8日は勝手に一日完全休養宣言をして、6時半起床。ハードディスクにたまっているリーガの録画を1本消化してから、久方ぶりに小説など読む。昼過ぎに外出して、本郷まで歩き、喫茶店で本を読み続ける。コートを脱がせる温かい日射し。夕方から池袋で映画を観て8時過ぎに帰宅。
そのままだったら平穏無事な一日だったのだが、映画鑑賞中に電話などあった模様。帰宅後、原稿の一部直しをそそくさと。パブリシティ記事じゃないんだからさ、まったく。とブータレつつ、それを終えてせいせいと就寝。えっ、10時半に寝ちゃったよ。まるで年金生活者の老後の一日ではある。
前作『ボーン・アイデンティティ』が面白かったんで、その続編。はぐれ系アクションヒーローもの。記憶喪失、秘密部隊、偶然の女、インド・ゴアからナポリ、ベルリン、モスクワまで至るワールドワイド性、そしてお決まりの激しいカーチェイスなどなどアクションムービーの王道はちゃんと押さえている。
ただヒットの最大要因はマット・デイモンの抑制の効いた演技と、エージェントたちとの死闘アクションだろう。前作見てないといまいち入り込めないかもしれないけれど、シリーズものってのは本来そうでしょ。前作よりやや劣るがそこそこ楽しめる。で、2作目の興行収入次第では第3作「いよいよボーンの出生の秘密が明らかに!」があるとみた。
それにしても、EU統合の時代に米CIAがなんでヨーロッパでこんなに暗躍しているのか。しかも、各国警察組織との連繋がなんでこんなにうまくいくのか。それはともあれ、仮想敵を失った国家スパイ組織は、汚職まみれで自壊していくという話。敵は内部にありだわな。(5点満点で☆☆☆)
共に初めて読む著者の作品。『明日の記憶』(荻原浩)は、若年性アルツハイマーにかかった、50歳の広告代理店部長の話。ほぼ著者自身の年齢でもあり、私の年齢でもある。私自身、昔から物忘れがひどい人だから、まったく他人事ではない。最初は「それってよくあるよねえ」という感じで読み進むが、主人公の病状はだんだん深刻になっていく。
昨日も散歩に出かけていて、もしもあるとき、その街並みの風景が、一瞬記憶から抜けてしまったらと想像したら、背筋が凍り付くようだった。記憶の死滅こそ、人間の本質的な死なのだ。逆に思い出の豊かさこそ、人間の生きた証なのだという本書のメッセージは、いまさらながら同意。記憶に茫漠としたベールがかかっていくさまや、自我の崩壊へのおそれの心理描写はうまい。ドラマ・映画化にも十分耐えられると思うが、逆にいうと、それだけ通俗性が高いということでもある(誉め言葉じゃないよ)。
『枯葉の中の青い炎』(辻原登)は、不思議な読後感をもたらす短編集。最初の2編は神秘なラピスラズリの石がつなぐ連作なのかと思ったが、なんかハチャメチャなストーリー展開で、ちょっとついていけなかった。しかしストーリーの破調と物語想像力の渦巻きは、おそらくこの作家の持ち味なのであろう。ザーサイとキンギョがシンクロする「ザーサイの甕」のお話など、けっこう笑える。表題作は、スタルヒン伝説に依拠しながら、もうひとつの伝説(フォークロア)をそれこそ魔法のように紡ぎ出す。南洋の島で民話を採集した中島敦の話は事実だが、そうしたノンフィクションと端からデタラメの虚構を、複雑にからみあわせながら、読者を物語のシャングリラへと誘い込む。…という狙いはよくわかるが、すっかりそこで酩酊してしまわなかった私は、感性が鈍っているのであろうか。
9日は午後から打合わせで八丁堀へ。帰路、小腹がすいたので、ときおり顔を出す御茶ノ水の立ち食い寿司屋へ寄ろうと途中下車、店の前で夕方の開業にはまだ早いことに気づく。そのとき携帯に電話があって、某誌で急遽、カード・スキミングの話を書くことに。編集者が「柳田邦男のスキミングの本、読んでませんよね」という。『キャッシュカードがあぶない』(文藝春秋)のことか。目の前にたまたま丸善書店あり。なら明日の打合わせまでに読んでおこうと立ち寄ると、平台に『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』なる本。アメリカ文化史は昨年のマイブーム。ふと手にとると高校・大学の先輩、MK教授が編者ではないの。嬉しくなってつい購入。偶然の巡り合わせってほど大げさなものではないにしても、丸の内線車中で小腹が空かなければ、先輩の本を買うのはもっとずっと後になっていたことだろう、というお話。
午前から午後3時まで原稿書き。夕方から青山で打合わせ。1時間ぐらいかかるかと思ったら、30分で終了。30分の打合わせなら電話で済ませてくれよなあ。赤坂みすじ通りあたりをブラブラしてから後楽園へ。
文京シビックセンターで、知人が教えてくれたシンポジウム「ジャーナリズムは政治権力とどう向かい合うべきか」に参加。
ワシは今はジャーナリストではないけれど、物書きの端くれとしてむろん日本のジャーナリズムのありようには関心をもつ。NHKでロッキード事件の頃に現役で、その後、左遷された2人の元記者と、立教大の服部孝章教授がパネリスト。NHK出身記者の語り口が、極は左右すれど、田原総一朗と似ているのが笑える。テレビ記者ってのはなかなか弁が立つものなんだな。服部教授がイメージと違って、えらい戦闘的なのに驚いた。広河隆一氏が発言するのを初めて聞いたが、言葉は深く重たい。その語り口と姿勢に一瞬打たれて、会場で販売されていた氏の写真集を購入する。
会場は、ワシなど若く見えるぐらいの、老年の方々が大半。あとは、若い学生風がちらほら。総数150名ぐらいか。なんらかの形でジャーナリズムにかかわっているベテラン記者さんたちが多いのだろうけれど、この問題への関心がそうした職業領域に留まってしまっているのが、なんとも悔しい。「慰安婦も南京虐殺もファルージャも、つまり戦争も侵略もなにもかもがなかったことにされてしまう危機感」(広河氏)は十分共有できる。得ることの多いシンポジウムではあった。
さて、明日は広島出張。気分が良ければ一泊してくるかな。
13日はSとの定例の映画会。韓国軍事政権下に、朴大統領の理髪師になった男の一家の物語。『殺人の追憶』であらためて注目したソン・ガンホ主演。国家権力へのたくまざる批評精神、したたかな庶民のユーモアなどうまく描かれている。陰惨になる部分をあえてユーモラスに処理する画法は、一種の余裕と取るべきか、それとも娯楽作品にするための必定なのか。Sは「菊」は日帝の象徴だというのだが、それは気づかなかった。
監督のイム・チャンサンという人はまだ若いんだねぇ。若い人にも歴史意識があり、映画への信頼があり、民衆に寄り添う視点があることが、はっきりみえる映画ではある。(☆☆☆1/2 {☆5つで満点})
映画を見終わった後、大久保のコリアン・タウンで焼肉して韓流に浸る。韓流グッズの店がいくつかできていて、あらためて驚く。ただ「鐘路本家」という店はあんまり美味くない。
さらなる韓国映画への興味で、その晩、借りてくる。新感覚サイコホラーという触れ込みで、たしかにホラーなんだけれども、それ以上に、高層マンション群に代表される都市近郊における孤独と不安を形象化した作品とみるべきだろう。その意味では日本の近年のホラー映画と情景や背景は共通する部分が少なくない。そういう現代風景の地のなかに、シャーマン的な土俗的要素をもった人物が紋様として浮き彫りになる、まだらなアジア的近代。高いところから墜落するシーンが3度あり、その墜死への監督のこだわりは何なんだろう。ただ、高層マンションから落ちてくる墜死者と一瞬目があってしまうというエピソードは、どこか別の映画で観たことがあるような。(☆☆☆1/2)
ルシネマで売っていたので購入。2001年の号で、昨今のいわゆる韓流ブームに乗ったわけではないが、逆に同誌の先見性を感じる特集。外国映画の参入をあえて阻み、自国の映画人を育てるという国の映画政策についても若干の解説。突如として『シュリ』や『JSA』それ以降のヒットがあったわけではなく、それに至る韓国映画の源流や軌跡がある程度たどれるものになっている。
韓流とはいうが、昨日の韓国KBS放送(NHK-BS放映)では、今年明けてからは日←→韓の観光客が減少気味。竹島(独島)問題や現韓国政権の対日賠償見直し発言などが影響していると報じている。だが、表層的なブームなどは去った方がいい。そういうものとは別に、朝鮮半島へのまっとうな関心は持続してきたのだし、これからも持続すべきなのだから。
このところ日記が滞っているが病気ではない。仕事が急に暇になったので、書くことがなくなってしまったのである。いや、人と会ったり、本を読んだり、映画を観たりはしているのだが、なんかダラけちまって、書く意欲がいまひとつ湧かなかったのだ。たとえば先週は韓国映画マイ週間と決めて、DVD/ビデオを8本連続で見続けた。その感想はいずれ。
4月初めの四国・近畿方面旅行の詳細を決め、4月下旬からのポルトガル旅行のチケットと宿の手配をした。ポルトガルは17日間の、オレとしては長旅になる。ってことは、3月中旬に続いて4月もオレはほとんど仕事をしないことになるのかな。あちゃあ。
ま、人生勤続半世紀記念休暇つーことで、自分で自分を許してあげよう。
小石川の千川通り、たしか以前はコールセンター会社が入っていて、それが引っ越した後しばらく空いていたビルの1階に、4月1日「あゆみbooks」という書店がオープンするらしい。オープニングスタッフ募集の貼り紙が出してあった。フロアの規模でいうと中型書店だが、小石川界隈では白山通りの「あおい書店」と同じか、少し広いかという感じ。「あゆみbooks」といえば私が1月の日記で感動的に記している仙台の書店の系列であろうか。だとすれば期待がもてる。最低限「あおい」の品揃えよりは充実してほしい。夜11時前後まで開いているみたいだし、千川通りの活性化にも貢献してくれるはず。ただ開店まで1週間しかないのに、いまごろアルバイトを募集していて大丈夫なんだろうか。
『イルマーレ』(2000年:イ・ヒョンスン監督 DVD)
『猟奇的な彼女』(2001年:カク・チェヨン監督 DVD)
『春の日は過ぎゆく』(2001年:ホ・ジノ監督 DVD)
韓国テレビドラマは見ていないので、そこで描かれている恋愛というのはどういうものかよく知らないが、映画の方はけっこう面白い。原題の「時越愛」が示すとおり、パラレルワールドとタイムトンネルというSF的小道具を仕掛けにして、交差する2人の恋愛を大人の童話のように描いたのが、『イルマーレ』(☆☆☆)。
イルマーレはイタリア語で「海」の意味であると説明されるが、映画では干潟に建つ現代建築家が立てた住居のことである。この建物はこの映画のためのセットである。そこに続く桟橋や部屋の内部の鋭角な構造が、二人の間に存在する時空の歪みやすれ違いを表象している。その家や、二人が出会いを期する済州島の一本の大きな樹など、印象的な風景がいくつもある。ストーリーをたどるよりも、ただ映像に酔いしれるべきかも。
『イルマーレ』のヒロイン、チョン・ジヒョン(全知賢)は、その翌年は爆発的なヒット作『猟奇的な彼女』でブレークし、2003年には一転して暗いキャラの『4人の食卓』、そして昨年は『僕の彼女を紹介します』(未見)で汎アジア的な人気女優になった。
『猟奇的な彼女』(☆☆☆1/2)に示される、芯の強い、性格のくっきりした女性と、それに気圧されながらもついていく優柔不断な男というのは、現代韓国恋愛映画の基本パターンなのだろうか。後述の『春の日は過ぎゆく』も基本はそうだった。
『猟奇的な〜』はジャンルでいえば軽いドタバタ恋愛コメディだが、役者のキャラがくっきりとしており、かつ演技もうまいので、きっちり芝居を観たという気になれる。99年にパソコン通信に実際に投稿された実録の恋愛話が映画化の発端だというから、日本で言えばさながら『電車男』か。この映画も二人の出会いには駅や電車が登場する。二人の肉体的な交わりが明示的でないところも、電車男? 大学の授業での代返、若者が集う居酒屋、ラブホテルや援助交際など、韓国の現代若者風俗がふんだんに盛りこまれており興味深いが、同時に日本と韓国の都市部というのは、若者の風俗という点ではほとんど変わらないのだなと思う。
ただちょっと意外だったのは、大学生のはずの二人が高校の制服を着て、高校のパーティに潜入するというシーン。大学生にもなってなぜ高校へ、というのが解せない。
ちなみにチョン・ジヒョンは『4人の食卓』(既評 2003年:イ・スヨン監督 ☆☆☆1/2)では一転して、嗜眠症(ナルコプレシー)で精神科に通う人妻を演じる。ナルコプレシーというのは『麻雀放浪記』の作家、故・阿佐田哲也の持病として知っていたが、横断歩道の前で急に倒れてしまうのでは生死にかかわる。ともあれ、これはよく人が倒れたり、墜ちたりする映画である。この女性監督は正立した人間というものに、どこか不信感を感じているのかもしれない。チョン・ジヒョンの女優としての幅の広さが感じられる作品だ。
『春の日は過ぎゆく』(☆☆☆)は、気まぐれな浮気性で、結婚に対してドライかつ臆病な年上の女性に翻弄される若い男の話でもある。というと身も蓋もないところを、松任谷由実も作曲で参加する美しいバラードの主題歌・挿入歌、川のせせらぎや竹林をわたる風の音で覆うことで、リリカルな悲恋物語に仕上げた。女が地方ラジオ局のDJ、男がサウンドエンジニアという現代的な職業であることもあり、基本は都市的モダーンな恋愛映画なのだが、そこに田舎の光景を巧みにからませている。
たんにアンハッピー・エンドに終わるからというだけではなく、男と女の微妙な心理のずれが最後まで残り、見終わった後にどことなく不安な気分が残る。そのあたりを、雑誌ユリイカの特集で韓国の女性映画評論家・金素栄が詳細な分析と共に、全体を「待合室の映画」と評していて、まさに言い得て妙と思った。男と女がすれ違うのは結婚や人生の待合室にてなのだが、女はそこに留まり、男はそこから出て行くという構図だというのだ。
ホ・ジノ監督は『八月のクリスマス』(1998年)が知られているが、まだ観ていない。というようにまだ観ていない映画がたくさんあるのだが、恋愛映画という一つのジャンルだけでも、ただものではない韓国映画のすごみを感じるのである。
3/30(水) 午後から打合わせと取材。帰宅後、北朝鮮×イラン戦の後半を観る。PK判定をめぐり北朝鮮選手猛然と審判に襲いかかる。あれはやりすぎ。レッドカード1枚は処分としては軽すぎだよ。激昂すると止まらなくなる性格は、困ったものだ。
7時からは日本×バーレーン戦。そういえば、夕方の東京メトロ南北線は埼スタに向かうユニフォーム姿の客が目立った。平日の電車のなかで青色ユニという光景はW杯以降一般化したなあ。でも、オレは恥ずかしくてやらないけど。
ゲームは、美しい日本のパスサッカーを久しぶりに堪能。第三者として見れば、楽しい試合だったろうねえ。でも、きれいなだけでは点が取れない。ゴール前の気迫が相手のオウンゴールを誘ったとはいえ、これではバーレーン・アウェイ戦が思いやられる。これまで日本のドイツ行きを確信していた私だが、もしかするとダメかもという不安がちらっとよぎる。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。
_ yu [見たくないものを見えなくして、なかったことにしてしまう...というのがこの国のやり方かと思う今日このごろ。気持ちだけ..]
_ ひろぽん [「見えなくしてしまう」には何かで覆わなければならないわけで、昨今のライブドアvsフジ問題の過剰なまでの報道などはその..]