どうにも調子が乗らないので、映画のことでも。
井筒和幸監督の『パッチギ!LOVE & PEACE』がレンタルDVD解禁になった。前作の続編というより、独立した、もう一つの在日朝鮮人ヒストリーと捉えたほうがいい。あるいは、石原慎太郎批判映画か(笑)。
監督の井筒が、映画の劇場公開時のころさかんに石原プロデュースの特攻隊映画を攻撃していたのは、たまたま同時期公開の映画に対する牽制と、彼のたんなる趣味の問題と思っていたが、そうだったのか、自身の映画の中で完全にパロっていたのか。
石原の映画だけでなく、これまでの日本の戦争大作映画ってのは、ほとんど、脳天気なエスノセントリズム(自民族中心主義)に貫かれている。朝鮮・台湾の植民地から徴兵した(または志願させた)異民族の兵士・下士官のことには触れないままだった。そういうものへの苛立ちもあったのだろう。
コンセプト的にいえば、これまでの日本映画から漏れ落ちていたいくつかのテーマを拾っていて、たしかに監督が言うように「これまでなかった問題作」だとは思う。たとえば、
・植民地下における強制連行と、朝鮮における抵抗運動
(挺身隊への女性の強制連行、徴兵検査からの脱走シーン。ただ脱走した先がヤップ島というのはちょっと解せないが)
・大東亜共栄圏の滑稽ぶり
(ヤップ島の子供らが皇居遙拝を強制されるシーン)
・戦後の在日コリアン社会の形成過程における済州島「四・三事件」とのかかわり
・江東区枝川地区における在日コリアン共同体の存在
(「江東朝鮮人生活協同組合」という看板が映画に出てくる。この地域は朝鮮第二初級学校の土地明け渡し問題の舞台でもある)
・国士舘学生と朝鮮高校の抗争
(これは昔、東京生まれの連中によく聞かされていた話)
・戦後の芸能界における在日芸能人の役割 ……等々
一口に言えば、『血と骨』『夜を賭けて』などに連なる、日本社会における民族的マイノリティーを全面的に主役にした映画。シネカノンと井筒監督はこれを、昨今しきりにエスノセントリックに傾く日本の文化状況に対するアンチとして提出していることは明白だ。
右派からみればただの「反日・自虐史観映画」ってことになるんだろうが、監督らが訴えたいのはたんなる反日プロパガンダではなく、民族共生の多文化的視点であることも、一目瞭然である。
マイノリティというのはつねに芸術の題材の宝庫であり、映画もまた、民族的・政治的・性的マイノリティに関心を持ち続けてきた。最近の映画の傾向でいっても、そうしたモチーフを持ちつつ、作品的にも興行的にも世界性を獲得した映画は少なくない(一例だけ挙げれば、インド系イギリス人監督が撮った『ベッカムに恋して』)。世界的な多文化主義の流れのなかに、この映画はある。少なくとも石原の映画に、それはない。
日本でも、半径3メートルの恋愛話ばかりじゃなく、こういう骨太のマルチカルチャーな視点をもつ映画はもっと描かれてしかるべきだとかねがね思っていた。その点で、井筒は頑張っているとは思うのだが、ただ、娯楽映画としてどうなのかというと、そんなに高い評価はつけられない。
前作に比べよりテーマは先鋭になっているものの、その提出の仕方は生硬な感じはぬぐえない。また、物語の中味は、子供の難病、同胞の助け合い、少女の涙の出世物語、日本人と在日の淡い恋愛といった、甘い人情メロドラマ。
外側は生乾きのまま、中味は甘く柔らかいというのは洋菓子としては成功かもしれないが、映画としてはどうか。もう少し突き放した客観的な視点があったほうが、大人の映画になったような気はする。
在日同胞を贔屓する余り、アブドラ・ザ・ブッチャーまでをも同胞にしてしまうというギャグもあったりして、在日コリアン社会のマイナー・コミュニティゆえの頑迷さをも監督は一方で描いているのだが、そういう大らかな笑いがもっとあってもよいと思う。
私は崔洋一監督の『血と骨』のほうを高く評価するものだが、それはやはりビートたけしの俳優としての圧倒的な存在感があったからだ。この映画にはそれだけの超主役級ともいうべき中心点がない。その点もこの映画の物足りないところだ。
もうおなか一杯というぐらい、在日コリアンをめぐるエピソードをいくつも盛りこもうというのだから、それは相当な決意が必要だ。同時に、映画としての破綻も覚悟しなくてはならない。破綻のギリギリとのところまで行きながら、なんとかかろうじて持たせましたね、というのが率直な感想だ。ただ成功とは言い難く、かといって完全な失敗作ともいえないというところ。
ここまでぶちまけちゃって、井筒はこれからどんな作品を撮るんだろうか。そこに興味はある。(評点3.5点<5点満点中>)
土日はなんもできなんだ。ダメじゃん。日曜の夜は散歩のつもりが、いつもの某所へ。隣に、ご近所のタワーマンションに住む大阪出身と荒川区出身のカップル。荒川沿いの神社の話になって、むか〜し付き合ったことのある宮司の娘のことを思い出してしまった。そうそう、たしかにその神社ではあった。いまごろどうしているやら、あのコ。
「くも膜」というのは、脳を覆う膜が、文字通り蜘蛛の巣のように見えるからそういうらしいが、俺の最近の日常は、脳髄全体に雲がはったようなぼんやりとした感じ。ぴかぴかに空が晴れて、何かを確実に視点にとらえて、その一点に熱中できるような対象が、ときどきいなくなる。こういうときは、びっしり汗をかくような運動でもしたほうがいいかもしれない。
四方田犬彦という人の関心と知識の学際的な広がりにはいつも驚かされている。その著作リストを見ただけでも、文芸批評あり映画論あり、ブルース・リーと腐女子マンガを論じるかと思えば、古今東西の文学を引用しながら、パレスチナ映画と韓国映画を比較し、イタリア語、韓国語を解するらしく、たんにブッキシュな人かと思いきや、ソウル、パレスチナ、モロッコ、セルビアを歩き……で、この人なにが専門? と思うのは当然だ。
私はそのうち、海外体験と映画に関するエッセイ、それから、名著の誉れ高い『月島物語』、高校時代・大学時代を回想したエッセイのいくつかを読んだにすぎないが……。そう、最近では岩波書店のPR誌「図書」に連載している、「日本の書物への感謝」にも時々目を通している。たんなる古典解題ではなく、著者と古典との出会い、古典のもつ世界性を楽しく語ったエッセイだ。かつて、しょうもないテーマで一度だけ、30分ほどインタビューしたことがあるが、学者然とした偉ぶりは微塵も感じさせず、気さくな人柄を感じた。
その文章は学者にしては、華麗だ。分かりやすいかといえば、少々首を傾げるところもあるが、近年の物書きとしては、かなり上手いほうの部類に属する。ときにペダンチックに知識をひけらかす癖があるが、学者なんだからそれは当然。専門に関しての圧倒的な学識、周辺事物に関しての幅広い教養、そしてそれらを統合・再構成するアクロバティックな文章力がなくてなんの学者か。
その知的好奇心の広がりがどのように生まれたかは、たとえば高校時代を回想した『ハイスクール1968』における読書と映画鑑賞の量と幅の広さを見てもその一端が窺われる。我が身の高校時代の読書なんぞ、鼻くそほどにも及ばない。
今年、新潮社から出た『先生とわたし』は、『ハイスクール1968』のいわば後編に当たる東大時代の話。紛争後の瓦礫の下で展開されたゼミで、四方田は由良君美(ゆら・きみよし)という一人の英文学者と出会う。早熟で知的好奇心に溢れた青年が、学者としての道を決意するに至るまでの青春記であり、卓抜な由良君美評伝であり、そして人文系の学問における知の継承のされ方、つまり秀逸な師弟論あるいは現代大学論にもなっている。専攻を問わず、大学で飯を食う人には必見の書と言えるかもしれないよ。
由良君美という人については、いっさい読んだことはないが、英文学の世界ではそれなりに知られた人らしい。そもそも『先生とわたし』に描かれる由良ゼミの様子──たとえば、ドストエフスキーの『白痴』のナスターシャ・フィリッポヴナ、フィッツジェラルドの『冬の夢』のジュディから、マレーネ・ディートリッヒ主演のフィルム『嘆きの天使』のローマまでを例に掲げて講じる「宿命の女」論、と言われましても、まったくチンプンカンプンである。面白いのか面白くないのかもわからない。
しかし、由良の汲めども尽くせぬ知の泉と、精緻を極めた文学の伽藍、そしてその風体が醸し出すスタイリッシュなオーラに触れながら、若者たちが刺激され、なにがしかモノを考えるようになる様子は、興味深い。四方田の比較文学や映画史研究の方法論の基礎は、この由良ゼミで学んだものがベースになっていることは、本人が認めるところだ。その人の一生を形作るほどの知的興奮というのを、私は学生時代もその後ももついぞ体験することがなかった。師と呼べる人をもった人こそ、幸いなるかな。
由良君美は1990年に61歳の若さで亡くなったが、晩年は酒に溺れ、大学でも奇行が目立ったという。四方田を含め優れた研究者を育てたが、弟子たちとの関係はけっして安定していたわけではない。四方田があるとき著作を師に送ると、はがきに一言「すべてデタラメ」と書いてだけよこしたというエピソードからもその不幸な一面が窺える。
師弟の関係というのは、どの分野でもつねに幸福とは限らない。いや、むしろ愛と憎しみ、支配と被支配、競争と嫉妬、恭順と裏切りという人間ドラマの宝庫であると言ってもよい。とりわけ、文学なんぞをやろうとするインテリの場合は、その錯綜の人間ドラマはより陰湿であり、滑稽でもあるだろう。
そのような師弟ドラマとして読むのであれば、エリオットもアラン・ポーも、欧米文学の知識など一かけらもなくても、この本は面白い。そのようにしてこの本を堪能しながら、同時に、われわれは、世間的にはなんの役にも立たないと思われている文学研究というものが、しかしときには命賭けるほどの厳しい営為であり、ある種の人々には無上の喜びを与え、そしてその知の饗宴こそが、人間を人間足らしめる一要素であることを、あらためて知ることになる。
同じ由良門下に高山宏という人がいて、この人は四方田犬彦の少し先輩に当たる人だが、こちらも、マニエリスム再評価の先鋭として有名な人らしい。『先生とわたし』の後に続けて『超人高山宏のつくりかた』(NTT出版)を読んだが、この順番がよかった。2つの本は由良君美からの影響をそれぞれに語るという点で照応しあう。
むろん、それ以上にこの本は、自らを「学魔」(悪魔的なまでに学問に淫蕩する学者というぐらいの意味か)と呼ぶ奇怪な知識人の自己顕示の本だ。インテリが自己顕示しないでなんのインテリぞと、私は四方田本を読んだときと似たような感想を抱くのだが、その自己顕示欲はどろどろと悪魔的であり、意外と品のいい四方田なぞ足下にも及ばない。
マニエリスムとか視覚文化論とか、本の内容の100分の1も私には理解できないが、しかし、ここまで来ると嫌みがないというぐらいの唯我独尊的自慢話は爽快だ。膨大な知識量だけでなく、自分の顔相や、いかに女にモてたかという話まで自慢するものだから、モてない東大学者・小谷野敦が嫌みたらしく重箱の隅つつき的な間違い探しをするのもわからないではないが……。
澁澤龍彦、種村季弘、山口昌男、荒俣宏、松岡正剛、田中優子らとの交友の中から、相互に領域を超えて刺激しあう知的遊戯の楽しさも、なかば伝わってくる。私はいずれも断片しかかじったことのない人たちだが、それでも、当時の正統的な文学、歴史学、文化人類学から見れば「異端」と呼ばれた人たちが、次第に主流として認識されるにいたった、80年代から90年代にかけての文化状況を彷彿とさせて、この点も興味深い。ただし、高山宏の戯作調の文章は、初めて読むとびっくりするな。悪文だけれど読ませるという文章の一つの典型かもしれない。
_ アミーゴ渡部 [ボクはひろぽんさんの解説に圧倒されましたが(^^; ご紹介いただいた「ハイスクール1968」読みました。 これも圧倒..]
昨日。散歩癖が抜けないのか、午後に浅草で仕事を終えると、駒形橋のあたりから小石川まで歩いて帰ってきてしまった。とろとろと1時間半かけて。春日通りに出ればほぼ一本道。御徒町でワイシャツを買い、湯島の昔通った蕎麦屋で晩飯したりしながら。
そういえば、この前の休日、池袋から歩いて帰る途中、なにやら胸にゼッケンをつけた集団がぞろぞろと歩いてくる。労組風だけれどデモ帰りには見えない。途中に幟をもつ人たちがいて「帰宅困難者対応訓練」と読める。なんなんだろうなと訝しんだが、そうかコレだったんだ。それにしても、もしかしてあの人たち、日比谷公園から埼玉・蕨市まで歩く途中だったのか! すげえ。
連休中にやったこと。映画『君の涙ドナウに流れ ハンガリー1956』。半世紀前のハンガリー動乱のことを歴史として勉強するにはいいが、ジャンヌ・ダルクのように勇ましい反ソ革命の闘士とオリンピック選手との恋の描き方は、ドラマとしては類型的すぎるかな。公式サイトにコスタ・ガブラスの『ミュージックボックス』についての記述があるが、これって公開年とか監督名とか、間違っているんじゃないかな。
本は桐野夏生の『グロテスク』。論じられるべき意欲作だとは思うが、オレの琴線には触れなかった。桐野の「娼婦論」を読まされているようで……。で、桐野はそれを説明し尽くしたかというと、最後は自分自身も混乱しているようで……。
後は散歩と酒飲み。
_ ひろぽん [映画スタッフのプロフィールに間違いを発見した件。配給元のシネカノンにメールしておいた。今は訂正されている。]
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ 燃える海 [同感しきり。こまネズミのごとく介護に動き回る今月77歳の母の活力は不肖息子を上回る。情けないこと、この上ない。それに..]