「〜させていただく」という過剰にへりくだった物言いの、日本語としてのおかしさについてはつとに指摘されているところである。たとえばプロの歌手が「これから新曲を歌わさせていただきます」というとき、私の背中には虫酸が走る。「結構です、歌わなくていいです」と言いたくなる。
「させていただく」は、文法的には「使役 + 受益 + 謙譲」というマルチ機能を「全部盛り」したような無理な言い回しで、この筆者が指摘するように、「相手の意志に関わらず自分のために実行する決意が感じられ」、結果的に「不遜な」印象を与え、「話者が本来表したいだろう謙譲と一致しない」ことになる。
先日、とあるメールの文面で「表題件、お知らせさせていただきます」という文言を見つけた。「標題の件につき、お知らせ申し上げます」というのが正しい日本語であろう。この人は実際に会ったときの話し言葉でも、金科玉条のごとく「させていただく」を連発する。それが唯一の敬語表現だとでも言うかのごとく。「させていただいた」側は、望んでもいない過剰サービスを押しつけられ、料金だけでぶったくられるような気分になる。
知人のブログでも「お付き合い差せて頂いている」「紹介差せて頂きたい」という表現があった。「〜させる」のような使役動詞についてはひらがなで表記するのが編集業界の原則であるが、それは問わない。しかし、「お付き合いさせていただく」は「お付き合いしている」で十分意が通るのであり、「紹介させていただく」に至っては、かえって「そこどけ、オレが紹介するのじゃ」という身勝手な意思を感じるので、印象はよくない。このあたり、みんな改めるよーに、この場を借りてお願いさせていただく。
いずれも岩波本。ブレッソンの写真は何度も見ているが、あらためて代表作を並べると、それぞれのひとの人生に対する潔さあるいは切なさが伝わってくる。それを際だたせているのが、写真のチカラだ。
東北大片平キャンパスへ日帰り出張。仙台は東京より湿度が低く、すがすがしい初秋の空。取材は未来の乗り物を研究している学者先生。話は面白いし、その発想や思想には同感もするが、予算が取れない研究者に限って、それを政治のせいにするっていう傾向はあるなあ。
金曜日なので実家に寄ろうかと思ったが、仕事がたまっており、かつ明早朝から台湾なので、とんぼ返りで帰京。「お豆腐入り揚げかまぼこ・むう」というのをお土産に。これなかなか美味だわ。
_ 長官 [鶏がセクシーですね。]
福島県南部いわき市出身者限定の話題と思ったていたら、いつの間にか、大ヒット作品になりつつある映画『フラガール』を有楽町のシネ・カノンで観た。
沢木耕太郎が言うまでもなく、「ベタすぎる」ほど「ベタ」なストーリー。ただ、ベタすぎて白ける直前で、観客を魅了する力がこの映画にはある。
ド素人がひょんなきっかけから、スポーツ・芸能の門を叩き、周囲の反対にもめげず、刻苦勉励、努力を重ねて、最後は大団円を迎えるという、いっしゅのスポ根もの映画の典型的作品。
しかし、単純な骨格のストーリーに、昭和40年代という時代性、産業構造改革・リストラという社会性、フラダンスという異邦の芸能の魅力、方言も含めた地方色などを巧みに配し、物語を膨らませている。それらの要素こそが、ヒットの要因かもしれない。なにせ昭和レトロ、フラダンス、ジェイク・シマブクロは現在のブームでもあるし、リストラは形を変え、現代のサラリーマンにとっても切実な問題であるのだから。
それらの要素を盛りこんで、マーケティング的にもかなり成功した映画の部類に入るのではなかろうか。
似たような映画をふと思い出した。閉山する炭鉱と崩壊する地域コミュニティという意味で似たような状況を、イギリスではマーク・ハーマンが『ブラス!』という映画にしている。ただ、『ブラス!』の舞台となったイングランド北部の炭鉱町グリムリーでは長期にわたるストライキが闘われた。崩壊する地域社会の現実も、より深刻に描かれている。
だが、常磐炭鉱ではリストラに対する抵抗は弱く、閉山問題は資本主義的解決で終結した。その「右」的な解決は、三井三池闘争と比較しても明らかだ。『フラガール』はそれを反映してか、全体には明るいトーンが貫かれている。閉山後も続く炭塵被害の問題などはなかったかのように。
それはともあれ、灰色のズリ山と坑道の暗闇、列なす炭住長屋に破れ障子を新聞紙で覆うような生活、こうしたモノトーンの色調に対して、抜けるような秋の空、そして赤や黄色のダンスの衣裳という色彩対比はあざといまでに鮮やかだ。
主演(松雪泰子よりはこっちを主演と呼びたい)の蒼井優のダンスと、笑いながら泣ける演技は率直に評価したい。
土曜日の午後4時の回は満員で入れず。6時40分からの回もほぼ満席。鑑賞後のエレベーターのなかで「昔はお風呂に入りがてらショーをよく観たのよ。懐かしいわ〜。最近は規模もずっと大きくなってね。特に夜の、ファイヤーナイフダンスというのがすごいわよ」てなことを話す、同郷人と思しきおばさまの会話が聞こえた。思わず、「実は私も、小学生の頃、あそこのプールで滑って転びましてね……」とツッコミを入れたくなった。
人間関係的にほんとは顔を出したくない飲み会があって、以前はとても楽しい会だったのが、ある日を境に正反対に苦痛になって、でもすでに私の意思も汲んで日程が組まれてしまっているし、行くと一度言った手前、顔を出さないとまずいし、でもそれを意図的ににドタキャンすることで、隠然たる意思表示になると思ったり、なんとかそこから逃れるために、のっぴきならない理由ってのをデッチ上げる算段をしたり、その時間帯に無理矢理仕事を入れようと画策したり……グダグダ考えながら一日過ごした。
それだけが理由ではないが、仕事もなんだか手につかない。
これまで鬱症状というのは他人事だと思っていたが、おそらくこういう小さな「イヤイヤ」が日常的に降り積もってゆき、それがいつかそう簡単には剥がれない澱のように沈殿し、次第に心を塞いでいくのだろう、などと思う。
こんなことを感じるのも一種の更年期というか、心の柔軟性が失われつつある証拠なのだろうか。そうに違いない。アンチ・エイジングはまずは心からだな。
主演は、田中裕子と岸部一徳の「ザ・タイガース」繋がり。同じ町に育ち、高校時代につき合っていた高梨槐多(岸部)と大場美奈子(田中)の二人だが、あるやっかいな事情と偶然のために、つき合いは途絶えてしまった。しかしお互いのことは忘れたわけではなく、その後も同じ町に住み続ける。槐多は結婚し、市役所の児童福祉課勤め。美奈子は独身のまま50歳になり、スーパーのレジや牛乳配達をして暮らしている。唯一の趣味が本を読むことだ。
槐多の妻・容子(仁科亜希子)は末期癌であとわずかの命。病床で、夫が若いときからずっと別の女を思い続けており、それが毎朝牛乳配達に来る美奈子であることを知ると、意を決してある日、美奈子に手紙を書く……
とまあこんなストーリーなんですが、いわゆる淡々系の映画ではあります。人の思いって、やすやすと移ろうもののようで、そう簡単には消滅しない。周囲に何も起こらなければ、その秘めた思いは、そのままの形で墓場まで持って行かれたのかもしれないけれど、死にゆく妻、痴呆になった叔父、親に遺棄される子供など、別の生の起伏が、二人が互いに閉ざしていた心の蓋を一瞬にして破砕することになる。
そんなにスゴイ映画ってわけじゃないけれど、田中と岸部のしみじみとした演技がいい。50代の夫婦が見て、互いの来し方を語るにもちょうどよい題材かもしれない。むろん、50代の独身者にとっても。
私は、作中、槐多が市役所を訪れた85歳の老人を掴まえて、切羽詰まったように「50歳から85歳までって、長かったですか?」と尋ねるシーンが一番深くグサっと来た。長いんだろうね、きっと。怖いくらいに。
(監督 緒方明/原作・脚本 青木研次/配給 スローラーナー2004年。WoWoWで視聴。公式サイトはこちら。評点☆☆☆)
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ 長官 [私もクマムシ本読みました。ナマコガイドブックがとても面白いのでお読みください。http://booklog.jp/a..]
_ ひろぽん [ナマコについては、アジア海洋民族の貿易という観点から詳しく調べた人に鶴見良行(故人)という人がいて、私の愛読書の一つ..]
_ 長官 [昔の中国の人は海に潜ることはしなかったので海鼠や鮑は日本から輸入していた、とかの話でしょうか。ナマコガイドブックは生..]