80年代後半の韓国。軍事独裁と警察署における拷問が日常化していた時期、ソウルという都市をひとつの起点にした近代化の波の外縁部に起きた猟奇殺人。セメント工場の黒ずくめの労働者たち、雨の日のラジオのDJ、韓国版学校の怪談、ソウルからやってきた刑事、アメリカに検体を送るDNA鑑定などの新しい意匠を織り交ぜながら、牧歌的な農村の暗い影のような部分が、よく描かれている。事件の猟奇性を孤立させるのではなく、それを韓国社会の変貌とからめて描いた手法は見事。ときおりディビッド・フィンチャーの『セブン』を彷彿とさせるのは、雨の日のシーンが多いからだろうが、しかし全体のトーンはさほど暗くはない。拷問シーン一つとっても、ユーモラスだ。ただ、俳優たちの笑いが苦悩に変わる瞬間、つまりは観客の哄笑が沈黙に変わる瞬間の、底深い演技力は秀逸だ。
原案になったトルストイの同名小説は読んでいないが、舞台は荒涼とした岩山と、イスラムの習俗が残るチェチェンである。しかし、チェチェン紛争の現実をリアルに描いているかというと、どうもそうではないらしい。そもそも、ロシア軍に捉えられた自分の息子と捕虜の交換交渉を、当の息子の親父が直接やるというのは、ちょっとあり得ない想定ではあるが、「報復するな」というテーゼの一つの寓話として観ればいいのだ。しかし、どうせ寓話として描くのなら、もう少し奇想天外性があってもよかった。全体としては凡庸さをぬぐえないが、しかし、映像の美しさ、少女の可愛らしさや兵士の純朴さに免じて、☆☆☆。
山下惣一の名は知っていたが、著作を読むのは初めて。農民的な語り口調で、彼が体験した戦後日本の農村の、解体と再生の物語を語っている。
アメリカの農作物輸出の片棒を担いで急速な農村解体を政策として進めた果てに、安全な食を失い、結局何を食べたらいいのかわからなくなった日本と日本人の哀れさ。この国では「国民に果たす農業の役割ばかりが強調され、国民が農業に何ができるかなど、たったの一度たりとも議論されたことはない」のだ。BSE、産地偽装などの問題が出るたびに、ざまあみろと叫ぶ筆者の気持ちはよくわかる。「日本農業とやらが滅びたって百姓は困りゃあはしません。どんな時代になっても…自分と家族が食べる分だけは作り続けるわけですからな。人さまの分をやめるだけですわい」という開き直りが、彼の舌鋒を鋭くさせる。
農業は本来循環型の地域完結型産業であって、国際競争や国際貿易あるいは経済構造改革などとはなじまない、とする筆者の立場。この論点は重要だが、もう少し精緻に考える必要はあると思う。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。