月曜日朝7時。本所吾妻橋の高砂部屋でベテラン床山(髪結い)「床寿」さんの取材。相撲部屋の取材ってのは初めてだ。8時前、朝青龍がやってきて、5分だけ時間をもらってその大銀杏を結う姿を写真にとらえる。朝青龍はテレビを前に終始無言。大銀杏ができあがった後は、喫茶店のモーニングみたいな朝食を摂っていた。今年の九州場所で定年の床寿さん。その話は味わいがある。
その後横浜での取材を終え、夕方、自宅に戻ってきたら、なんと朝青龍、モンゴルに「脱出」のニュース。もしかしてこのまま引退という推測も。ええ、そんな話聞いてなかったゾ。床寿さんの定年を祝って、九州場所は優勝をめざすと語ったという話も伝え聞いていたのだが……。
こいつマジにバカじゃないのか。「シナリオ」ウンヌンは、その通り事が運んで、自民党が勝ってから言うものだ。中山氏は、自身の国交相辞任から東国原氏の国政転身まで「自民党が(衆院選で)勝つため」に仕組んだ「自作自演のシナリオ」と表現。
[From asahi.com:国交相辞任、東国原知事出馬が「私のシナリオ」と中山氏 - 政治]
1978年江川「空白の一日」事件以来、巨人ファンをきっぱり止めて久しい(久しすぎるか)。それまでは結構、巨人が好きだった。というか、野球と言えば巨人戦しか放映しないそういう地域で少年時代を送ったものだから。
かくして巨人ファンである自分を自己批判すると同時に、プロ野球全般に興味を失った。好きな球団などない。好きな野球選手もいない。野球というスポーツ自体は嫌いではなく、高校野球とかMLBとかはときには楽しむのだが、いかんせん、巨人を中心に形成される日本プロ野球の商業主義が嫌いなのである。東京ドームと目と鼻の先に永らく住んでいながら、巨人戦は一度しか行ったことがないのが自慢だ。
だから、ペナントレースの優勝争いなんてどうでもいいんだけれど、最近はリーグ優勝しても、それで終わりではなく、わけのわからんクライマックス・シリーズというのがあるらしい。そのネーミングのダサさは、いかにもプロ野球らしいし、システム自体がアホの発想や。
ともかく、阪神ファンであれ、巨人ファンであれ、メガホンぶら下げた格好を鏡に映して、恥ずかしいと思わない、あのセンスの悪さはどうしようもない。
13日の体育の日は、栃木・茂木町の樹林で終日ゴルフコンペ。過分なハンデをもらいながら、成績はさんざん。でも、うっすらと紅葉した山並みが美しかった。
火曜日から仕事全開。午後からは、某誌のタイアップ広告企画の社長対談シリーズ。対談の相手役の元TVキャスターが、のっけからゴルフ談義。52歳で始めて、今や外資ハゲタカが始めたゴルフ場会社の役員までやっているという。もともと外国通信社上がりのフリージャーナリストだが、こんな広告企画で企業をヨイショしていたら、もはやジャーナリストとは呼べないだろうね。
雑談では、僕この人と知り合い、あの人とも飲み仲間という、セレブ交友自慢をひとしきり。そのなかには、あの「秋篠宮」まで含まれていて、驚く。ま、本人はいたってお気楽な人柄で、こういう自慢話にもイヤミがないのが救いだが……。テレビ文化人に共通する雰囲気の持ち主ではある。
明日は兵庫県出張。なんの話を聞くのか、いまもってよく知らされず、新幹線車中で打合わせだとか。やれやれ。その前に、原稿をあと2本仕上げないとね。
マンハッタンのヤッピー(死語?)たちが巨大モンスターに食われる話。日本公開時の配給会社の宣伝が派手だったというが、私は何も知らず、レンタル屋で偶然手に取った。監督には『ゴジラ』へのオマージュがあるともいわれるが、モンスターへの関心や憐憫が一切ない点で、日本的怪獣映画とは映画的志向が異なる。「9.11」の衝撃を踏まえての映画であることはたしかだが、特に政治的メッセージはない。ハンディカメラ風など映像の斬新さは感じるが、今となっては既視感もつきまとう。
全体には「いま風」なアメリカ映画。パニック・ムービーとしてはそれなりに楽しめるが、それだけだ。
自由の女神像をパニックの象徴として使う映画は他にもあったが、首を飛ばしてしまったのは初めてかも。埃まみれで転がっているその顔は、なぜかアンコールワットの仏像に似ていた。
ベス役のオデット・ユーストマンはラテン系の美女。演技がもっとうまくなれば、今後ブレイクしそう。迷信深い田舎町でのモンスターとの格闘を描いた、フランク・ダラボンの『ミスト』と併せて観ると、いろいろと面白い比較ができる。(☆☆★=2.5/5点満点)
というわけで『ミスト』。フランク・ダラボン監督作品は、結構観ているな。『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』『マジェスティック』など。脚本にかかわった昔の『ザ・フライ2』なんかも覚えている。なかでも『ショーシャンク〜』は私の好きな映画のベスト10に入る。で、同じスティーブン・キング原作となれば、いちおう観ておかなければ。
田舎町のスーパーマーケット。山のほうから降りてきた深い霧に街は一瞬にして包まれるが、その霧の中には「何か」がいた……。異世界から来た魔物たちに、物理的にかつ精神的にもとらわれる人々。映画では軍隊の秘密研究が失敗して、異次元から呼び寄せてしまったモンスターたちということに一応なっているが、あんまり説得力はない。むしろ、それらは、キング原作ということもあり、リアルな怪物というよりは、人々の恐怖が生み出した夢の中の魔物のようにさえ思える。
魔物の造形には、『海底2万マイル』(巨大タコの触手)、『エイリアン』(クモの糸にからめとられ、繭にとじこめられてしまう人間)、『宇宙戦争』(巨大なポッド)などこれまでのSF映画からの引用がふんだんにされていて、それはそれで楽しい。そいつらが手を変え品を変えながら、人間を襲ってくるのだが、いっそのこと怪力で建物ごと木っ端微塵に粉砕すればいいのに、そうはしない。恐怖は持続し、人々の籠城は続く。映画が描きたいのは、外敵のおどろおどろしさ以上に、極限状況における人間の異常なふるまいなのだから。
物語の重要なプロットになるのが、旧約聖書の黙示録的世界観だ。私はその方面に詳しくはないが、狂信的な巫女(マーシャ・ゲイ・ハートが熱演)が叙述する聖書の終末感と魔物の襲撃は照応し、住人の多くはその女の扇動に巻き込まれ、魔物を鎮めるために生け贄を差し出そうとさえする。
監督の宗教的態度は定かにはわからないが、扇動家の巫女が脱出派の手によって最後には撃ち殺されるところをみると、呪術的な観念や原理主義的なものへの嫌悪感があることはたしかだ。
いわば、マーケット内では宗派対立が起こっているのである。なぜなら、主人公デヴィッド・ドレイトン(トーマス・ジェーン)に率いられるグループとて、脱出の先に何があるのか合理的な判断を下せるわけではない。ただ、そこにいては巫女の呪縛にとらわれて、人間性を失ってしまうという危機感があるのみである。ドレイトンはその恐怖から人々を救う新宗派の預言者にすぎない。
その宗派対立、あえていえば旧教に対する新教の対立は、一見、新教の勝利に終わるかに見えて、そうはならない。新教の神もまた残酷な試練をドレイトンに課し、彼はそれに耐えなければならなかったのだ。
こんなふうには書いているが、何もこの作品を宗教映画だというつもりはない。そこそこよくできたSFパニックホラーという評価で十分だ。だが、キリスト教的な物語と重ね合わせると、また別の楽しみ方ができるというだけである。(☆☆☆★=3.5/5点満点))
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ Y氏 [6チームの中で3位に入ればプレーオフって(笑) 交流戦も最初の頃の新鮮さも失い縮小傾向。 もう、完全に制度疲労を起こ..]