先の同窓会でもちらりと話題に上っていた四方田犬彦の『われらが<他者>なる韓国』(平凡社ライブラリ)を昨晩読了。パクチョンヒ独裁が倒れた80年代初期に書かれた文章がほとんどだが、その頃の左派に主流の植民地主義への贖罪感、あるいは週刊誌メディアに溢れつつあった大衆文化ブームの浮かれたメガネ(キーセン観光を含む)でその地を見る視点からは離れ、よりリアルに韓国の文化状況を活写しようとする。なかでも韓日にまたがって数奇な生涯をたどった詩人・金素雲へのオマージュがいい。
最後に収められた「人はいかにして在日になるか」という文章は、日本文化の渦中にいながらにして、「わたしこそが日本であると確信し明言しきった瞬間に、足もとの台座をすっともっていかれそうな気がする」四方田の立ち位置を示すものだろう。その不安と緊張こそが、彼の文章を澄み切らせる。そこが少しだけ、関川夏央とは異なる。「在日」とはここでは「在日・日本人」の謂いであるのだ。
四方田に触発された格好で、あらためて近代日本の植民地主義を勉強しようと思った。いまや、思想界はポストコロニアリズムの時代で、いやそのポスコロさえ遅れているとかいわれている時代にあって、実証主義的な歴史観の立場から書かれたコロニアリズムの実際をあらためて学ぶことは、けっして意義ないことではない。岩波の叢書『近代日本と植民地』を何冊か注文。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。