もちろん、古代エジプト文明が偉大なのは疑う余地がない。しかしだからと言って、それを誇る権利が、たとえば私にあるとは思えない。なぜなら私自身はそれにまったく貢献していないからだ。祖先が子孫を誇るのはまあ妥当だが、子孫が祖先を誇るのはどうも図々しくないか。第一、祖先の偉業を誇り続けるのであれば、祖先の罪も恥じ入り続けなければならないという計算になって、あまり愉快な話ではない(P.160)全くその通りだ。祖先の偉業は誇る一方で、その罪責は否定するという都合のよいナショナリズムが幅を効かせている暑苦しい状況のなかで、この言葉は清涼な風のように響く。
私が世間で愛国心とされるものにアレルギー反応を起こすのは、仮に私が愛情の対象として「祖国」というものを限定したとき、そこから誰かが排除されるだけではなく、だれかが限定する「愛する祖国」からは私が排除されているからだ(P.163)愛情の多くは多かれ少なかれ排他性をもつものだが、わけても国を愛する愛国心は、排他性を高めがちだ。その狭さを著者は嫌うのである。 イスラーム教やイスラーム文化の初心者である私にとっては、いくつも蒙を啓かされることが多かった。たとえば、イスラーム圏の女性の服装に、髪と首を隠すベール・長袖・長いスカートからなる「ヒジャーブ」と呼ばれるものがある。
サウジアラビアやイランなど、女性のヒジャーブが義務付けられている国は別だが、エジプトのように選択の自由が個人に残されている国では、ほとんどの女性が自ら進んでヒジャーブを着用しているのであり、「ヒジャーブを社会進出の妨げにはさせまい」という意志を抱いて頑張っている女性もたくさんいるのである。だから、ヒジャーブを女性抑圧の象徴と見ることはまったく正しくない(「ベールがなんだっていうの」P.74)
むしろ多くの女性は、ヒジャーブを抑圧ではなく、解放の近道だと考えている。日本でも欧米でも、働く女性はいまだに差別や性的嫌がらせ(セクハラ)に悩まされているが、そのように偏見やセクハラがはびこる職場において、ベールをまとうことによってはじめて、男性と対等に渡り合えると彼女たちは言うのだ(P.75)先日のマレーシア旅行でも、まさにこのヒジャーブのファッションとしての美しさを感じたことがあった私には、これは興味深い指摘だった。 イスラーム教とイスラーム原理主義を区別できない(とりわけ9.11以降の)欧米、日本のメディアや一般の理解に対して、著者はあえてムハンマド(マホメット)の指針(ハディース)を引くことで、その理解の浅薄さ、誤解を批判している。ムハンマドはこう語ったというのだ。
私は人間だ。あなたがたの信仰に関わることで私が何かを命じたならば従いなさい。しかし、あなたがたの俗世に関わることで私が何かを命じたならば、従わなくてもよい。あなたがたの俗世のことは、あなたがたの方がよく知っている(P.108)歌舞音曲や女性就労の禁止を教義的に正当化する、タリバーンのような原理主義は、本来のイスラーム教からはかけ離れたものであり、まさに「原理を無視する原理主義」だというのだ。まさに、へえっ、そうなんだという感じである。 他にもイスラーム初期の詩人たちがいかに恋愛詩に夢中になっていたかという話(「青年よ、恋をせよ!」)も、イスラーム知らずの人への誤解を解くには、最適の文章だろう。 言語論、音韻論、翻訳論としても重要な指摘がいくつかされている。 たとえば、イスラーム教の聖典「コーラン」は、実際に読み聴きしたときのその音律の美しさも重要なのであって、字面だけを翻訳しても十分その魅力が伝わらないのだという。かつて詩人ゲーテは朗読されたコーランを耳にして「イスラムの真髄を感じた」と日記に記したというから、音楽家や詩人の耳を通せば、文化的背景を超えた全的な理解が可能なのかもしれない。(P.140) アラビア文学の日本語への翻訳に触れて、著者はこうも言う。
「言語、あるいは語彙というものを、頭の中にあるタンスと考えるとしよう。……母語のタンスがある程度できあがってから外国語を学習すると、人はそれぞれの引き出しに、同じ意味の単語を入れていく。だから、たとえば language という単語の引き出しにを開けたら、その中にはすでに「言語」もしまってあるわけ」。ところが「母語が二つあるということは、そのタンスも二つあるということになり、それらは互いにほとんど無関係のところで作り上げられたから、language と「言語」にそれぞれ引き出しがあり、別々のタンスにしまってあって、二つは必ずしもつながっていない」というパラドックスがあるというのだ(P.136)。 だから二重言語のネイティブだから翻訳も簡単だと思うのは、俗論に過ぎないという。このあたりは、母語と学習した言語の二つで創作活動を行おうとする作家たち(たとえば多和田葉子や、それこそ最近芥川賞を受賞した楊逸や、リービ英雄)との比較文学的視点をからませるとより面白いことになるかもしれない。 巻末には著者が尊敬してやまないという酒井啓子(東京外大)との対談を収録。そのなかで著者は「日本人でもあり、一見してイスラーム教徒とわかるわけではないから、イスラーム教徒であるということによって実害が及ぶようなことはない。実害は受けずに、差別されるグループの一員として世界を見つめたり、考えたりすることができるというのは、一種の幸運です」と、とりわけ9.11以降の自分の立場性を語っている。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。