サッカー本はそれなりに読むが、ロナウジーニョのパスの秘訣、中田がロッカールームで怒った理由、トッティの彼女はスーパーモデルなんてのは、あんまり関心がない。ましてや「ジーコの戦術は企業経営にも活かせるか」(無理だろうけど)なんていう手合いのサッカー便乗本は願い下げだ。
それよりも、なんというか、サッカーをもうちょっと違う視点から、たとえば政治・経済・文化の観点から位置づけて語るというのが好き。もちろん、ピッチでの90分のボールと足の動きは、それ自体は政治ではないし、戦争でもないし、ましてや経済でもないけれど、サッカーというスポーツを人類の営みの一つとしてメタにとらえれば、そこに色濃くあらわれる政治・経済・文化の影を意識しないわけにはいかない。
そういう意味でこれまで読んだサッカー本のなかで最大の賛辞を贈りたいのは、サイモン・クーパーの『サッカーの敵』(白水社)だ。
2002年W杯に合わせて翻訳が出た本だけれど、サッカーをナショナリズムや宗教やマフィアビジネスに利用しようとしている世界の腹黒い輩の実態を、ひょうひょうとしたタッチの取材で暴露し、サッカーというスポーツの「純粋性」をそこから救おうとしている。
実際、救えるかどうかはわからないけれども、現代サッカーがそのような「サッカーの敵」に取り囲まれながら息も絶え絶えになっているという事実を知るのは、けっして無駄なことではない。
2006年W杯を当て込んだサッカー本ラッシュのなかでも、サイモン・クーパーの問題意識を踏まえたような本がいくつか出ているのは喜ばしい。たとえば、『W杯ビジネス30年戦争』(田崎健太/新潮社)、『サッカーが世界を解明する』(フランクリン・フォア/白水社)は面白そう。未読だが購入済みだ。
いま読みかけの、『サッカーという名の神様』(近藤篤/NHK出版)は、サッカー本のなかで私が好きなもう一つのタイプに属する本だ。これまで挙げた、サッカーの光と闇のどろどろみたいなお話じゃなくて、もうちょっとのんびりとしている。
トリニダード・トバゴのスタジアムでスティールドラムが打ち鳴らされる様子とか、南海の楽園、モルディブにサッカーを見に行った話とか、ちょっと気の利いたサイドストーリーを集めたエッセイ集。著者は写真家であり、本文にはさまれるモノクロ写真がいいアクセントになっているが、なかでもひいきチームのゴールに歓喜するアルゼンチンのスタジアムを取った一枚はすごい。
小高い山ほどもあるスタンドに鈴なりに群がる観衆のエンスージアズム(熱狂)は、全体としてみれば、巨大な津波のようでもあるが、細部をみれば、まるで人類が喜ぶときに見せるありとあらゆる表情をコレクションした細密画のようだ。どんな宗教やセックスやお金も、これほど多様な喜び方を人類に提供することはできなかったかもしれない、と思うぐらい。
「ブラジルはなぜ強いのか、その秘密を探ってきてくれ」と雑誌編集者に依頼されて、著者がブラジルの人々に聞き回る話が面白い。
「ブラジルでは、サッカー選手が地面からどんどん生えてくる。ロビーニョみたいな選手を1本刈り終えるころには、もうその周りでロビーニョが3本ぐらい芽を出し始めている」
という、現地のサッカー指導者の答えには腹を抱えて笑った。
そんな特殊な腐葉土が堆積する国とは、これから先三百年経っても勝てっこない。
サッカーという窓から見渡すと、世界はまた違った様相に見える。常識でこね固めた世界観が、あっさりフェイントをかけられて覆ってしまう。いわばサッカーによって世界が「異化」される瞬間というか。私が野球をではなく、サッカーを好きなのも、それがあるからかもしれない。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
『バルサとレアル』もオススメしてくださいませ。W杯ものではないけど。