建築に詳しくはないですが、見るのは好きです。というわけで、ちょっと気になった建物やモニュメントなどを。
001 :ユダヤ人教会(シナゴーグ)。ナチスによるホロコーストの後、なぜいまドイツ国内にユダヤ人が住んでいるのかという問題は、実は重要な問いなのだ。
002 :どこかのオフィスビルだったけれど、そのエッジの効いたデザインもさることながら、窓のカーテンを巧みに彩ることで、モザイク的な色彩のリズムを生み出していた。
003 :ダニエル・リーベスキンド設計によるユダヤ人博物館のファサード。内部空間も象徴的である。
004:ウンターデンリンデンで見かけたモニュメント。ドイツの偉大な思想家、作家、詩人たちの名前が刻まれている。
ベルリンは過去を記憶する都市だといわれる。この70年の歴史の中でも、文化的爛熟、ユダヤ、ナチス、戦争、瓦礫、占領、分断、壁の建設と崩壊、国家統合、外国人流入、新しい首都……とめまぐるしいまでの歴史の転変があった。
その歴史のどこに光を当て、それをどのように記憶するか。つまりの記憶の表現の仕方には、記憶する主体の恣意性が混じらざるをえない。記憶とはつねに記憶する主体にとっての記憶でしかないという、ある種の諦めはある。しかし、その恣意性を可能な限り社会的客観性に敷衍すべく、徹底した議論が重ねられてきたことも同時に認められる。
政治がもたらした災厄を記憶したり、忘却したりするのは、けっして個人の「心の問題」などではない。政治を記憶する行為とは、すぐれて新しい政治行為である。すなわちそこには一定の客観性と責任が伴わざるをえない。「心の問題」にすり替えて平然としているわけにはいかないのだ。
写真はベルリンのベルナウアー通りにある壁のメモリアルである。当時の壁はいったん崩されたが、東西分断の歴史を記憶すべく、1999年に当時と寸分違わないままに再建された。その周辺には壁を越えようとして建物から飛び降りそこねたり、射殺された人々の記録が残っている。一人の東独兵士が、壁ができる前の鉄条網を飛び越えて西に越境したのもこの近く。越境のためのいくつかのトンネルが掘られた地域でもある。
これらの壁は、そのおぞましくも血塗られた歴史、東独共産主義圧政の証を後生に残すべきものとして再現されたのであろうが、私には、政治イデオロギーの滑稽なまでの物象化の記憶のようにも思える。
何事につけてもドイツ人は徹底している。そこに堅固な社会主義イデオロギーが加わるとなればなおさらだろう。社会主義的勤労精神はここでは、人民が逃亡しないようにするための高い壁を作るためにだけ奉仕された。その愚直なまでな精密さを、私たちはいまようやく笑うことができるようになった。
ふたつの壁の間の無人地帯にはかつて教会が建っていたが、立ち退きを強制され、1985年、建物は跡形もなく爆破された。その跡地に、いまはモニュメンタルな意匠で新しい教会が建つ。その名は皮肉にも「和解教会」という。
その悲劇とも喜劇ともいいかねる場所を、青年歴史学者といった風情の若者が、ボランティアでガイドしてくれる。Mの通訳のおかげで大要は把握できた。壁建設のために東独国家によって収用された土地の返還を巡っていまなお議論があるという。
■画像の説明
005:ベルナウアー通りの壁のモニュメント 006:案内してくれたボランティアガイドの青年。対面には壁記念館とよばれる資料館がある。 007:ガイドが見せてくれたのは当時の壁の見取り図。 008:かつての壁の無人地帯に建つ和解のモニュメント 009:縦格子が印象的な新しい和解教会 010:周辺で見かけた東独製のマンホールのふたこの日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。