«前月 最新 翌月»

ひろぽん小石川日乗

心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば

2002|10|11|12|
2003|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2004|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2007|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2008|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2009|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2010|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2011|01|02|
IT | book | cynicism | football | goods | life | media | movie | opinion | photo | politics | sanpo | sports | trip
「ひろぽんの南イタリア旅行記」はこちら。

2006-11-09 (Thu)

[book] 『ベルリン陥落1945』

先週後半から少し暇になったので、読みさしになっていたアントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落1945』(白水社)に取り組み、先ほど読了。画像の説明

戦史ノンフィクションものはめったに読まないのだが、夏に行ったベルリンという都市が、60年前にはどのような状態であったのかという興味から手にとってみた。ベルリン攻防戦は、東ドイツ国家の成立を含むドイツの戦後過程、そして東西冷戦の原点に当たるものだからだ。

これがむちゃくちゃ面白い。面白いというと顰蹙を買うかもしれないが、ソ連軍の進攻とナチおよびドイツ国防軍の抵抗を軸に、刻々と変わる戦況を、兵士や市民の手紙も含む膨大な資料と証言から再構成するその筆致は見事というしかない。1926年生まれでロシア語やポーランド語も解するという訳者・川上 洸氏の、当時の軍事用語を駆使した的確な翻訳ともあいまって、上質のノンフィクションに仕上がっているというのが第一の感想だ。

私が知らなかった重要事実について、いくつもの精緻な記載がある。たとえば、ソ連赤軍が行った略奪や婦女子への戦時性暴力の実態。ベルリン市内に限ってみても、「レイプされた10万の女性のうち、その結果死亡した人が1万前後、その多くは自殺だった」という記録が引用されている。ソ連兵は、ナチの収容所に囚われていた女囚や、隠れていたドイツ共産党員の娘や妻をも陵辱したという記載はショックである。

本書の原書が2002年にロンドンで刊行されたとき、当時の駐英ロシア大使が抗議文を新聞に発表したほど、その記述はセンセーショナルで、その凄絶さは、こうした性暴力は戦争には常につきものという、生半可な「了解」を超えるものだ。

もちろんソ連兵を暴行と略奪に駆り立てた背景には、ドイツの対ソ戦の過程で行われた占領地における徹底した暴力への、当然の報復という面があった。つまり、象徴的にいうなら、ベルリンはスターリングラードの記憶と切り離せないものだった。こうした報復の連鎖の禍々しさは、ベルリン市民の一人がSバーン列車内で聞いた、ドイツ復員兵のアジテーションに象徴される。

「この戦争には勝たねばならん。勇気をなくしてはならんのだ。もし相手が勝ったなら、そしておれたちが占領地でやったことのほんの一部でも敵がここでやったら、ドイツ人なんか数週間で一人も残らなくなるんだぞ」

ナチは占領地を略奪し、多くのソ連市民を「奴隷」としてドイツに拉致した。だからこそ、その報復として、ベルリンが崩壊すれば女性は全員がレイプされ、男性は全員がシベリアの強制収容所に連行されると、ナチは宣伝していた。そして一部はその通りになった。

戦争は、憎悪の連鎖であり、報復の鏡である。相手に与えた暴力と恐怖は、そのまま自分にも跳ね返るのが常だ。そして、その復讐のチェーンは、いまなお、世界各地で繰り返されている。

他にも、ヒトラーとスターリンの戦争指導力の実態、互いの宣伝戦や謀略、斃れゆく兵士の膨大な数と一つひとつのエピソード、敵前逃亡や裏切りを摘発するナチ憲兵や人狼部隊、同様にソ連側のNKVD(内部人民委員部)やスメルシュの暗躍など、相互の描写のなかから浮かび上がるのは、戦争一般がもつ悲惨さと同時に、ナチズムとスターリニズムの相似の表情である。


2006-11-14 (Tue)

[life] 自殺する若者

30年ほど前、井上陽水はこう歌った。

「都会では自殺する若者が増えている。今朝来た新聞の片隅に書いていた」

最近、バタバタと小中高校生が飛び降りたり首吊ったりして死を急ぐのだが、統計上は、陽水がこの「傘がない」を書いた時代のほうが、子供たちの自殺数は大きかった。ちなみに、1974年は277人。79年がピークで380人。それから右肩下がりで数字は減っている。小中高校生人口は当時と比べて減っているから、もしかすると自殺率はいまのほうが高いのかもしれない。ただ、近頃目立って若者が自殺し始めたわけではないのだ。

陽水の歌詞からは、ある意味で当時の時代性を感じるし、別の意味では時代は変わらない、あるいは繰り返すということも感じる。

「今朝来た新聞が...」と陽水は歌うが、傘を買う金がなくても、当時の若者は新聞を読んでいた。いまふうに言えば、「Yahoo!ニュースの下の方に書いていた」となるのだろうか。

テレビで「我が国の将来の問題を誰かが深刻な顔をしてしゃべっている」のは、当時も今も変わらない風景だ。深刻に語るのはいいのだが、テレビで語るぐらいでは何も変わらないのだが。

そんなことより、陽水にとっての「問題は今日の雨 傘がない」ことだった。そして「君」のこと以外は何も見えなくなっていた。「何も見えない」といいつつ、彼は新聞を読んでいる。若者の自殺を考えている。そのあたりが、いかにも70年代の若者風ということはできる。

[movie] 10〜11月に観た映画

例によって☆5つで満点。

『散歩する惑星』ロイ・アンダーソン監督 2000年スウェーデン/フランス DVD ☆☆☆1/2

ロイ・アンダーソンは欧州TVCF界の巨匠ということだが、私は彼の1970年(日本公開1971年)の作品『純愛日記』を忘れることができない。高校時代に観た。この前、高校の同窓生たちに聞いたらみんな記憶がないという。自分的にはティーンエイジャーの恋愛もの外国作品のなかでは生涯ベストなんだがな。タイトルの「純愛」とうらはらに、当時は新鮮なセックス描写が話題になった。

その監督の劇場作品で日本公開は、この『散歩する惑星』が2本目かも。70年作品のピュアで透明感のある映像とは違って、こちらは徹底的に絵づくりにこだわったシュールな作品。人物造形はグロテスクとさえいえる。大恐慌のような閉塞状況の街で、おじさんはリストラされ、車は延々と渋滞し、自分で自分をむち打つ宗教儀式のように人々は行進し、ついには犠牲の山羊として少女を断崖から突き落とす……。テーマがあるようでいて、ないような。たぶん、ないな。終末感の漂う、奇妙で滑稽な戯画を長回しで見せられるが、不思議なカタルシスはある。出演者のほとんどが素人というあたりだけ、70年作品と共通する。

『隠された記憶』ミヒャエル・ハネケ監督 2005年フランス/オーストリア/ドイツ/イタリア DVD ☆☆☆

欧州の映画祭では批評家受けする監督らしいが、映画は難解。一歩間違えば退屈。子供の頃の小さな過ちが、他人の人生を変転させた。その報いを受けるインテリ男の話。テーマはさしずめ「存在の耐えられない不安」というあたりか。本人も気づかない人種差別意識の深層というあたりも描き込まれているが、誰にもわかるように伏線を張ってくれるような親切な映画ではないので、観るほうはモヤモヤとした感じが残ったまま。ラストの長いショットの中に、ミステリーを解く鍵があるといわれるが、それこそビデオを巻き戻してスローで観なくちゃわからないような解題の仕方はナシだろうと思う。よくわからん、というのが正直なところ。

『影のない男』メナン・ヤポ監督 2004年ドイツ DVD ☆☆☆

最近ドイツ映画をまとめて観ている。これはドイツ版『レオン』だ。アサンシン(暗殺者)のヨアヒム・クロールは一見冴えない中年男。ジャン・レノよりももっと冴えない。暗殺者を追う捜査官のほうを主人公にすればよかったのに。邦題はかなり安直だが、原題が「LAUTLOS」(英語の SILENT) だからやむを得ないか。ただ、サスペンス映画としてのデキはそんなに悪くない。

(あと、6〜7本ほどあるんだけれど、時間がないので後記する)

本日のツッコミ(全3件) [ツッコミを入れる]

_ baci [「純愛日記」とは懐かしい。「ベニスに死す」の美少年が出た(脇役ですが)数少ない映画の1本だったので日本公開されたので..]

_ ひろぽん [あっ、覚えてくれている人がいた。美少年の名はビョルン・アンドレセンですね。]

_ baci [ついでにもう1つ。やはり陽水はスゴイと思う。だって30年以上経った今でもフット浮かぶ当時のメロディーは拓郎でも泉谷で..]


2006-11-17 (Fri)

[life] 工場へ

某誌で月イチ連載の「日本の工場」という企画を始めることになって、今週は名古屋の塗料工場、静岡の玩具工場と連戦中。しかし、工場はものづくりの魂と知恵と工夫のかたまりだけに、2〜3時間の話だけでその精髄を知ることは不可能だ。さらっと触ることぐらいしかできない。

そうこうするうちに、他の締切も殺到中。週末には鬼のように仕事をせねば。中期的にも2月までは息つく暇もないほど忙しいみたい。


2006-11-19 (Sun)

[movie] ケン・ローチ監督作品

■ケン・ローチのパルムドール受賞作品『麦の穂をゆらす風』が公開されている。これは近々ぜひとも劇場で観たいと思っている。舞台設定は、1910〜20年代のアイルランド独立戦争。かつて『マイケル・コリンズ』が描いた時代とダブる。

ちなみに、『麦の穂〜』のサイトにあったアイルランドに関係する映画リストで思い出したのだが、ディビッド・リーン監督の1970年作品『ライアンの娘』も背景はアイルランド独立運動だったのだな。女が、英国将校と不倫をしてコミュニティから排外されるのはその不倫のゆえだと、この作品を劇場で観た中学生時代は思っていたのだが、それはたんなる不倫ではなく、民族にとっての敵との密通という、コミュニティにとってはより「犯罪的」なものだったからなのだなと、今にして思う。

むろん、中坊時代は、そんなこともよくわからず、ただひたすら女優のサラ・マイルズとアイルランドの海岸風景の美しさに酔っていただけなのだけれども。

それはともあれ、ケン・ローチ。いくつか観ているはずだなと思ったが、強烈な印象があるのはスペイン内戦を描いた『大地と自由』のみで、初期の『ケス』はテレビで、2002年の『SWEET SIXTEEN』はDVDで、観たことがあるようなないような……記憶が怪しい。

■で、『SWEET SIXTEEN』をTSUTAYA DISCASで取り寄せたら、ああ、これ一度観ているわ。ただどうしちゃったんだろう、後半の展開はよく覚えていなかった。あらためて観て、これは記憶すべき作品だと思った。

画像の説明

舞台はグラスゴー周辺。少年リアムはまだ15歳。父はおそらく暴力か麻薬で死に、母は新しい愛人の身代わりで獄中にある。今はいやいや母の愛人と暮らしているが、学業はとうに放棄し、友人とタバコを売って小遣いを稼いでいる身。16歳の誕生日の前日に母は刑期を終えて出所する予定だ。リアムは、母が愛人との関係を絶つことを願い、姉やその息子と一緒に住める新しい家を探している。家族はとうの昔に崩壊している。彼は姉と共に、一時は施設に預けられていた。

16歳になるいま、リアムは自らが、この崩壊した家族を再生しなければならないと、男の子らしく努力を始める。何度も光明が差すかに見えて、しかしその手前で光は残酷なまでに閉ざされる。出口はどこにもない。結末は悲惨の極致だ。Sweet どころか苦すぎる16歳の誕生日。

ケン・ローチの政治的立場や映画が追求するテーマは明解で、徹頭徹尾、社会の底辺でのたうつ人々に視点をすえているのだが、けっしてその作品はプロパカンダ的ではない。また、ハリウッド的な意味での、いかなる「ハッピーエンド」をも拒否する姿勢が、そこには貫かれている。

監督の、この映画での少年に対するまなざしは優しいが、それはたんなる人への優しさという意味を超えたものだ。ドキュメンタリストとしての冷徹な視点がベースにある。かと思えば、そこには弱きものを光で包み込む神の気配さえ感じとられる。だが本来、それは社会がもつべき「優しさ」なのではないかと、彼は訴えているように思う。

リアム役の俳優はこれが映画初出演。その前は、スコットランドリーグの2部か3部のチームと契約していたプロサッカー選手だったというが、演技はかなりうまい。少年期と青年期の淡い境界に漂いながら、母や姉への甘え、友人や甥っ子への優しさ、不良少年としての暗い決意など、さまざまに変転するシーンを、表情一つで演じきっている。(2002年 イギリス/ドイツ/スペイン☆☆☆☆)

『やさしくキスをして』の舞台もグラスゴー。監督はもしかしてここに住んでいるのだろうか。詳細なストーリーはリンク先に譲るとして、一口でいえば英国における移民問題を背景にしたラブストーリー。

画像の説明

以前に、『ベッカムに恋して』という映画を、少女スポ根映画だと思って観ていたら、背景にあるのは移民問題だったということがある。サッカーの試合中に、インド系の少女は相手選手から「パキ!」という言葉で罵られる。言うまでもなくパキスタン系住民への蔑称だ。差別する側には、インドもパキスタンも区別がつかないのである。

『やさしくキスをして』の語り口は、『ベッカム〜』によく似ている。ここでも学校で「パキ!」と罵られる、パキスタン移民の一家の妹のほうは、顔まで『ベッカム〜』の主人公パーミンダ・ナーグラにそっくりだ。

ただ、背景の書き込み方は本作のほうがずっと深い。なぜパキスタンの一家がイギリスに移住しなければならなかったのか。そして、なぜ息子や娘の自立への希望を抑圧してでも、宗教やコミュニティや血族の伝統を守らなければならないのか。それが一家のヒストリーを語るなかで描かれる。そこにあるのは、移民コミュニティの側の防衛的な非寛容だ。

それと対照的に描かれるのは、もちろん、イギリス社会、なかでも、カソリック・コミュニティにおける非寛容ということになる。正式に離婚していない若い女性が、イスラム教徒の青年と同棲していることだけで、その女性は職場を追われる。日本ではすぐにはピンと来ない話なのだが、これは当地では、教区の司祭をエキセントリックなまでに激昂させるスキャンダルなのだろう。

なにせ、グラスゴーはサッカー場でカソリックとプロテスタントが殴り合いを演じる街なのだそうだから、ましてや異教の神を信じる者などと、というわけだ。

互いが属するコミュニティの、非寛容な視線にさらされ、侮蔑され、妨害されながらも、二人はこれからも愛し合いたいと思う。その愛が成就するのかどうか、映画は何も示唆してはいない。

リアル世界でありうる選択として、駆け落ちのようにして別の街に出奔することは不可能ではないだろう。しかし、それはけっして真の解決ではないはずだ。この映画は、必ずしもカソリック社会やパキスタン人コミュニティという特殊性に依拠してつくられたものではない。そこにおける差別と不寛容は、おそらく地球上どこにもあり得る話、どこに逃げようが若い人々の前に立ちはだかる壁なのだとして、監督はこの映画を差し出しているのだから。

イスラムとカソリック、たとえ信じる神が違っていても、二人は会話できるし、恋人としての生活さえ営むこともできるはずだ。それなのに、それを不可能にする社会がある。どこへも逃げることができなければ、二人は別れるしかないのか。そうはさせたくない。しかし何ができよう……。監督と同様に観客もまた、ジレンマを抱えたままに、映画は終わる。

原題の「Ae Fond Kiss...(やさしいキス)」は、劇中で演奏される歌の曲名で、その詩はスコットランド詩人ロバート・バーンズによるものだとか。その旋律があまりに甘美なだけに、道ならぬ恋の行方を思えば思うほど涙がにじむ。(2005年 イギリス/ベルギー/ドイツ/イタリア/スペイン ☆☆☆☆)

■ケン・ローチには近作として前述の『麦の穂』以外に、オムニバスの『明日へのチケット』『11'09''01/セプテンバー11』がある。いずれも未見。一貫して、社会に対して問題を提起する作家であることはたしかだ。もう少し観てみたいと思い、アマゾンの中古で『カルラの歌』(1996年)を買ってみた。


2006-11-20 (Mon)

[movie] ヒトラー映画

■WoWoWで『ヒトラー最期の12日間』を録画しつつ、途中から観る。ナチス政権最終末の戦況や、ヒトラーやゲッペルス一家の自殺の過程、登場人物の何人かについてのエピソードは、先日読んだ、アントニー・ビーヴァーの『ベルリン陥落1945』の記憶がまだ鮮やかだったこともあり、わりとよく理解できた。

画像の説明

ヒトラー役のブルーノ・ガンツ(名演!)をはじめ、第三帝国の建築家アルベルト・シュペーア役のハイノ・フェルヒ(『トンネル』の主人公)、シェンク博士役のクリスチャン・ベルケル(『影のない男』の捜査官役)と、見知った役者の顔が何人かが登場。ヒトラーの個人秘書で、この映画の原作の一つを書いたトラウドゥル・ユンゲ役のアレクサンドラ・マリア・ラーラの無垢な演技もなかなかよい。

まさにこの世が終わらんばかりの悲愴感と、その反作用としての狂乱が同居していたベルリン地下要塞は、20世紀の戦争ドラマで欠かすことのできない舞台といえる。ほとんど妄想状態でベルリン防衛戦を指揮するヒトラーと、彼を恐れて客観的な戦況を伝えられない将校たちの自暴自棄ぶり。それでも豊富にあった酒と食料で夜な夜な晩餐を重ねる地下壕と、ソ連赤軍の攻撃で廃墟となる地上との対比。

街灯には、敵前逃亡や敗戦思想のかどでSS憲兵隊や人狼部隊によって摘発されたベルリン市民たちの処刑死体が吊されている。ニヒリズムもここに極まるともいえる、世にもおぞましい情景だ。

日本でも大きな観客動員に成功した映画だけに、賛否両論も含めて映画関連ブログも賑やか。なかでは、ここここが参考になった。アントニー・ビーヴァーの本に影響を受けていると思われるものの、前者のいう、赤軍の進攻をナチスとベルリン市民がどれだけ恐れていたか、という部分が描き切れていないという点は同意する。ただ、それはこの映画の決定的な瑕疵とまでは言えないだろう。

■ヒトラー関連でいえば、コスタ・ガブラス監督の『ホロコースト〜アドルフ・ヒトラーの洗礼』(原題:AMEN)とヨ・バイヤー監督の『オペレーション・ワルキューレ』(原題:Stanffenberg 2004年ドイツ/日本では劇場未公開 ☆☆☆))も最近観ている。前者はSSの衛生研究所所員クルト・ゲルシュタイン、後者は1944年の7月20日事件の首謀者の一人、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐の、それぞれヒトラー政権に対する反抗を題材にしたもの。いずれも史実の一端を知るという意味では勉強になる。

画像の説明画像の説明

より重要な作品は前者のほうだ。ゲルシュタインのことだけでなく、ゲルシュタインと共にユダヤ人虐殺の事実をローマ法王に直訴しようとした若い神父のエピソード(史実かどうかわからない)も描かれている。神父は結局、ローマ法王に裏切られた思いを感じ、宗派を超えた人道的な決意に基づいて法服の胸にダビデの星のマークを縫い付け、イタリアのユダヤ人と共に強制収容所に送られ、そこで死んだことになっている。

ナチスのホロコーストに対して、明確な抗議をすることができなかったローマン・カトリックを断罪するという、ガブラス監督の意図は明確だ。ただ、映画としては『ミッション』のようなみずみずしさには欠けるかもしれない。(2002年フランス/ドイツ/ルーマニア/アメリカ 日本では劇場未公開☆☆☆)

ナチスとバチカンの関係については、ここの記事が参考になるかも。それによれば、「この映画は、『第10回フランス映画祭横浜2002』において上映された長編17作品中、最も長く大きな拍手を浴びた。終演後、来日したガヴラス監督と集まった約千人の観客との質疑応答は、深夜まで続いた」という。


2006-11-21 (Tue)

[life] 今日は朝から

今日は5時から起きているな。仕事がたまっちゃったもので。原稿カキカキ。なかなか終わらない。朝ご飯は抜いて、昼ご飯を作って、途中で取材のアポイント入れをやって、テレビを20分だけ観て。夕方6時からは打合わせで青山へ。いい息抜きになるんだけれど、帰ってくるとたぶんグッタリだろうな。その後、仕事の続きができるかどうか。


この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。