名古屋シリーズが今日で一段落。なかなか面白い再生医療の話でした。
来週は出張はまず入らないだろうし、翌々週は製造業は休むだろうし、ということで、第一弾の残りは20日以降だな。20日に1件名古屋大学が入っている。今月の出張はほかに別件で27日に北九州。時間があったら、八幡あたりでなんか美味いもの食いたいな。名古屋シリーズの第2弾は9月になってからだろう。
しかし、これだけ頻繁に出張っているんだが、ランチの一つ奢ってもらったことないんだよねえ。名古屋のクライアントはケチだわ(笑)。
あんまり東海道新幹線出張が多いので、JR東海のエキスプレスカードってのを申し込んでしまった。JR東に比べて新幹線チケットの割引オプションが充実。JR東海は社長が嫌いなんで、あまり事業に貢献したくないんだが……。
参院選の敗北にもかかわらず、首相を辞めない安倍をメディアは非難している。桝添をはじめ、自民党内からもあからさまな批判が出る始末。自民に対する風当たりがいかほどのものか、その「空気が読めない」のは、首相の資質にかけるというわけだ。
しかし、私は「安倍は辞めるべきではない」と考える。
その理由。自民党や公明党の内部から選挙に負けた責任を問う声が挙がるのは当然のことだが、私は自民党員でも公明党員でも、ましてやその支持者でもないので、そのような意味で彼の「責任を問う」つもりはない。先の選挙でも、自民党は負けるべしと考え、そのように選挙行動を取ったので、ざまあみやがれという気持ちはあるものの、むしろ安倍の続投は大歓迎だ。
安倍がいたから自民が負けたのであれば、さらにその敗北を党の崩壊へと導くためには、安倍にはなんとしてでも続投してもらわなければ困る。ダメ自民の象徴として、安倍は「余人をもって替えがたい」必要不可欠な人材だ。
いま「安倍ヤメロー」と騒いでいる人の多くは、程度の差はあれ、本音のところでは自民党を支持する、あるいは支持したい人々なのではないのか。
いや、そうではない、参院選の結果は、政策転換を求める反自民党・反安倍政権の声である、その高まりを受け止め、安倍は退陣すべきと人々は言っているのだ、という主張もある。しかし、もしそうなのであれば、国民は安倍に退陣を要求するのではなく、まずは政策の転換を要求すべきなのである。それが安倍にできないのであれば、現状では自民党の次の人事に期待するしかないが、「辞めろ」というのは、安倍の政策を転換できるような人事が今の自民党(ないしは自公連合)に可能なのかどうか検証してからでも決して遅くはない。
だが、結論からいえば、そのようなことが現在の自民党に可能だとは思われない。安倍の「次」は、党内の権力闘争の結果で決まるのであって、けっして政策の転換として現れるのではない。つまり、自民党政権である限り、安倍の「次」の「よりましな政権」を期待しても無駄なのだ。こんなことは30年前からわかりきったことである。
そもそも、今回の選挙結果が自民の政策への批判であったという推論じたいアヤシイものだ。今回の選挙ではどのような政策論争があったのか。たとえば、安倍政権のもっとも重要な政策である憲法改正問題はどのように議論されたのか。何もないではないか。憲法は争点から外され、護憲政党は票を伸ばすことができなかった。
2年前、小泉自民に大勝をもたらした国民が、その記憶もさめやらぬ今、基本的に小泉の新自由主義的な政策を踏襲する安倍政権を急激に批判するようになったなどというのは、論理的にありえない。小泉を勝たせた情緒的な「空気」が、今回は安倍に真逆に働いただけなのである。「空気」は重要だが、空気である限りは風向きでどのようにも変わる。それを知っているから、安倍は辞めないのだ。彼なりに、空気は読んでいるつもりなのだ。
むろん、首相の政治権力はこの日本でもけっして小さなものではないから、安倍個人の政治イデオロギーとその政治的野望をいますぐ阻止したいと考えている人々が、安倍の即刻の退陣を望む理由もわからないではない。しかし、安倍がいなくなっても、今の自民党からは安倍のような男はどこからでも現れるのである。繰り返すが、けっして安倍の「次」に幻想を抱いてはいけない。ついでにいえば、自民の「次」の民主党にさえ期待を抱いてはいけないのだ。
安倍的なるものを完全に抹殺するためにも、そのターゲットとして、安倍個人が居残ってもらったほうが、わたし的には都合がよい。安倍が政権に汲々となればなるほど、自民党の腐敗と政策の間違いが浮き彫りになるような、そういうプロセスを推し進めることがとりあえずは重要である。
といっても、Windows の話。ちょっと触る機会があったんだが、このインターフェイス醜悪だわ。というかこれまでのバージョンとメニュー体系がまるで変わってしまった。最初は、ファイルを閉じるのにも四苦八苦。どこに何があるか、探すだけで疲れる。もちろんインターフェイスを変えるなと言うわけではないのだが、変えるにしてもより「より使いやすく」するのがふつうだろう。
あんまりワケわからんので、Office 2003 のUIにまで戻すアドオンソフトがサードパーティから出る始末。それが3,000円もするっていうんだから、Windows の世界はアクドイなあ(笑)。
しかし、ネットでの反応を瞥見するかぎり、このアップデートを歓迎する声こそ少ないものの、積極的に反対の立場で言挙げするWindowsユーザーもそう多くない。「こんなもの使わねぇよ」と最初から思っているか、「仕方ない」と諦めているのか。
発言が過剰に多いのは、Office製品のインストラクターたちのサイト。ま、彼らにとっては飯のタネだからねえ。「あなたたちのための改良なのよ、そんなに悪くはないのよ、慣れれば便利なのよ」と、まるでどこかの国の政治家のように、悪魔のごとき猫なで声で囁くのである。
夏もそろそろ終わりかな──などとは思うまい。まだまだきっとこれから暑いぞ。月曜は北九州出張。博多から黒崎まで初めて、「特急ソニック(883系)」に乗る。ミッキーマウスの耳、木質を活かしたインテリア。後れ馳せながら水戸岡鋭治氏の偉業の一端に触れる。
水曜日は青学でヒゲの会計学の先生の講義を1時間。仕事、なお滞留ぎみ。でも、ビールも飲みたい。
周防正行監督は10年以上新作を撮ってなかったのか。通称「それボク」を後れ馳せながらDVDで観た。映画づくりは意外と(と言ってはなんだが)シリアスだし、リサーチも丹念だ。
「裁判は公正なものである」と素朴に信じる人は今ではそう多くはないと思うが、その公正さが見せかけのものだとすれば、ではその実態とはどのようなものであるのかを、真摯に問いかける。周防は『Shall we dance?』のような人情モノよりも、実はこうした社会派ドラマを本当は撮りたかったのではないかとさえ思える。
私は、70年代に大規模な冤罪事件の裁判支援にかかわった経験があるし、弁護団の立証作業をサポートしたり、アシスタントのような立場で弁護席の後ろの方で筆記したこともある(当時は傍聴人の筆記が認められていなかったため)。別の裁判では証人として出廷したこともある。だから、裁判のプロセスはそれなりに知っていたつもりだが、それでもこの映画で蒙を啓かされることが多々あった。
繊細で一見弱々しいが、気骨の通った青年を、加瀬亮がみずみずしく演じている。小日向文世の柔らかくも冷淡な視線は、この裁判長役にぴったりだ。2000年代日本社会派映画の、今のところ最大の収穫。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。