。内蔵ディスクの換装はこれで2度目。取り外しは簡単だが、ディスクをマウントして押し込むときに、内部のガイド用のゴムが邪魔してなかなか入らないんで、少々焦る。このゴム、意味あるのかな。押し込んでもカチっと音がしたりしないんだものな。ま、ちゃんと動いているからいいか。
日曜日は銀座で『敵こそ、我が友〜戦犯クラウス・バルビーの3つの人生〜』を観ていた。監督が『ラストキング・オブ・スコットランド』を撮ったケヴィン・マクドナルドだというので俄然興味が湧く。地味なドキュメンタリーだが、公開2日目ということもあり、客席は満員。
ナチス戦犯の数奇な生涯をたどる。むろん映画はその犯罪性を擁護するものではないが、彼一人を断罪するものでもない。むしろ、バルビー一人にスケープゴートのように罪を押しつけて平然としている、アメリカやフランスの戦後社会を問うものだ。
バルビーの弁護を買って出たベトナム系フランス人の弁護士は言う。「ユダヤ人の強制移送にはときのフランス政府も荷担していた。いわば、バルビーの罪はフランス人の罪でもあるのだ」。
戦争犯罪と戦後犯罪との、いまだ清算されない密接な関係。その構造は日本でも同じだ。
SNSに「起業家志望」と登録していた都内の大学生の場合、SNSでの知人から「一流企業に勤める人と会える」と紹介されて都内の事務所を訪ねたところ、「社会人に会うにはオーダースーツが必要」と言われた。その場で約20万円でスーツを仕立てたが、「営業の訓練になるので他の人に販売してみよう」と指示されるばかりで、社会人の紹介はなかったという。 別の都内の大学生もSNSで知り合った人から「1日に10万円稼ぐ方法がある」と誘われ、同様に事務所を訪れ、19万円のスーツの購入契約を結んだ。ところが、その場で「ビジネストレーニングになるので、とにかくアポをとれ。友人のアドレスを書き出せ」と指示されたという。「サラリーマンNEO」のコントみたいな話だな。犯罪の手口がそれなりの社会批評になっていて笑える。「オレオレ詐欺」なんかでも思うことだけれど、こういう人を騙す抜群のセンスがあるんだったら、もう少しまともな会社をやっても成功するんじゃないかと。 被害にあった学生にとっては、高い授業料だったとはいえ、それこそ得がたい「ビジネストレーニング」になったんじゃないだろうか。
先日顔を出した金時鐘さんを中心とした詩と音楽・舞踊のイベントの打ちあげで、ひょんなことから映画監督・黒木和雄の話題が……。先日、戦争レクイエム三部作の『父と暮らせば』(宮沢りえ/原田芳雄主演)をDVDで観て、いたく感動しておっただけに、タイムリー。
しかしながら、黒木和雄はその初期作品を私はちゃんと観ていない。いや、戦争レクイエムも『美しい夏キリシマ』が未見だし、遺作『紙屋悦子の青春』も観ていない。
最近の作品はTSUTAYAで借りられるとはいえ、初期のものはそう簡単ではない。そこで「初期傑作集 DVD-BOX」というのをヤフオクで探して落札。『とべない沈黙』(1966年)『キューバの恋人』(69年)『日本の悪霊』(70年)の3つがセット。近年、ATG映画が再評価されているというが、それを語るには外せない監督。8月は黒木月間とすることにしよう。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ Y氏 [広告と言っても、殆どがパチンコと保険会社だからなぁ(ちょっと前まではサラ金)この二つを無くせば一兆円位減るんじゃない..]