四方田犬彦という人の関心と知識の学際的な広がりにはいつも驚かされている。その著作リストを見ただけでも、文芸批評あり映画論あり、ブルース・リーと腐女子マンガを論じるかと思えば、古今東西の文学を引用しながら、パレスチナ映画と韓国映画を比較し、イタリア語、韓国語を解するらしく、たんにブッキシュな人かと思いきや、ソウル、パレスチナ、モロッコ、セルビアを歩き……で、この人なにが専門? と思うのは当然だ。
私はそのうち、海外体験と映画に関するエッセイ、それから、名著の誉れ高い『月島物語』、高校時代・大学時代を回想したエッセイのいくつかを読んだにすぎないが……。そう、最近では岩波書店のPR誌「図書」に連載している、「日本の書物への感謝」にも時々目を通している。たんなる古典解題ではなく、著者と古典との出会い、古典のもつ世界性を楽しく語ったエッセイだ。かつて、しょうもないテーマで一度だけ、30分ほどインタビューしたことがあるが、学者然とした偉ぶりは微塵も感じさせず、気さくな人柄を感じた。
その文章は学者にしては、華麗だ。分かりやすいかといえば、少々首を傾げるところもあるが、近年の物書きとしては、かなり上手いほうの部類に属する。ときにペダンチックに知識をひけらかす癖があるが、学者なんだからそれは当然。専門に関しての圧倒的な学識、周辺事物に関しての幅広い教養、そしてそれらを統合・再構成するアクロバティックな文章力がなくてなんの学者か。
その知的好奇心の広がりがどのように生まれたかは、たとえば高校時代を回想した『ハイスクール1968』における読書と映画鑑賞の量と幅の広さを見てもその一端が窺われる。我が身の高校時代の読書なんぞ、鼻くそほどにも及ばない。
今年、新潮社から出た『先生とわたし』は、『ハイスクール1968』のいわば後編に当たる東大時代の話。紛争後の瓦礫の下で展開されたゼミで、四方田は由良君美(ゆら・きみよし)という一人の英文学者と出会う。早熟で知的好奇心に溢れた青年が、学者としての道を決意するに至るまでの青春記であり、卓抜な由良君美評伝であり、そして人文系の学問における知の継承のされ方、つまり秀逸な師弟論あるいは現代大学論にもなっている。専攻を問わず、大学で飯を食う人には必見の書と言えるかもしれないよ。
由良君美という人については、いっさい読んだことはないが、英文学の世界ではそれなりに知られた人らしい。そもそも『先生とわたし』に描かれる由良ゼミの様子──たとえば、ドストエフスキーの『白痴』のナスターシャ・フィリッポヴナ、フィッツジェラルドの『冬の夢』のジュディから、マレーネ・ディートリッヒ主演のフィルム『嘆きの天使』のローマまでを例に掲げて講じる「宿命の女」論、と言われましても、まったくチンプンカンプンである。面白いのか面白くないのかもわからない。
しかし、由良の汲めども尽くせぬ知の泉と、精緻を極めた文学の伽藍、そしてその風体が醸し出すスタイリッシュなオーラに触れながら、若者たちが刺激され、なにがしかモノを考えるようになる様子は、興味深い。四方田の比較文学や映画史研究の方法論の基礎は、この由良ゼミで学んだものがベースになっていることは、本人が認めるところだ。その人の一生を形作るほどの知的興奮というのを、私は学生時代もその後ももついぞ体験することがなかった。師と呼べる人をもった人こそ、幸いなるかな。
由良君美は1990年に61歳の若さで亡くなったが、晩年は酒に溺れ、大学でも奇行が目立ったという。四方田を含め優れた研究者を育てたが、弟子たちとの関係はけっして安定していたわけではない。四方田があるとき著作を師に送ると、はがきに一言「すべてデタラメ」と書いてだけよこしたというエピソードからもその不幸な一面が窺える。
師弟の関係というのは、どの分野でもつねに幸福とは限らない。いや、むしろ愛と憎しみ、支配と被支配、競争と嫉妬、恭順と裏切りという人間ドラマの宝庫であると言ってもよい。とりわけ、文学なんぞをやろうとするインテリの場合は、その錯綜の人間ドラマはより陰湿であり、滑稽でもあるだろう。
そのような師弟ドラマとして読むのであれば、エリオットもアラン・ポーも、欧米文学の知識など一かけらもなくても、この本は面白い。そのようにしてこの本を堪能しながら、同時に、われわれは、世間的にはなんの役にも立たないと思われている文学研究というものが、しかしときには命賭けるほどの厳しい営為であり、ある種の人々には無上の喜びを与え、そしてその知の饗宴こそが、人間を人間足らしめる一要素であることを、あらためて知ることになる。
同じ由良門下に高山宏という人がいて、この人は四方田犬彦の少し先輩に当たる人だが、こちらも、マニエリスム再評価の先鋭として有名な人らしい。『先生とわたし』の後に続けて『超人高山宏のつくりかた』(NTT出版)を読んだが、この順番がよかった。2つの本は由良君美からの影響をそれぞれに語るという点で照応しあう。
むろん、それ以上にこの本は、自らを「学魔」(悪魔的なまでに学問に淫蕩する学者というぐらいの意味か)と呼ぶ奇怪な知識人の自己顕示の本だ。インテリが自己顕示しないでなんのインテリぞと、私は四方田本を読んだときと似たような感想を抱くのだが、その自己顕示欲はどろどろと悪魔的であり、意外と品のいい四方田なぞ足下にも及ばない。
マニエリスムとか視覚文化論とか、本の内容の100分の1も私には理解できないが、しかし、ここまで来ると嫌みがないというぐらいの唯我独尊的自慢話は爽快だ。膨大な知識量だけでなく、自分の顔相や、いかに女にモてたかという話まで自慢するものだから、モてない東大学者・小谷野敦が嫌みたらしく重箱の隅つつき的な間違い探しをするのもわからないではないが……。
澁澤龍彦、種村季弘、山口昌男、荒俣宏、松岡正剛、田中優子らとの交友の中から、相互に領域を超えて刺激しあう知的遊戯の楽しさも、なかば伝わってくる。私はいずれも断片しかかじったことのない人たちだが、それでも、当時の正統的な文学、歴史学、文化人類学から見れば「異端」と呼ばれた人たちが、次第に主流として認識されるにいたった、80年代から90年代にかけての文化状況を彷彿とさせて、この点も興味深い。ただし、高山宏の戯作調の文章は、初めて読むとびっくりするな。悪文だけれど読ませるという文章の一つの典型かもしれない。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
ボクはひろぽんさんの解説に圧倒されましたが(^^;
ご紹介いただいた「ハイスクール1968」読みました。
これも圧倒されましたが。。しょうしょう理解不能な部分が多かった。ボクは哲学や思想よりも、社会的な問題を扱った(職場環境や労働問題)ことにより興味があるので。。ただ学者としての姿勢というか、性という部分ではひじょうに関心が高かったです。
「先生とわたし」も読んでみます。