仕事以外のことになるとマメに記録するタチではないんで、4/23-5/9のポルトガル旅行、思いつくまま、記憶にあるまま、あれこれと……。
エールフランス便のパリ経由で、現地時間午後6時半に到着したのがポルトガル第2の都市ポルト。陽はまだ高いところにある。Porto は O Porto と表記することもあって、航空業界の空港コードでも「OPO」と表記される。ここでいう O はポルトガル語の定冠詞で、英語で言う The のことらしい。
The Porto と言われましてもねぇという感じで、空港は暗く小さく、ポルトの歴史地区も当然ながら古色蒼然たる印象。まあ、欧州の旧市街というのはたいていこういうものだが、それにしても最初は、街に佇む老人密度が異様に高く感じた。
宿泊は旧市街中心部、ポルトガル国鉄(CP)サン・ベント駅そばの「メルキュール・バターリャ」という仏アコー社グループの中規模シティホテル。ちょうど角部屋で窓が二方に開かれ、教会の塔の眺めが美しい。一昨年のスペインに続き、BANCOTEL 経由で予約し、バウチャーで支払う形式で、ここに都合5泊した。
同行のAに指示されるまま、翌日から、坂道の多い歴史地区、ドウロ川周辺などを積極的に歩く。天気は午前中は曇っているが、午後からは晴れるという展開。これはリスボンでも続き、結局、17日間の旅程中、ほとんど雨が降ることはなかった。
たしか到着の翌日の日曜日だったと思うが、バスに乗ってドウロ川河口を越え、郊外の公園まででかけて帰る途中、街中心部に戻るバスを探しあぐねていると、バスを待っていた若い日本人男性が親切に教えてくれた。車内で雑談をしていると、ポルトガル人建築家の元で働いている人らしい。それが日本でAが情報を得てきた当の人物I氏だった。「何かあったら連絡をしてみては」と言われてはいたものの、わざわざ会いに行こうとまでは考えていなかったのだが、偶然の邂逅に双方驚く。
「ポルトに5日は観光としては長いですね」とI氏はいろいろと見所を教えてくれる。そのお薦めにしたがって、小さな渡し船でドウロ川対岸に渡ったり、その後、彼の師匠の建築家アルヴァロ・シザが設計した現代美術館があるセラルヴェス公園に出かけることになった。建築といえば、先日日本旅行を一緒にしたドイツのウォルフガング氏から聞いていた、レム・コールハース設計になる音楽堂にも行ってきた。閉館時間に間に合わず、外から眺めただけだったが。
ポルトは2001年に「ヨーロッパ文化都市」を宣言し、いくつかの文化事業に取り組んでいるが、この音楽堂建設もその一環。世界遺産の歴史地区やポートワイン工場だけでなく、こうしたモダンデザインを含めての文化発信なのであろう。
ポルトガル料理といっても日本ではあまりなじみがない。旅行前に調べた範囲では本格的なポ料理レストランは東京に3軒ほどしかなかった。うち、2つは系列店である。そのうちの一つ、「マヌエル コジーニャ・ポルトゲーザ」で食べた話は以前書いたが、旅行前に私が食したポ料理はこれが初めてのものだった。
ただこの店の料理をレファレンスモデルにすると、現地の大方の料理は、まず量が多すぎて、かつしょっぱいことに驚くだろう。量が多すぎるというのは美味さに影響するものである、ということを痛感した旅でもあった。「マヌエル」の料理は美味しいが、これは味付け、量ともに日本人向けにアレンジされているとみてよい。
さらに、ポ料理はフレンチやイタリアンに比べると、全般に「田舎風」で「粗野」な印象がぬぐえない。つまり、美味にうっとりとか、頬が落ちるとか、舌がとろけるとか、そういう語彙とはなかなか縁遠い世界なのだった。体感した現地ポ料理の美味しさ確率、つまりガイドブック基準で選んで入った店で、これまたガイドブック基準でチョイスしたメニューで舌鼓を打つ確率は、せいぜい55%程度。むろん舌の感覚は人それぞれだし、たまたまおいしい料理に出会えなかっただけなのかもしれないが……。
たとえば、イワシをオリーブオイルで焼いただけの「サルディーニャス・アサーダス」なんていうのは、美味いことは美味いのだが、つまりはたんなるいわしの塩焼きであって、ナザレあたりの海岸村の細い路地でおかみさんたちが焼くものであり、高級レストランで給仕されるものではないと、日本人なら思うはずだが、それでもちゃんとレストランのメニューに載っているのである。しかも、さほど安くはない。日本円で1500円前後取るところもある。一人前5本も6本もイワシが出てきて、付け合わせのポテトもたっぷりとなった日にゃ、3本目ぐらいでうんざりというのが実態である。
ポルトガルのガイドブックには必ず出てくるのが「バカリャウ」を使った料理である。「バカリャウ」とは干し鱈のことで、街の市場やデパ地下には、
真っ白く塩をまぶした写真のようなものが山ほど売られている。ポルトガルでは、このバカリャウを使った料理が365種類あると、ガイドブックには書かれているが、この数字に根拠はない。毎日食べても飽きないぐらい、ポルトガル人は好きだというぐらいの意味だろう。
バカリャウの本体は塩が強いので、まず一晩水につけて塩気を抜き、その後、そのまま茹でたり、焼いたり、フライにしたり、炒めて卵とじにしたりするという。ちなみにスペインでも「バカラオ」という名前で同じような食材があるらしいが、私はスペインでこれを食した記憶がない。
バカリャウのコロッケは、レストランの前菜としてもよく出てきた。これはまずまずの味なのだが、それに気をよくして、バカリャウとタマネギ炒めの卵とじである「バカリャウ・ア・ブラス」なんぞを頼むと、もうそれだけで他には何も入りませんってなぐらい、巨大な量で出てくる。しかもしょっぱいので、少し箸をつけただけで、もう結構です、ということになる。バカリャウ料理をいくつか試してみんなそんな感じだったんで、我々の食卓では4日目ぐらいからは、バカリャウ禁止令を出さざるをえなかった。それを食っていたら、他のものが食えないのである。
そもそも、鱈は北の海の魚だ。これは日本も同じこと。南欧のポルトガルで鱈がそんなに獲れるとは思えない。おそらく北大西洋北部の漁獲を大量に輸入しているのだろう。かつて北欧バイキングが長期にわたる航海ができたのも、大量の干し鱈を船に積んでいたからだといわれる。鱈は今でもノルウェーでの水揚げが多く、70年代にはイギリスとアイスランドが漁場をめぐって砲艦が打ち合うという、いわゆる「タラ戦争」まで勃発した。北ヨーロッパの人にとっては、ことほど貴重なタンパク源なのだが、これを干して保存したものをポルトガル人が好むというのは、生鮮食品の流通事情がよくなく、かつ貧しかった時代の名残ではなかろうか。古きを温ね、食文化の歴史を知るために食すというのなら一興だが、短い観光旅行のさなかに、そればかりを好んで食べるというほどのものではない。
別の意味でまずかった料理に、「Acorda:アソーダ(cの下にアクセント記号)」というのがある。これはスープに堅いパンを浸した「パンがゆ」のこと。単体で出てくることはなく、何かの材料との組み合わせが多く、たとえば「アソーダ・デ・マリシュコ」といえばシーフードのパンがゆということになる。これは味はともあれ見た目が悪い。もとは古くなったパンの再活用という狙いがあったようだが、出来上がりは冴えない土色をしたどろどろ状態。それが山のように皿に盛られると、見ただけで食欲が減じる。ポルトガル中南部エヴォラで、元は修道院だったというポサーダ(古城などを改造した少人数の高級ホテル施設)のデイナーでこれが出てきたときは、ロマンチックな雰囲気と料理の激しく大衆的なたたずまいに、目が点になるほどのギャップを感じたものだった。
まずい料理のことばかり書いたが、もちろん美味い料理もある。それはまた別の日に。
_ アジャ [料理の量が驚くほど多いのは辛すぎだったけど、バカリャウ・ア・ブラスはもっとバカリャウの塩抜きをしたら美味しいはず。干..]
料理はともかく、ポルトガルの人は旅行者にめちゃ温かい。それを物語る一件を、いまのうちに記しておこう。
5月5日、我々はリスボンからオビドス(現地の発音だとオビドシュに近い)への一泊エクスカーションを試みた。オビドスは、リスボンから80kmほど北方にある、古い城壁に囲まれた小さな村である。中世の夢を見たまま眠るようなたたずまいが、日本人にもたいそう人気だと聞いた。
リスボンからは長距離高速バスで、カルダス・ダ・ライーニャ(Caldas da Rainha)という交通の要所まで行き、そこで別のバスに乗り換えて10分ほどと聞き、地下鉄ジャルディン・ズロジコ(動物園駅)、国鉄セテ・リオス駅そばのバスターミナルから、 Rede Express(長距離バス会社の一つ)に乗り込んだ。切符はちゃんと、ライーニャまでで発券してくれたが、窓口嬢が示した番線にその時間についたバスの行き先は「Leiria」(レイリア)とある。今から思えば、全然スペルが違うのだが、我々はなぜか「ライーニャ」も「レイリア」も同じと思いこんで、「このバスの終点で降りればいいんじゃないか」とお気楽にバスの車窓を流れる風景を楽しんでおったのだ。
約1時間10分。二人ともすっかり眠り込んでいて、ふと目覚めると、バスはどこかの街のバス・ターミナルに滑り込むところだった。時間にすればここが、そろそろライーニャだが、どうも終点という雰囲気ではない。そうこうするうちに、バスは乗客を乗せたまま、次の目的地に向けて走り出す気配である。
「オビドス行くのは、今のところで降りるんじゃないの?」「いや、まだだろう」などと我々が騒いでいるのを不審に思った乗客の若い女性が、英語で「オビドスなら、ここで降りなければならないのよ」と言ってきた。「あちゃあ」。バスはスピードを上げて市街を走り抜けようとしている。「バスを止めた方がいい」とその女性がいうので、運転手に掛け合おうと運転席まで行ったが、なにやら強い口調のポルトガル語で彼は「○△×ポルトゲーゼ!」と怒鳴るのみ。私には「おいらは、ポルトガル語でしか受け付けねぇぜ」と言っているように聞こえた。
困り果てて座席に戻り、「彼は私の英語を理解しない」と先ほどの女性に訴えると、彼女は席を立ち、運転手にポルトガル語で掛け合ってくれた。しかしどうにも埒があかない。
「彼のポリシーで途中でバスは止めないってさ。あなたたちは、次のマリーニャ・グランデという停留所で降りて、そこから戻るしかないわ」というのだ。「マリーニャ・グランデ」とは初めて聞く地名だ。我々が持ってきた2つのガイドブックの地図には、記載されていない。彼女は、そのスペル(Marinha Grande)をガイドブックのライーニャとナザレの中間地点に書き込んでくれた。
「そうか、ナザレのほうが近いのか」。ナザレは、オビドスの後に立ち寄る予定にしていた、海岸沿いのリゾート村である。オビドス→ナザレという順番を、ナザレ→オビドスと逆にしたって、何か困る理由があるわけではない。
バスはそれから20分も走り続け、小さなバス・ターミナルに到着した。「グランデ=英語の grand」という名にはあまり似合わない、何の変哲もない地方の町だ。
我々は、親切なバスの女性にお礼を言って、マリーニャ・グランデという予定外の街に恐る恐る足を踏み入れた。小さなバスの待合室には、バスを待つのか、暇をつぶしているのか、老人たちが5、6人いるばかりである。
ナザレ行きのバスを探すか、もう一度、ライーニャに戻るべきか。ターミナルの壁に貼ってある地図で、その経路を探していると、チケット売場の若い女性が出てきて、なにやらポルトガル語で話しかけてくる。英語は理解しないようだったが、身振り手振りで、オビドスに行こうと思ったが、ライーニャのバス停を乗り過ごしてしまったこと、ナザレが近いのならナザレでもいいかと思っていることを、なんとか伝えた。
チケット嬢は、私の意思をほぼ理解したようだが、それでも念のためにということなのだろう、私の腕をひっぱって、近所の雑貨屋まで連れて行ってくれた。そこは中国人が経営していた。同じような顔をしているから言葉も通じるとでも思ったのだろう。しかし、その中国系の店員は英語を解さず、代わりに中で買い物をしていたポルトガル人の男性客が英語を話してくれた。3人とも顔なじみという風である。
「オビドスもいいけれど、ナザレも捨てがたい魅力がある」というようなことを彼は言う。先にナザレに行って、帰りにオビドスに寄ったらいいじゃないか。ナザレだったら、ここからそう遠くはないよ。
現地の人のサジェッションに従って、我々はナザレ行きを決定。約1時間後の次のバスの時間を確認し、チケット嬢に切符を売ってもらった。
陽射しのきつい暑い午後だった。ターミナルの外のベンチで我々は次のバスを待っていた。先ほどのチケット嬢は、次のバスが到着するまで時間を持てあましたのか、待合室の老人たちの話し相手になっている。旅案内をしてくれたお礼もかねてあの店で水を買おうと、先刻の雑貨屋に顔を出した。「agua, sem gas, dois」(ガス抜きのミネラル・ウォーター2つ)は、今回の旅行で最もよく使ったポルトガル語の一つだ。ところが、ペットボトルを2本差し出しながら、中国系の彼は「Nao!」(a に鼻母音のアクセント。ナオンと聞こえる。英語の No、いいえの意)と笑いながら手を振り、お金を受け取ろうとしないのだ。「道に迷った人たちなんだから、お金なんていいよ」という顔をしている。たまたまレジのところにいた太ったおばさん客までが、彼に同調して「ナオン、ナオン」と言う。
これには涙が出そうになった。たんにバス停を間違えただけで、我々は致命的に困り果てていたわけではない。解決策も見いだした。けれども、彼らにとっては、予定外の街に迷い込んだ旅行者は、そのまま無下に見捨てておけない存在なのだ。次のバスでこの街から立ち去り、おそらくもう二度とは戻ってこない、通りすがりの旅人だけれど、いやだからこそ、水ぐらい恵んであげよう。そんな、掛け値のない素朴な親切が嬉しかった。
マリーニャ・グランデ。地図にもないポルトガルの小さな街(いや、詳細なポルトガルの地図にはちゃんと載ってますけどね)。そこで受けたささやかな温情こそ、今回のポルトガルの旅を象徴するものだったと、私たちは後になって思うのである。その後の、ナザレもオビドスも、素敵な観光地だった。しかし、それ以上にマリーニャ・グランデの人々のことは、忘れがたい思い出である。
今年のUEFAカップ決勝戦は、せっかくの大舞台を地元リスボンのジョゼ・アルバラーデ21スタジアムで迎えながら、スポルディング・リスボンはCSKAモスクワに勝てなかった。もしもここで優勝できたとしたら、リスボンの街は革命騒ぎであっただろう。
■ ポルトガルにはサッカーも観に行ったのである。最初の予定では、スーペルリーガ(一部リーグ)4月24日30節・ボアビスタvsモレイレンセ戦をポルトで、30日に31節・ベンフィカvsベレネンセス、5月8日に32節・スポルディングvsギマランイス戦をそれぞれリスボンで観る予定にしていた。
■ しかし24日はポルトガル入りの翌日。時差ボケやら旅の疲労が残って、サッカーどころではなかった。30日のベンフィカ戦は観たが、最も期待していた8日のスポルディング戦は、UEFA準決勝戦が5日にオランダで行われたこともあって日程が変更され、9日の月曜日という変則開催になった。我々はその前週にアルバラーデスタジアムにチケットを買いに行くまで、その変更に気づかなかった。いや、実際に窓口でチケットを購入してから、「あれ、9日って日曜日じゃないのか?」と気づくという体たらく。月曜日は帰国便に乗らなければならないので、どうしたって夜のゲームを観る時間はない。2週間の旅行ですっかり曜日の感覚さえ失ってしまっていた。チケット売場での購入をそばで英語でサポートしてくれたお兄さんに、「9日は絶対月曜日!」と言われて、やむなく買ったばかりのチケットをキャンセルして返金してもらうしかなかった。
■ その売場には、5月18日のUEFA決勝戦のチケットも売りに出ていた。もし旅の日程がずれていれば、国内リーグ戦ばかりか、めったには観られない欧州カップ戦の決勝戦、それも地元チームが地元で闘う試合を万余のスポルディンギスタと共に観ることができたのに……。しかし、えてして旅とは、そしてサッカーとはこういうものである。
■ さて、30日のベンフィカ戦である。ベンフィカはリスボン郊外の住宅街。フットボールチームは1904年に設立された。創立当初はベレン地区の裕福な子弟が参加するチームだったが、ほどなくベンフィカに本拠を移した。70年代には「モザンビークの黒豹」ことエウゼビオを擁し、かつてはルイ・コスタもパウロ・ソウザも在籍した。
■ 1930年代からポルトガル一部リーグはFCポルト、スポルディング、ベンフィカの3チームのいずれかが優勝するという寡占傾向があり、それは現在も変わらない。ちなみに、今季はイタリアの名匠トラパットーニに率いられたベンフィカがUEFAカップ決勝を控えたスポルディングを、5月14日のリスボン・ダービーで破ったことで、現在3ポイント差でスポルディング、FCポルトを押さえ首位に立っている。もしこのまま逃げ切ることができれば、93/94シーズン以来のリーグ優勝ということになる。しかし、ポイント差はわずか。優勝決定は5月22日の最終節までもつれ込んでいる。
■ ベンフィカのスタジアム「エスタディオ・ダ・ルス」は地下鉄 Colegio Militar/Luz 駅からすぐ。ちなみにこの駅は巨大ショッピングセンター「Colombo」とも繋がっている。2004年の欧州選手権(Euro 2004)の決勝戦が開かれたところで、チームカラーの赤を基調にしたド派手なカラーリングはテレビで観ていて印象に残っていた。
■ 優勝を狙える位置につけてのリーグ終盤戦、ファンも気合いが入り、1時間前に会場についたのに人で混み合って、なかなか座席につけなかった。これはちょっと入口の動線に問題ありだと思った。スタジアムは満席とはいえず9割の入り。だが、ファンの多くが赤いユニフォーム、座席も赤く塗られているので、スタジアム全部が真っ赤っかという感じである。我々の席はゴール裏の高いところで、選手の顔はわからないが、フォーメーションなどはよく確認できる位置だった。お値段はたしか 30 ユーロだったと思う。キックオフ前からマフラーをふって気勢をあげるファン、応援歌にあわせて「ベンフィーカ!」の掛け声、途中には場内を何周もするウェーブ、最後にはチームのマスコットのほんものの鷹が飛び立つというパフォーマンスも楽しかった。
■ 試合は前半から完全に押し気味のベンフィカが最後のツメの甘さと、ベレネンセスの堅い守備でなかなかゴールが破れず、結果的にはPKの1点を守りきって逃げるという、危うい勝ち方。それでもここに来ての勝点3は大きく、ファンは大喜び。だが、客観的には大味なゲームだった。ベンフィカの選手で知っているのは、Euro 2000 での大活躍やその後のフィオレンティーナへの移籍で世界的に知られたヌーノ・ゴメスと、ポルトガル代表のシモンぐらい。ヌーノはゴールにからむことなく後半途中で交替させられていた。今季は7得点ぐらいで、シモンの半分。イケメン系で日本でも人気のある選手だけに、ちょっと心配だ。
■ スカパー!でのたまの放映と、生で1ゲーム見ただけで何事か語る資格はないが、ポルトガル・ナショナルチームに期待できるスペクタルさは、少なくともこのゲームからはあまり感じられなかった。しかし、こうしたリーグ戦で揉まれるなかから次代のゴールデン・エイジ、ポルトガル代表が生まれることはたしかである。
■ 試合の翌日の夕方、リスボンの旧市街アルファマ地区の広場で休んでいると、自転車遊びをする小学高学年ぐらいの男の子2人が近寄ってきた。子供たちとの世界の共通語はサッカーだ。ここぞとばかり、『旅の指さし会話帳 ポルトガル』(くりかおり著・情報センター出版局)を使ってコミュニケーションを試みる。「あなたたちは兄弟ですか?」「ナオン、アミーゴだよ」、「どのチームのファンですか?」「リシュボア」「僕はベンフィーカ」、「サッカーではどんな選手が好きですか?」「ロナウド」(これはおそらくマンU在籍のクリスチアーノ・ロナウドのこと)「ジョアン・ピント」……とか、結構通じたのが嬉しかった。
■ もうすぐ夕飯の時間なのだろう。ポルトガルのレストラン料理にちょっと飽きが来ていた我々は、少年の家に招かれて、本場のポ家庭料理を味わいたいなどと夢想した。そんな図々しい気配を感じたのか、少年たちは 「Tchau!」(チャウ、簡単なさよならの挨拶)と手を挙げて夕闇(というか、まだまだ明るい)に消えていった。
ちょっと面倒になってきたんで、写真説明だけでポルトの項を終わらせちゃおう(写真番号がとびとびでごめんなさい)。
ブラガへの一日エクスカーションを経て、我々は4月28日、ポルトガル国鉄(CP)の InterCity 列車に乗ってリスボンに向かった。ポルト─リスボンには、ICよりも速い「アルファ」という特急列車が走っているのだが、ポルトのカンパーニャ駅でちょうどよい列車がなかった。
狭い国土のこと、ポルト→リスボンはIC列車でも3時間半だ。リスボン市内には長距離列車が発着する駅がいくつかあるが、我々はホテルの関係で、市東北部のオリエンテ駅(写真右)に降り立ち、そこから地下鉄に乗り換えて、オライアス(Olaias)に向かった。4/28から5/8まで荷を解くことになる「Hotel Altis Park」は、地下鉄オライアス駅から徒歩1分のところにある。
リスボン到着の午後4時すぎから早速行動を開始する。まず、ホテル最寄りの地下鉄オライアス駅(写真左)だ。ここは、98年のリスボン万博に合わせて開業した駅らしい。駅舎内部とプラットフォームの偉容は、写真では伝わりにくいかもしれないが、きわめて「異様」な構成美である。
地下鉄の駅になんでこんな巨大な空間が必要なのか。駅の周辺にはいわゆる団地風のマンションがひしめき、おそらく朝夕の通勤ラッシュにはこの広大なプラットフォームにも人は溢れるのであろうが、しかし、それにしてもこの天井の高さや、巨大なモニュメントのような金属製の列柱には驚きを禁じ得ない。
モノの本によれば、ポルトガルというより、リスボンっ子には、人口や経済規模に見合わないほどの巨大建築をよしとする傾向があるのだという。それは、巨大ショッピングセンター、オリエンテの「ヴァスコ・ダ・ガマ」や、ルス駅の「コロンボ」でも感じたことだし、テージョ川沿いに、エンリケ航海王子500回忌を記念して1960年に建設された「発見のモニュメント(Padrao dos Descobrimentos)」の、異様なまでの壮大さにも通じることである。
ま、建築物の巨大さを民族の誉れと感じる心性というのは、けっしてポルトガル人に特有のことではないかもしれないが……。
それにしても都市デザインという観点からみれば、駅舎というのはそれ自体きわめて重要なメディアである。なかでも地下鉄は現代的な都市モニュメントの一つであり、そこにデザインの粋を凝らすというのは、ある意味当然のことだろう。
かつて、鍾乳洞のような雰囲気をもったストックホルムの地下鉄や、駅名を達筆の書で揮毫した香港の地下鉄の構内に私は「美」を感じたことがある。オライアス駅のデザインもまたその一つとして記憶されることになるだろう。それは、どこの駅もほぼ同じ印象しか与えない、日本のほとんどの駅舎のデザイン的貧困との対比において、より鮮明になる。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ 小石川ぢ [美味しいポ料理はいかがでしたか?ワイン&オリーブオイル無しでは食事できない体質になってらっしゃらないかと心配です。 ..]
_ kusa [写真がどれも素晴らしいなあ]