著者サイン入りの四方田犬彦『ブルース・リー──李小龍の栄光と孤独』を読了。カンフー(著者によればクンフーと発音すべしとのこと)のポストモダン的なかつ哲学的な継承者たらんと志しつつも、香港という植民地との距離の取り方を探しあぐね、死後は世界の抵抗的ナショナリズムを鼓舞する表象として神格化されたブルース・リー。一カンフー・スターの演技を、ここまで深読みすべきか、ちょっと戸惑うところだが、映画分析手法の一例としてなかなか面白かった。実はこの人のまとまった映画論を読むのは初めて。これまでは旅のエッセイとかが多かったから。文中、「メケメケな」とか、「コレオグラフィー」という単語が註釈抜きに出てきて面食らう。後者は「振り付け」と解せるが、前者については「メケメケな演技」とか言われて、はて、どう解釈すればいいのか。
映画論の流れで引き続き、川村湊の『アリラン坂のシネマ通り──韓国映画史を歩く』へと進む。著者の『海を渡った日本語──植民地の「国語」の時間』は、戦中、南洋諸島で日本語を教えた中島敦らの仕事に触れながら、植民地支配の過程における日本語教育の問題をえぐる大変優れた言語帝国主義論だった。こちらはそれとうってかわって、やや軽い筆致、どっちかというと趣味的なタッチで韓国映画の系譜をたどる(ま、映画が本業の人じゃないんでね)。
四方田も川村もほぼ同年代で、共に韓国の大学で教えたことがあり、かつその地で映画を観まくったという共通する経験がある。対談でもさせると、さぞかし面白い話が聞けそうだ。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。