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ひろぽん小石川日乗

心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば

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2007-01-03 (Wed)

[book] 正月読んだ本

大晦日に帰省、3日に戻る。じっくりと本を読めた。

『フィデル・カストロ後のキューバ カストロ兄弟の確執と<ラウル政権>の戦略』(ブライアン・ラテル著/作品社)は元CIAのキューバ専任分析官によるカストロ体制分析。ラテンアメリカに対して公然・非公然と暴力的に干渉し続ける自分(CIA)の足下は放っておいて、カストロの少年期からの粗暴な性格をあげつらうのはいかがと思うが、通常のカストロ伝記には見られないネガティブなエピソードがふんだんに盛られている。

カストロのラジオ演説を遠くワシントンで傍受しながらその心理を分析するというプロファイラーとしての自慢話もいくつか。冷戦とは、ある意味で高度な心理分析戦でもあり、スパイ戦争であったことにあらためて気づかされる。

弟ラウルと兄フィデルの関係については、「フィデルの死がラウルを浄化するのだろう」として、フィデルの軛から放たれた後のラウルに期待する。同様にラウル体制の側もまた、ブッシュ後のアメリカの変化に期待していることは明らかなわけで、その駆け引きの妙が今後、ラテンアメリカ政治に占める重要性は高まるはずだ。

■キューバについてはアメリカとの政治的対決ばかりが強調されるが、実体経済はどうなっているのか。キューバ革命は経済的には成功したのか、失敗したのか。その問いにいくぶんかは答えてくれるのが『現代キューバ経済史 90年代経済改革の光と影』(新藤通弘著/大村書店)。ソ連崩壊後、経済システムの変革へと進むキューバ経済を1999年の時点で分析した。

著者は基本的にキューバ革命を支持する立場ではあるものの、ハバナ現地での調査も含むそのマクロ、ミクロの実証的分析から浮かび上がるのは、この国の税制や財政、賃金政策や農業政策が信じられないほどいい加減だったということ。社会主義的無策といえばそれまでだが、それにしても、賃金労働者から一切所得税を取らないというのは、ちょっとまずいのでは……。そういうツケが回って、「外資天国」ともいわれる極端な外資導入策へとブレていく過程がよくわかる。

アメリカの経済封鎖は、キューバ経済に甚大なマイナスを与えたが、99年時点での経済困難は、より根源的なキューバ経済の構造から生じたものというのが筆者の見方。今後は「市場化テスト」に耐えながら進める大胆な構造変革を通してしてしか、キューバ革命を守る道はないという。

■先日、旅行の件で相談したキューバ旅行専門代理店のS氏は、少年時代をハバナで過ごしたという。同国のマグロ延縄漁を指導するために赴任した父親に付いていったのだ。まだ国籍不明機が領空を侵犯してサトウキビ畑に爆弾を落としていたころ。ゲバラをテレビで観たこともあるといっていた。これはこれで得がたい体験だ。

■資本主義圏に生まれた子供が、社会主義圏で送った小学校生活。そこでの濃密な体験を、30年後の東欧社会主義の崩壊と共に描くのが米原万里の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)。つとに名作の誉れ高いノンフィクションだ。プラハのソビエト学校という、社会主義圏のなかでも特殊な地帯。そこで出会った個性的な友人や教師たち。それにしても、そのエピソードをよくここまで子細に記憶しているものよと驚く。人並み外れた記憶力、観察力と省察力を基礎に、人間と社会に対する透徹した感受性が生まれる。アーニャたちのことをけっして忘れなかったという点で、著者は彼女たちとはまた別の意味で動乱の時代を生き、自らを鍛えたのだ。かつての級友を思いやる心情は、通俗な反共イデオロギーの嘘臭さを逆に暴く。

■異国の街で自分とは何者かを問うのは、多和田葉子もまた同じかもしれない。初めてこの人の小説を読むが、『容疑者の夜行列車』(青土社)は、たんに異国や一人旅という状況が、アイデンティティのゆらぎを醸し出すということ以上に、より抽象度の高い、世界内存在としての人間の不安を扱っているように思える。

章立ては「パリへ」「アムステルダムへ」と明確に目的地を指し示すのだが、主人公はけっしてそこへ行き着くことはない。それはねじれる夢の階段をいつまでも行きつ、戻りつする旅だ。コンパートメントの中の、エキセントリックで身勝手な見知らぬ同乗者たちも興味深いが、その奇妙な物語に魅せられたように、主人公は絵の中の一部になり、作者からつねに「あなた」と呼ばれる存在だ。ボンベイ行きの列車で爪切りと引き替えに「永遠の乗車券」を譲られたばかりに、「あなたは、描かれる対象として、二人称で列車に乗り続けるしかなくなってしまった」。その旅を「あなた」はけっして嫌がってはいない様子。不安はつねに愉楽のようでさえあるのだ。

■正月3が日で読むものがなくなってしまったので、帰京の列車では駅のコンビニで買った文庫本、村上春樹『アフターダーク』(講談社文庫)に読みふける。こちらは3人称の小説ではあるが、多和田作品との偶然の共通点もある。「見る」視点と「見られる対象」との関係にことのほか自覚的なのだ。作者が意識的に仕掛けるのは、鳥のような目で俯瞰し、マクロレンズのように対象に迫りながらも、それ以上は関与しないカメラのような視点。その配下に、日の暮れて以降の夜のとばりの下で、連奏する人間模様が描かれる。少しだけ『クラッシュ』という映画の監督の視点を思い出したりした。


この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。