先日の汐留再開発地区に次いで、昨日は話題の「六本木ヒルズ」へ出かける。
平日の昼間の東京新名所は、おばはんと年金暮らし風の老人でごった返ししていた。
しかし、地下鉄で行くと、わかりにくいなあ、ここ。ショッピングモールにはまあ
簡単にたどり着けるのだが、そこからのビジネス棟への行き方がよくわからん。着
く前からいらいらする。
梅雨早く明けないかなあ。鬱陶しくてたまらん。昨日はまだ湿度が低かったみたい
だが。
来週からの香港はどうかなあ。今週の最高気温は33℃だった。日本ほど湿度は高く
ないとは思うけれど、7月の香港ってのは、久しぶりだからな。
久しぶりといえば、キェシロフスキの映画『ふたりのベロニカ』をまた観てしまう。
といっても3度目ぐらいだが。イレーヌ・ジャコブの美しさは、この作品と『トリ
コロール/赤の愛』が絶頂期だったのかもしれない。全編をとおして流れるアリア
の曲名を以前から知りたかった。劇中では200年前のオランダの作曲家の作品とい
うふうになっていたのだが、これは架空の作曲家で、つまりは、音楽担当のズビグ
ニェフ・プレイスネルのオリジナルということのようだ。でも、ちゃんと葬送の調
べのような歌詞までついているんだぜ。すごい才能だと、あらためて思う。
香港から帰ってきた翌日から、星野博美『転がる香港に苔は生えない』(情報セン
ター出版局) を読み出す。580ページを一気に読了。これ、とてもいい。
オレはD社の仕事で香港に行くとき、最近はほぼ香港島サイドで取材をし、会う人
といえば政府系エコノミストや銀行系アナリスト、香港系・日系企業の経営者、と
いったいわゆるホワイトカラーの専業人士(プロフェッショナル)ばかり。泊まる
ホテルは高級で、移動はタクシー。取材もほとんどが通訳付きの英語(今回は広東
語がメインだったが)だった。この本の著者の星野さんがこだわった、九龍サイド
のごみためのような庶民の街とは対極にあるような、まさに「100万ドルの夜景」
の下にいたのだ。
著者は、ビクトリアピークから見るこの夜景が嫌いだという。まだ啓徳空港があっ
た頃の話で、市内のど真ん中に空港があるために、飛行機を誤誘導しないよう香港
のネオンサインはあえて瞬かないようになっている。その静的なネオンが、あたか
もその下ではいつくばるようにして生きている人々の息づかいを殺しているようで、
彼女はいやだと思ったのだ。
香港が怖いのは、この天と地のような二つの世界が地下鉄で20分の範囲に同居して
いるところ。その棲み分けはただ唯一金があるか、ないか。著者も指摘しているよ
うに、香港は資本主義の原理が冷徹・苛酷に完徹される、世界でも希有な都市なの
である。香港からみたら日本は平等原理の社会主義世界だという話もよくわかる。
もちろん、オレとて、この香港庶民世界が嫌いだったわけではない。80年代前半に
初めて香港を訪れたときに、オレを魅了したのは、この猛烈な匂いと汗と喧噪にま
みれた九龍の下街の風景だった。彼女のように、そこに住もうとは思わなかったが、
日本という清潔な管理社会に慣らされた我が身のひ弱さを一瞬恥じたことはある。
しかし、そのときの感覚からずいぶんと離れてしまった。そのくせ「香港は面白く
なくなった」とグチってみたりして。しかし、それはたんなる短期的観光旅行者の
感想にすぎなかった。多様な人種と経歴をもつ人々が、規制と管理を嫌い、ゲリラ
のように生き抜く下町の庶民の生活が面白くないはずはない。「つまらない」と思
うのは、たんにそれが見えないように、高速で街を通り過ぎてしまうからだ。
ま、ガツーンと一発脳天をやられちゃったような、迫力があったわけだ。若い女性
ライターらしい、情緒的な記述もなかにはあるが、それもまた魅力の一つ。もちろ
んたんなるウルウン滞在記ではなく、香港の置かれた地勢的・政治的・経済的位置
についての分析も正確だと思う。オレがこの数年、まあ、それなりに接した「香港
人なるもの」への印象と重なりあう部分も多々あった。なにより語り口の物語性が、
この本の質をたんなる記録から作品へと高めている。大宅賞受賞にふさわしい労作
である。もうちょっと早く読んでおくんだった、と切に思う。
この日記について、筆者は必ずしも内容の信憑性を保証するものではありません。あしからず。