12月に入ってから初更新。この間、何をしていたかというと、仕事ちょぼちょぼ、早めの忘年会関係を3つ、ちらほら読書といったところ。
本はアメリカの政治経済・グローバリズム関係。仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想─リベラリズムの冒険』(NHKブックス)、ポール・クルーグマン『格差はつくられた──保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略』(早川書房)、スーザン・ジョージ『アメリカは、キリスト教原理主義・新保守主義に、いかに乗っ取られたのか?』(作品社)、サーシャ・アイゼンバーグ『スシエコノミー』(日本経済新聞出版社)あたり。
クルーグマンはノーベル賞を取ったので、最近マスメディアにもよく露出している。ニューディール政策以降、米国における中産階級の形成が政策的に導かれたこと、そのことによってそれ以前の格差が是正されたこと、しかし、オイルショック以降は、これまた政策的に中流の解体が促され、格差が拡大されたことなどを分析する。人種問題という特殊要因が向こうにはあるが、基本構造は日本の戦後社会の形成やバブル崩壊後の事情ともよく似ている。この人もアメリカの大企業のCEOの高額報酬に怒っている。米民主党政権への期待を隠すこともない。
スーザン・ジョージのアメリカ政治分析は、姿勢こそよりリベラルでかつ戦闘的だが、クルーグマンの問題意識と重なるものだ。ただ、オバマが登場してもすぐにアメリカ政治が変わるとはいえないという。なぜなら新自由主義のヘゲモニーは、隅々まで浸透しており、バイブル・ベルトの有言無言の圧力もけっして過小評価できないからだ。新自由主義=市場原理主義のイデオロギーを振りまくために奔走するイデオローグ、シンクタンクや財団、ロビイストの顔写真付きリストは参考になる。日本にも似たような人や団体がたくさんあるだろう。
仲正の『集中講義』は、ネオコンに行き着く、あるいはそれを鬼子として胚胎したアメリカのリベラリズム哲学の系譜を解説。このあたり全然知らない領域だったが、前2著とのバックグラウンドとして関連づけて読むと、意外と面白かった。
『スシエコノミー』は、「寿司」という食品・料理の世界化過程を訪ねたルポ。我々日本人には当たり前の常識もあるが、当たり前ではない異様な発展型の描写は面白い。しかしよく取材しているよなあ。日本人のマグロ食い過ぎへの批判は弱くて少々物足りなかったが、社会文化史の一つの読み物としては堪能した。
この後の読書はどっちへ行くかな。アメリカ関連では、最近買った本ではロレッタ・シュワルツ=ノーベル『アメリカの毒を食らう人たち─自閉症、先天異常、乳癌がなぜ急増しているのか』(東洋経済新報社)というのが待っている。それとも、頭を休めて楽しく読めそうということで、鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった─心理学の神話をめぐる冒険』(新曜社)あたりに飛ぶか。
もちろん、古代エジプト文明が偉大なのは疑う余地がない。しかしだからと言って、それを誇る権利が、たとえば私にあるとは思えない。なぜなら私自身はそれにまったく貢献していないからだ。祖先が子孫を誇るのはまあ妥当だが、子孫が祖先を誇るのはどうも図々しくないか。第一、祖先の偉業を誇り続けるのであれば、祖先の罪も恥じ入り続けなければならないという計算になって、あまり愉快な話ではない(P.160)全くその通りだ。祖先の偉業は誇る一方で、その罪責は否定するという都合のよいナショナリズムが幅を効かせている暑苦しい状況のなかで、この言葉は清涼な風のように響く。
私が世間で愛国心とされるものにアレルギー反応を起こすのは、仮に私が愛情の対象として「祖国」というものを限定したとき、そこから誰かが排除されるだけではなく、だれかが限定する「愛する祖国」からは私が排除されているからだ(P.163)愛情の多くは多かれ少なかれ排他性をもつものだが、わけても国を愛する愛国心は、排他性を高めがちだ。その狭さを著者は嫌うのである。 イスラーム教やイスラーム文化の初心者である私にとっては、いくつも蒙を啓かされることが多かった。たとえば、イスラーム圏の女性の服装に、髪と首を隠すベール・長袖・長いスカートからなる「ヒジャーブ」と呼ばれるものがある。
サウジアラビアやイランなど、女性のヒジャーブが義務付けられている国は別だが、エジプトのように選択の自由が個人に残されている国では、ほとんどの女性が自ら進んでヒジャーブを着用しているのであり、「ヒジャーブを社会進出の妨げにはさせまい」という意志を抱いて頑張っている女性もたくさんいるのである。だから、ヒジャーブを女性抑圧の象徴と見ることはまったく正しくない(「ベールがなんだっていうの」P.74)
むしろ多くの女性は、ヒジャーブを抑圧ではなく、解放の近道だと考えている。日本でも欧米でも、働く女性はいまだに差別や性的嫌がらせ(セクハラ)に悩まされているが、そのように偏見やセクハラがはびこる職場において、ベールをまとうことによってはじめて、男性と対等に渡り合えると彼女たちは言うのだ(P.75)先日のマレーシア旅行でも、まさにこのヒジャーブのファッションとしての美しさを感じたことがあった私には、これは興味深い指摘だった。 イスラーム教とイスラーム原理主義を区別できない(とりわけ9.11以降の)欧米、日本のメディアや一般の理解に対して、著者はあえてムハンマド(マホメット)の指針(ハディース)を引くことで、その理解の浅薄さ、誤解を批判している。ムハンマドはこう語ったというのだ。
私は人間だ。あなたがたの信仰に関わることで私が何かを命じたならば従いなさい。しかし、あなたがたの俗世に関わることで私が何かを命じたならば、従わなくてもよい。あなたがたの俗世のことは、あなたがたの方がよく知っている(P.108)歌舞音曲や女性就労の禁止を教義的に正当化する、タリバーンのような原理主義は、本来のイスラーム教からはかけ離れたものであり、まさに「原理を無視する原理主義」だというのだ。まさに、へえっ、そうなんだという感じである。 他にもイスラーム初期の詩人たちがいかに恋愛詩に夢中になっていたかという話(「青年よ、恋をせよ!」)も、イスラーム知らずの人への誤解を解くには、最適の文章だろう。 言語論、音韻論、翻訳論としても重要な指摘がいくつかされている。 たとえば、イスラーム教の聖典「コーラン」は、実際に読み聴きしたときのその音律の美しさも重要なのであって、字面だけを翻訳しても十分その魅力が伝わらないのだという。かつて詩人ゲーテは朗読されたコーランを耳にして「イスラムの真髄を感じた」と日記に記したというから、音楽家や詩人の耳を通せば、文化的背景を超えた全的な理解が可能なのかもしれない。(P.140) アラビア文学の日本語への翻訳に触れて、著者はこうも言う。
「言語、あるいは語彙というものを、頭の中にあるタンスと考えるとしよう。……母語のタンスがある程度できあがってから外国語を学習すると、人はそれぞれの引き出しに、同じ意味の単語を入れていく。だから、たとえば language という単語の引き出しにを開けたら、その中にはすでに「言語」もしまってあるわけ」。ところが「母語が二つあるということは、そのタンスも二つあるということになり、それらは互いにほとんど無関係のところで作り上げられたから、language と「言語」にそれぞれ引き出しがあり、別々のタンスにしまってあって、二つは必ずしもつながっていない」というパラドックスがあるというのだ(P.136)。 だから二重言語のネイティブだから翻訳も簡単だと思うのは、俗論に過ぎないという。このあたりは、母語と学習した言語の二つで創作活動を行おうとする作家たち(たとえば多和田葉子や、それこそ最近芥川賞を受賞した楊逸や、リービ英雄)との比較文学的視点をからませるとより面白いことになるかもしれない。 巻末には著者が尊敬してやまないという酒井啓子(東京外大)との対談を収録。そのなかで著者は「日本人でもあり、一見してイスラーム教徒とわかるわけではないから、イスラーム教徒であるということによって実害が及ぶようなことはない。実害は受けずに、差別されるグループの一員として世界を見つめたり、考えたりすることができるというのは、一種の幸運です」と、とりわけ9.11以降の自分の立場性を語っている。
師走という感じが全くしない。木枯らしピューピュー、うーサブーという感じがないからかな。先週はわりとヒマしていたが、今週は長時間の電話取材やら原稿書きやらで、けっこう忙しい。昨日も朝5時起きでカキカキ。昼過ぎに一本仕上げたら急に力が抜けて、ランチに1年ぶりぐらいの近所のうなぎ屋で鰻重の上を食って、それからなぜか午後は、講談社現代新書『〈満洲〉の歴史』(小林英夫著)などを読んでいた。こういう脈絡のない読書とか、途中で気を抜いてしまう時間の使い方とか、というのが、良くも悪くも私の性格なんである。
『満洲』本は私が知っている・聞いたことがある話と、そうでない話が半々。当然、張作霖爆殺のコミンテルン陰謀説など「とんでも系」の話は一行たりとも引用されていない。満州植民地経営の、計画だけは立派だが、その足をひっぱる戦争政策のハチャメチャという感じが、よく描写されている。植民地農業政策としての満蒙開拓移民も結局失敗に終わり、農業生産は上がらなかった。私の叔母という人も、この愚策に翻弄されて命を失った一人である。
さて本日は朝から奈良出張。シャープの女性技術者取材。
12月10日の日記で予告しておいた本のうち、『アメリカの毒を食らう人たち』はイマイチ本であった。軍の基地から漏出する有害物質被害などを現場に寄り添ってレポートしているのだが、翻訳が悪いんだろうか、告発調のキィーキィーしたトーンがどうも馴染めなかった。変にキリスト教臭いところも鼻につく。この手の話は、もう少し冷静に実証的に分析してもらわないと。
『オオカミ少女はいなかった──心理学の神話をめぐる冒険』は面白かった。オオカミ少女も、サブリミナル実験も、みんなほんとのことだと思っていたもんなあ。時制をもたないホピ族の言語とか、カルロス・カスタネダの記述も事実だと思っていた。たんにトンデモ系心理学の批判だけでなく、データ捏造や非倫理的な実験を重ねた心理学者のエピソードを通した人間臭い科学史論議にもなっている。科学と非科学の危うい狭間は、ある種の人には魅力的な圏域なのだろうと思う。
知人のK氏が日経BPで編集した『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(村上宣寛著)などもある意味、類書といえる。挟み込まれていた新曜社のチラシを眺めていたら、『〈盗作〉の文学史』(栗原裕一郎著)というのが6月に出ていて、ちょっと興味が惹かれる。三浦雅士が毎日新聞で好意的な書評をしていた。
12月の読書はその後、なぜか『〈満洲〉の歴史』に向かったのだが、なんとか大東亜共栄圏の領域内に踏みとどまり、『中村屋のボース──インド独立運動と近代日本のアジア主義』(中島岳志著、白水社)に転じた。2005年度の大佛次郎論壇賞。その頃買っておいてはいたのだが、しばらく埃をかぶっていた。 中村屋に「カリー」を伝えた人に、ラース・ビハーリー・ボースという人がいて、それはチャンドラ・ボースとは別人物で、しかし、両ボースは共にインド独立運動家であって……というあたりは知っていたが、この本は中村屋のほうのボースさんの評伝である。ちなみに中村屋とは、私が学生時代、笹塚のパン工場で夜警のバイトをしていたという縁がある。どうでもいいことだが。
インドにおける冒険活劇ばりのテロ活動や、追っ手をふりまいて転々とする亡命生活のエピソードは、まさに血湧き肉躍る。著者は、かつてボースが英国人の支配者に向かって爆弾を投げつけた(本人が投げたわけではないが)デリーの街頭に足を運んだり、ボースをかくまった頭山満邸周辺(現在のアメリカ大使館あたり)を実定し、ボースの逃走経路を実際に走ってみながら、この本を書いたという。ノンフィクション作家顔負けの現場主義だ。
しかし、もちろんこれはたんなる亡命革命家の冒険譚ではない。当時、ボースを庇護した日本のアジア主義者の無思想ぶりをあぶり出す一方で、大東亜共栄圏構想の裏にある帝国主義性を批判したボースの思想形成過程を膨大な資料で明らかにする。同じアジア主義でも、日本人のそれとボースのそれは同床異夢のごとく、当初は大きな開きがあったのだ。結局は、インド独立革命という大義のために、大東亜共栄圏構想に便乗し、日本軍の手も借りようとするボースだが、独立達成を見ることなく、生涯を終えた。アジアのナショナリズムのありようについて、さまざまな示唆を受けることができる本だ。
その刺激が、本棚の奥で埃をかぶっていたもう一冊の本を呼び起こすことになる。小熊英二の『インド日記──牛とコンピュータの国から』(新曜社)。2000年ごろ国際交流基金で訪印したときの日記。まだ途中だがこれが結構面白い。ヒンドゥー・ナショナリズムやグローバリズムについて、現地の人々としつこく対話しながら、考えをまとめていく。小熊はけっして活動家ではないが、フィールドワークの足取りが、読んでいて心地よい。
というわけで、私の関心も、中島や小熊に引かれるようにして、灼熱のインド亜大陸へと南下する。この正月休みは、アマルティア・センのインド論『議論好きなインド人──対話と異端の歴史が紡ぐ多文化世界』(明石書店)、そのセンが激賞したといわれる、エドワード・ルースの『インド厄介な経済大国』(日経BP社)を読むことになるだろう。この二つ、版元は違うのだが、なぜか、本の厚みや表紙のデザインがよく似ている。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。