この件、ネットのブログをサーチすると、いつものようにイデオロギー論争。ぱっと見、半量ぐらいは上映中止、または上映について疑義をはさんだ国会議員の行動に賛意を示す論調だ。映画館の上映自粛のことよりも、むしろこうした日本人の反応こそ、世界に伝える価値があるニュースだと思う。世界から笑われるのを覚悟して……。
誰もその映画を見ていないのに、この映画を「中共の謀略宣伝」とまで言い切る輩もいて、「中国人」「靖国」という2つの項を与えると、自然に方程式が解けるという体の、単純な反応にはいつもながらヤレヤレなのだが、これら賛成議論の論調のなかで、多少は議論するに値する論点と思えるのは、
──独立行政法人芸術文化振興基金の助成金の応募規定に「宗教的、政治的な宣伝意図を有する活動でないこと」とあるので、それに違反する可能性があるとすれば、国会議員が試写を要求するのは当然。また、これに違反する映画に助成金を支出したのは問題──
とするものだ。これは試写を要求した稲田朋美議員(写真)の表面上の主張でもある。
「宗教的、政治的な宣伝意図」とはプロパガンダのことであろう。その映画がプロパカンダであるか、ドキュメンタリー作品であるかの線引きは難しい。リーフェンシュタールのナチ党大会の記録映画は、当時は明確なプロパカンダとして機能したが、いま見れば、優れたドキュメンタリー作品である。このように微妙な問題であるのを、国会議員ごときが裁判官のように審査できるものなのか。判断に、その国会議員の宗教的・政治的な傾向が反映されないと誰が言い切れるのか、という問題は残る。
たしかに国会議員は国民の代表ではあるが、私たちは芸術審査の権限まで彼らに委ねたわけではない。稲田議員は試写に臨むにあたって、「ひたすら政治的に中立であるかどうかという観点でチェックした」旨の趣旨を述べ、試写の後に「力作であるが、偏ったメッセージを発しており、助成金支出は妥当ではなかった」旨の発言している。
しかしながら、「偏ったメッセージを発している」という稲田議員の感想の妥当性を問うためには、誰もが自由にこの映画を見られる環境がなければならない。公金支出の是非はそれから検討してでも遅くはないし、むしろ映画が広く公開されてからでなければ、その是非を問うことさえできないのだ。
そもそも、実際に政治と宗教の喧噪の渦に巻き込まれつつある靖国神社を対象にしたドキュメンタリー作品に、なんらの政治的メッセージも含まれないようにと期待すること自体、無理である。たとえ最終的に一つの政治的意見を擁護するものであっても、それがたんなるプロパガンダに終わらないようにするためには、監督は細心の注意を払わなければならない。それに成功したとき、初めてドキュメンタリーは作品としての普遍性を獲得できる。
公的な芸術振興財団が資金を提供するかどうかは、その映画の個別の政治メッセージにではなく、ひとえに映画としての普遍性になのであって、「政治性があるから公金支出はダメ」というのは、ドキュメンタリー映画制作を今後一切、この国は支援しないというのに等しい。むろんそうなっても別に構わないけれども、そのことが世界に知られれば、日本の文化政策の貧困が嘲笑の対象になるだけだ。
稲田議員は「上映中止は本意ではない」というが、しかし、現実的には彼女らの「チェック」という名の政治行動が、街頭右翼や保守系団体・日本会議、さらに市民の一部の上映館に対する抗議行動(電話による、面談によるを含む)を招いたことはたしかだろう。直接的行動だけでなく、日本的な意味での世論の「空気」を醸成することに繋がった。映画館主が「圧力」と感じたのは、言ってみればこのような「空気」のことだから、この圧力を詳しく実証することは難しい。しかし、日本社会が法的な権利または法的な保護(表現の自由)のもとでも、こうした「空気」のごとき同調圧力に弱いことは、これまでの歴史を見ても明らかだ。あえて、NHK従軍慰安婦特集番組改変問題や品川プリンスの日教組集会拒否問題をあげなくても。
私は稲田議員が映画という文化財を「事前検閲した」とまでは言わないが、少なくともこの空気の醸成役を買って出ることによって、結果的に私がこの映画を見る楽しみを奪った、奪いつつあるように思う。この人は、映画ファンにとっての敵である。
思うに、この騒動は、現代日本の政治思想のなかにおける最も危ういゾーンである「靖国」という事象に、歴史的に日本人が複雑なコンプレックスを抱いてきた「中国人」である監督が、ドキュメンタリー「映像」という強烈なイメージ手法をもって斬り込んできたことから始まっている。そのことを稲田議員やそれになびく人々は、心底、恐怖しているのだ。もう、映画を見る前から腰がブルブルと震えているのである。小便さえチビっているかもしれない。できれば「見たくない」「視界の外に追いやりたい」という心理が、映画上映を中止・自粛させる「空気」として波動したのである。
その波動は、私にとってロクなものではない。微力ながらそれを押し返さなければならない。上映する映画館を探し出し、ルンルン気分で見に行くという、一映画ファンとしての自然な行為によって。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。